『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く31

2018年09月22日 | 学ぶ

なぜ米作りをはじめたか?
 近年、自然体験で、田植えや稲刈りなどの米づくりをする機会も増えたようです。しかし、その際「おもしろい遊び」以上の大切な意味をもたせている人はどれだけいるでしょうか?
  団を始めた頃、子どもたちのようすを見て、自らの小さいときに比べて欠けているものや変わってしまったものがたくさんあることに気づきました。なかでも、「がまんをする」・「時間をかける」・「土にふれる」・「ものをつくる」等の実体験がほとんどなくなってしまっているように感じたのです。

  たとえば、食事ひとつとってみても外食や出来合いのものですましてしまうことが多く、遊びに行くのは遊園地やテーマパーク。そこで手作りのお弁当を広げている家族は、最近ほとんど見たことがありません。
 「子どもが喜ばない」という返事が返ってきそうです。自分が『楽をしたい』『面倒だ』という本心が隠れていることに気づいているでしょうか。それによって、子どもたちが、取り組んでいる勉強に対して『楽をしたい』『面倒だ』と、自分と同じ感想をもつようになってしまうのが、子育てや教育での『怖いところ』です。そうした背景の中で、子どもたちをどう育てるのか、というのがまずたいせつなテーマでした。

 一緒にお弁当を作れば、子どもたちも喜びます。お母さんが「お弁当作り」をおもしろがれば、楽しいお弁当ができるはずです。「作ること」も覚えます。面倒なことでも世の中にはしなければならないことがあるということも身をもってわかるはずです。
 できない理由はいくらでも見つかります。自分が「できない理由」を挙げてスルーしているのに、子どもには『宿題をやりなさい』『勉強ができるようになりなさい』といっても、筋が通りません。心の底から子どもを納得させることはできません。
 「いい加減にすます時間」も「楽しく喜んでもらえるようなお弁当をつくる時間」も、どちらもお母さんの「生命を削っている」同じ時間です。ぼくが子どもたちに寿命や命の限りのことを伝えるのは、それらを頭の隅に置かないと、「ほんとうに大切なもの」が見えてこないからです。
 こう振り返ったとき、「自分の生命の時間」をどう使おうと思いますか。どういうふうにするのがよいと感じますか。老若男女を限らず、手間をかけず、がまんをせず、みんな、性急に結果ばかりをほしがるようにはなっていませんか。

 「土にふれること」を汚いとか、気持ち悪いとか思っているにもかかわらず、誰がどこを歩いてきたのかも分からない靴で踏まれた電車の床にべったり座って何も感じないこどもたち。それを注意しない保護者。どこかおかしい。こうした子どもたちの意識を変え、正しいことを教えていくにはどうすればいいのだろう。すぐ頭に飛び込んできたのが「田んぼ」での米作りです。
 青々とした稲の葉先に光る水滴のきらめき、側の小川から飛び立つ蛍が夏の訪れを告げ、やがて夕日を浴びて黄金色に育った稲穂が風に吹かれる様子で、自然の移り変わりのすばらしさと豊かな実りを、ぼくは本当に肌で感じることができました。
 農家ではなかったので自ら作業はしなかったものの、身近で見ていて米作りにかけなければならない手間と時間のたいせつさがよくわかりました。子どもたちにまず教えたいことでした。
 場所はどこがいいのか。大阪から遠くなく十分田舎が残っているところ、地の利があるところ、少し融通が利くところ。飛鳥でした。明日香村の高校時代の友人に話し、休耕地を借り、手伝ってくれる人の紹介をうけ、団の米作りは始まりました。

