『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて⑧ 日常の発見1

2014年02月08日 | 学ぶ

 かつて深瀬昌久さん(写真家)に写真を撮るようにアドバイスされ、西井(一夫)さん(編集者・評論家)には「南淵さんに写真を撮ってもらうような雑誌を作ります」と激励を受け、胸が熱くなったことがあります。残念なことに、ぼくが写真を撮れなくなっている間に、お二人とも旅立ってしまいました。今少しずつ撮れるようになりました。先日から時々掲載している「ある日」という一連の写真は「レクイエム」のつもりです。お二人に届きますように。

 さて、「環覚」について話してきました。
 学習内容が身近にならない。学習対象が自らの日常生活や自然環境で出会えるものであっても、それに気づかない。いつまで経っても「教科書で」・「教室で」・「先生に教えてもらう」という意識から抜けきれない
 これが現在の日本の多くの子の小学生時代(には限りません)の「勉強」の実態です。学習はこうして始まってしまっているのです。それでは、天才科学者や偉人たちの「学習」はどのように始まったか。覗いて見ることにしましょう。 

エジソンの夢の教科書
 もう一度、エジソンの少年時代を思い出してください・・・「書物によってのみ自然の過程を知ったり、アルファベットや算数を機械的に覚えこんだりするのは、かれにはできないことであった。かれが求めていたことは、自分の目で観察し、自分で「すること」、そして自分で「作ること」であった。(「エジソンの生涯」・マシュウ・ジョセフソン著 矢野・白石・須山訳 新潮社・文責南淵)

 エジソンは物心ついたころから「ばかげた質問」をして周囲を困らせたといわれています。先生に嫌われ学校を退学する羽目になる原因でもありました。
 それらの質問は多くが自然現象に対する「疑問」や自然環境に対する「不思議さ」です。「ガチョウやニワトリが卵を抱いている理由」・「空の青さ」や「風が吹く原因」等々。つまり、すべて「自らの日常や生活環境のなかで気がついた現象」です
 不思議でおもしろく、「その謎」を解明したくてしかたがなかった。他の子とちがって、エジソンは自らの周囲・自然環境のおもしろさの虜になっていた。それらを見たり、触ったり、考えたりする魅力に比べれば、教室での「読み書きそろばん」の訓練や暗唱など「辛気くさくて」しかたがなかったのでしょう。「環境」が「夢の教科書」になっていたのです

 現在のように子どもたちの目を引くもの・遊園地もIT機器もゲームもなかったころは、いつでも子どもたちは自然のなかで「おもしろさ」を探す方に目を向けることができた。子どもたちには不思議なことやおもしろいものを見つける機会が用意されていた
 エジソンの時代から少し下って、同じアメリカ人で、自然環境や生態系・地球(宇宙)のなりたちやしくみのおもしろさに目を開かれ、後々世紀を代表する天才を発揮した人がいます。ファインマンです。 

ファインマンがファインマンになったきっかけ―環覚の定着
 ファインマンの回想からです。

 家族で避暑地に行った間、仕事から帰るとお父さんは毎週末、彼を森に誘いました。お父さんは森の中でさまざまな自然現象に目を向けさせ、自然界の成り立ちとしくみに目覚めさせ、そのおもしろさを開示しました。また同じ回想のなかでファインマンは、子どもの教育のためと母親にけしかけられ、しぶしぶ同じように子どもを連れ出した他のお父さんの「指導」との大きなちがいをわかりやすく解説しています。 少し長くなりますが「拙訳(“THE PLEASURE OF FINDING THINGS OUT”RICHARD P. FEYNMAN  BASIC BOOKS)」で引用します(なお、ファインマンの本の多くは大貫昌子さん他の素晴らしい訳で、岩波書店から出版されています)。

 お父さんたちが会社に戻った次の月曜日、一人の少年がファインマンにたずねます。
 「おい、あの鳥の名前を知ってるか?」 
 実は名前を聞いていたファインマンがとぼけて「いいや、全然知らない」と返すと、
 「あれはノドクロツグミっていうんだ。何だ、お前の親父は何も教えてないんだな」と毒づきます。(鳥名はファインマンの記憶も曖昧です。原書ではbrown-throated thrushでブラウンですが、クロにしました。名前は重要ではありません!(笑い))
 察するところ、その少年のお父さんは勇んで(あるいは仕方なく!)鳥の本を買ってきて、見かけた鳥や植物を「同定」していたのでしょう。それが学習だという理解です

 つまり、このお父さんは、ものの名前や存在を知らせれば「事足れり」、あるいは「テストの点数に反映するだろう」という意識から抜けきれなかったのでしょう。おもしろさとは別に、学習とは知識を増やすことだという意識が既に一般化していたのかもしれません。ここ十年あまり、よく放映されるようになったテレビの「クイズ番組」の出演者の「どや顔」や「頭の良さ(!)」の評価が思い起こされます。
 名前やむずかしい漢字を知っていれば評価され、それで「勉強」が良くできる、頭がよいとの判断基準です。しかし名前や漢字を知るだけなら、今はパソコンのキーボードを叩けば済むことです
 「学ぶおもしろさ」を学習を始める子どもたちに伝え、興味や好奇心を掘り起こすためのたいせつな条件、しかも現在の教育にもっとも欠けている大きな落とし穴がここに顔をのぞかせています。名前を知っただけで「おもしろさ」が始まるでしょうか? 探究の次のステージが用意されるでしょうか? 
 もちろん術語や名称や年代の暗記等は学問をする上では欠かせないことですが、そんな暗記は、できれば「対象を学ぶことのおもしろさ」とともに、「自らの内なるモチベーション」とともに進めていきたいものです(ぼくが伝えたい「学体力」の要因です)。

 さて、ファインマンのお父さんの指導風景をもう少し見てみましょう。
 ファインマンのお父さんは「ノドクロツグミ」という名前を教えて、さらに多くの外国語(でたらめ!だったようです)で、その鳥の呼び名を紹介します。そして、次のように付け加えます。 

  「さあ、これであの鳥の名前はあらゆる国の言葉でわかったわけだ。だが、あの鳥について実際は何もわかっちゃいないだろう」。 

 「名前」を覚えていても、実際は「何もわかっちゃいない」のです。「お前は、ただいろんなところに人間がいて、あの鳥のことを何と呼んでいるかがわかっただけだ。そんなことより、さあ、もっと鳥をよく見てみようや」。お父さんは観察を促します
 その後、二人で鳥が羽をつつくようすを見て、お父さんは「どうして羽をつついているのか」と質問します。ファインマンが答えると、さらに観察をつづけながら、彼の答えの矛盾を指摘するのです。
 返答に窮したファインマンに、「鳥に巣くう寄生虫がその原因で、寄生虫にはバクテリアがついていて・・・」と、生態系の食物連鎖に話を展開します。森での時間はいつもそんなふうにつづいていたようです。

 親父は「気づくことを教えてくれた」、「何かを知っていることと何かの名前を知っていることのちがいを教えてくれた」とファインマンは述懐します。つまり、お父さんは「本当に知るとはどういうことか」を教えてあげたのです

 小さいころから身近な現象に目を向け、その謎や不思議さに気づく目を養い、それらの疑問や謎を考えること、解決する「きっかけ」をつくってあげたのです。「おもしろいのは宇宙や地球や自然環境や世の中の成り立ちやしくみだよ」ということを気づかせたのです。決して「名前」ではありません。
 遊びのなかでそんな指導を受けていたファインマンはある日、子ども用の荷車で遊んでいたとき、荷台に載せたボールが荷車の動きとちがう方向に動くことを「自ら」発見します。「環覚」の定着です。