米作りで学ぶもの
 お百姓さん(この言葉の方が仕事の重みや親しみ、歴史が感じられるので、今後この言葉を使います)の言葉です。
 「二十年間百姓やって、米を毎年作っても高々二十回。ほとんどの農作物は一年かけて やっと結果が出る。最初は試行錯誤で、四・五年したら少し工夫ができるようになるが、それでも毎年、温度・雨・風・湿度・日照・害虫と、同じことは一つもない。その都度収穫量が変わり、人間の力の及ばない自然の力がわかる」。
 「二十年やっても高々二十回」。このことばの重みはどうでしょう。人間の力の及ばない力に気づいたとき、感謝や尊敬の念が浮かびます。こうした経験が「結果を出すためには時間をかけなければならない」という、日ごろは忘れている「たいせつなこと」を教えてくれます。同時に「人間は学ばなければならない存在だということ」も分かってきます


 百姓仕事の『時間』は学校や会社、街の時間とはまったくちがうものだ。田んぼや稲の手入れ、農作業は何時から何時と決まっているわけではなく、予測はついてもイレギュラーなことがある方がふつうで、終了は「作業が終わるとき」だ。計画していても、雨が降ればできない。刈ることはできても、刈った後の次の作業も天候に左右される・・・」。 
 「人間の都合ではなく、自然の状態によって必要な仕事や時間が決められる。できるときに必ずしておかなければならない。『後で』とはいかない。自分のペースだけで進められない」。
 この「時間の感覚」は、決して「なるに任せる」ではありません。「自分ができること」「最大限の努力」をしてあとは「天に任せる」。人はそれ以上のことができるでしょうか。

 そうした努力を日々重ねている人は「街」にどれだけいるでしょう。「子どもでも分かることが分からなくなっている大人」がどれだけ多いことか。 子どもたちは、こうした会話を聴いて育っていきました。
  米作りの一連の作業をすべてやりたいのですが、授業や課外学習も一人で進めているため、なかなかそういうわけにはいきません。「田植え」や「稲刈り」程度では、子どもたちがこだわるほどの問いは生まれないし、教科や科学に通じるまでの学びは生まれにくいという主張をどこかで読んだ記憶があります。
 しかし、教室での問いかけをふくめた総合的な展開で補い、「学び」を深化させていくことは十分可能です。まず「環覚」を育てることが何よりもたいせつです。

 「環覚」を育てるにはお百姓さんの知識も大きな役割を果たします。お百姓さんたちは、みなさんたいてい博識で知識も深く、様々な分野に精通しています。農業だけではなく、田舎で生きる、作物を作るという実践を通した「生きている」知識と知恵です。
 「生きている」というのは「使える」だけではなく、深く「『自らの生命の時間』と結びついた」という意味です。稲作に限らず、農作業はほとんど一回性であり、おざなりや手抜きをすれば取り返しのつかない結果を招きます。「生きていくこと」に、即関わります
 「あの山に雲がかかると雨になる」とか「こちらから風が吹いてきたから、もうすぐ雨がやむ」など地域独特の判断はいうまでもなく、みんな「良い天気の前兆」くらいにしか思ってない「夕焼け」も、お百姓さんの間では全く異なる解釈があります。
 「秋の夕焼けは鎌研いで待て。夏の夕焼けは川渡って待て」。
 秋は移動性の高気圧で、西の空が夕焼けなら次の日は晴れるが、夏の夕焼けは大気中に水蒸気がふえると出やすく、雨になりやすい。秋に夕焼けがあったら稲刈りの準備をしなさい、夏に夕焼けがあったら雨で水かさが増えるから川を渡ったら危ない・・・。

  また、農薬を減らしたお百姓さんの田んぼはそれほど発生しないのに、農薬を使いすぎると稲の害虫であるウンカが秋に大発生するという例もあります。ウンカより益虫の方が大きくダメージを受けるのでウンカが増えるということ。また農薬を散布する回数を増やすと、ウンカが農薬に抵抗力をもって進化してしまうことが大きな原因です。
 よく考えもせず農薬という「文明の利器」を対症療法として使うと、大きな失敗をしてしまいます。こうした話で人間の活動が生態系に与える影響の一端もよく分かります。ゴキブリが出たらスリッパ、何とかホイホイ、何とかジエットという経験だけで、この関連はなかなかつかめません。

  「魚付き林」ということばもあります。川の上流の森から流れ出す水が海藻を守り、魚や貝を育てる様々なプランクトンを養います。同じように「山付きの田んぼ」ということばがあります。山から流れてくる小川を通じて「山の養分」をもらえる田です。
 山の養分を流し込んだ小川はやがて大きな川に注ぎ、海につながります。また、養分の豊富な水を供給する山は、当然豊かに水を蓄える山でもあります。総面積が琵琶湖の数十倍ともいわれている田んぼも、急流が多く、すぐ海に流れ込む川の水を絶やさないために大いに役立っています。こうした知識にふれたとき、子どもたちは山・田・川・海のつながりをより深く理解します。
 海と山付きの田んぼを行き来するウナギがかつてはたくさんいました。海に戻るウナギにも思いを馳せると、知識は次第に立体的・総合的に再構成され、子どもたちの頭の中に「知の枠組み」が形作られていきます。成り立ちとしくみを総合的に理解することは、さらなる知的成長を促す強力なスプリングボードになります。

子どもたちは身体から学ぶ
  「米作り」は当たり前のことですが身体を使う作業です。 初夏の暑い日差しが照り続ける中で腰をかがめて何時間も行う「田植え」の作業は決して楽ではありません。特に小さい子にとっては初めての体験で、最初は面白いのですが、丁寧に植えなければならないという制約と「結果の見えない」作業の過酷さで弱音を吐く子も出てきます。しかし、その「過酷さがあってこそ秋の新米のおいしさが際だつ」ので、そこはがまんさせなければなりません。
 実は、はじめは二~三年生より四~五年生の方が要領よくさぼったり、さらに手抜きをする例が多く見られます。「米作り」は「遊び」ではないので厳しく注意します。お百姓さんの真剣な思いからくるアドバイスや叱声も、きちんと子どもたちに伝わります。「生きること」がこもっているからです。

  「米作り」は社会や理科を学ぶための付録ではありません。「生きていくために必要なものを作る」作業です。かけがえのない作業がかけがえのない知識と「学び」を育みます
 たとえば、田植えの苗を育てる際に種籾を選別するのを塩水で選ぶという経験は、「浮力」や「比重」の実験です。農作業で使う鍬一つとっても、実際使うことによって、「ふつうの鍬」より「三つ叉(備中鍬)」が、いかに掘る作業がしやすいかが実感できます。
 教科書や塾での学習で「備中鍬」の知識は持っていたとしても、それ自身では単に記憶の材料であり、受験知識に過ぎません。しかし、備中鍬の使いやすさを肌で感じたとき、人の歴史が成し遂げた「工夫」や「創造」の大きさと力が分かり、農具や稲作りの歴史にも興味が向かいます。

 経験は、米作りのみにとどまらず、やがて「生きていくこと」における「工夫」や「創造」することのたいせつさとして一般化され、積み重ねられていくはずです。実体験は「身体で分かる」体験です。
 『本で学んだ米作り』は「知っていること」ですが、『身体を使った米作り』は「分かっていること」です。「自信」と「次の学び」につながります。はじめて自転車に乗れたとき、ぼくたちはすこし遠出をしたくなったのではないでしょうか
  「リモートコントロール」一つとってみても、現在は、ものやものごとの成り立ちやしくみが見えにくい時代です。「見えない」生活が当たり前のようになっています。あらゆることに「自分が関わっているという実感」が希薄になり、感動や感激も少なくなっています。
  「わかる」世界は、出来事に浸り、直に関係することによって、「実感とともに」展開していきます。「はたらきかけ」や「作業」を通じての「学び」は、予測や予想の枠を超え、新たな展開や出会いをもたらしながら、自らの方法への問いかけや、次のはたらきかけの意欲としても生まれ変わります

  わかりやすくお話しすれば、 たとえば、慣れない子どもたちが網をもって魚やトンボを捕ろうと構えても、彼等はその都度予想外の動きをします。捕まえようとすれば、そのたびに子どもたちは自らの考えや動作をモニターし、修正しなければなりません。子どもたちは根気よくそれを繰り返していきます。はじめはおそるおそる見ていた子もほとんどがそうなります。
 彼等の頭の中では自らの姿が客観的にイメージされて、「第三者的に」見ることができるようになっていきます。『メタ認知』の発達です。課題を解決しようとする自分やその方法を絶えず振り返る自分が生まれるわけです
 そうした視点が人としての成長を促します。実体験による探求や試行錯誤、そして解答を見つけようという努力は、「自分が自分であること」の実感をもたらし、「学ぶ喜び」として結実します
  言葉だけの実感の希薄な「学び」ではつかみにくい手応えも「生きている現実」と向き合うことで確かなものになります。作業の途中での思わぬハプニングが新たな転回を呼び、工夫や新しい発想が生まれます。そうした経験が、子どもたちの「生きる力」を育んでいくのではないでしょうか、さらに、その「生きる力」が「生涯続く学びへの意識」を呼び起こすと考えるのは楽観的すぎるでしょうか。

「目的」のある作業で覚える義務と責任
  米作りの作業ではもう一つの大切なことが身をもってわかります。
  田植えや稲刈りなどを手作業でするわけですから一人ではできません。手伝いのお父さんやお母さんも含め、子どもたちとの共同作業になります。
 たとえば、田植えでは間隔を揃えて植えないと稲の育ち方や、後の作業に影響があるのできちんと並んで植えなければなりません。田んぼの広さと作業の一つ一つを考えた場合、それぞれ一人一人の責任が実感できます。
  中には飽きてしまって、何とかうまく逃れようとする児もいますが、今の作業は、秋にみんながおいしいお米を食べるための作業です。自らもその仲間にはいるのであれば、そこには当然義務と責任が発生します。目的のある集団が共同作業をすることによって一体感や、自らの役割が自覚できます。社会生活をしていく上での大切な前提条件です。

  しかし、最近の若いお父さんやお母さんは、子どもでもわかる自覚がない人が大変多くなっているような気がします。団員の弟や妹を連れて参加される人の中には、みんなが熱心に作業をしている横で、子どもたちを勝手に遊ばせ、自らは「遠足気分」で、連れ立ってきた人とぺちゃくちゃおしゃべりしている人も見られました。遊んでいる子どもたちに注意をしても知らんぷりです。
 団で育ってきた子どもたちは相手が大人ですから、口に出してこそ注意はしませんが、友だち同士で不服そうに目配せしています。彼等の方がみんなで何かするときのルールや役割をわきまえてくれています。子どもに何かを要求したり、子どもを育てるための条件が整っているといえるでしょうか。

  自らの権利を主張することはもちろん大切ですが、社会では義務と責任とのバランスがとれていなければなりません。「マスコミの報道をはじめとし、今は飛び交っている情報が、視聴者や一般受け狙い、営業向けの『権利の主張』の方に偏りすぎていることが多い」と考える人は少なくなってしまいました
 権利と義務と責任のバランスが根付いていない社会が、どんどん凶悪な犯罪の温床を助長するという想像力がはたらく日本と日本人は消え失せてしまったのでしょうか? 諸外国より日本の犯罪が極端に少なく、安全がはかられているのは、そういう国民性が根付いているからだと、ぼくは考えます。権利の主張しか知らない人が子どもを育てたれば、恐ろしい世の中が待つことになります。権利と義務と責任のバランスがとれて初めて、みんなの幸福が成立するという原則を、子どもたちに、いつ、誰が教えるべきでしょう。『米づくり』一つ、『田植え』『稲刈り』という毎年の作業で、ぼくたちは子どもたちにこうした、抽象に終わらない指導を行うことができます
To teachers all over the worldは休載します。


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