『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

 国語を「昆虫採集」してみないか

2012年06月22日 | 学ぶ

 

★これからの立体授業の説明や解説については、開設時のダイジェスト紹介と一部重複する表現があります。ご了解ください。★


  「国語を昆虫採集してみないか」という団のコピーがあります。


 このコピーには、テキストを使った室内での学習だけではなく、外遊びや様々な体験を通じて学ぶことの面白さを究めて欲しい、楽しく学習を進めてほしい、という願いが込められています。


 キャッチコピーに限らず、コミュニーケーションや芸術作品の手段である表現は、「ことばや画像で現実世界のものを抽象化すること」によって成立します。その抽象化された対象を自らのなかでイメージしたり再構成することで、ぼくたちは表現や意図を理解し、作品を鑑賞します。 学習の過程も基本的に同じです。子どもたち(ぼくたち)は、テキストのイラストやことばによる説明からイメージを積み重ね、再構成することで学習を進めていきます。

 

 


 未だ体験や情報量の少ない子どもたちにとって、微妙な経験の差やちがいでも、描くことができるイメージや理解の程度・深さには大きな差が生まれるはずです。ここで、先に紹介したぼくの中学時代の経験を思い出してください。

 

 中学の美術の授業の際、土器の製作の話になって、「昔の人は土器を焼くことをどうして覚えたんだろう」というような先生の質問があったときのことです。


 当時、ぼくは粘土が欲しければいつでも手に入れることができました。裏山の崩れた崖のなかでは、きれいな真っ白い粘土さえ見つけていました。それから考えても、縄文時代の環境でも粘土が身のまわりのあちこちにあっても全く不思議ではありません。

 「粘土の近くでたき火をすることがあったり、山火事などで自然発火することがあれば、粘土が火によって硬化することはわかるはずだ」という意見を述べました。


 ところが、東京出身だった先生も同級生も、そういう自然の中で身近に存在する粘土を見た経験がなかったのでしょう。「だから、その粘土はどこからもってきたんや!」と、いわゆるクラスで頭がよいと自他共に認めている生徒にすごい剣幕で反論されました。


 彼らのようすを見て、これは言っても無駄だと口をつぐみましたが、今振りかえれば、勉強ができた彼は、子どもたちの学習問題に対する大きなヒントを与えてくれたことになります。


 勉強ができる中学生(確か三年生の時です)でさえ、体験がなければ想像もできず、まったく理解できないことがあるのです。

まして体験の少ない小さな子どもたちにとって、知らないもの・見たことがないものをイメージし、理解していくことが、いかにむずかしいかは、容易に想像できます。見たことがなければわからないものが多すぎるのです。

 

 そして、自然のなかでの体験だからといって、理科の学習にのみ影響や差がでるわけではありません。子どもたちにとっての経験の積み重ねはそんなに単純ではありません。


 たとえば、国語の俳句や短歌・詩などの鑑賞・学習を考えてみましょう。


   「春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣干したり 天の香具山 」    持統天皇

 この初夏の風景は、野外体験の少ない、田舎の初夏を知らない子どもたちの心に深く訴えかけてくるでしょうか?


 山村暮鳥の「おうい雲よ」と呼びかける「雲」の一節が子どもに与えるイメージは、雲の動きをじっくり見たことのない子とよく見ている子で変わることはないでしょうか?


 「でっかい竹の子掘り」や「米作り」などで飛鳥を訪れる団の子どもたちには、毎回その風景の印象が刻まれていきます。毎年行くところですから豊富なイメージがともなっていきます。


 この歌に込められている雰囲気は、その季節に身を置いて遠くの山を眺めた経験があればこそイメージできます。初夏の緑を知っている彼らの中でこそ白妙の白はいっそう際だち、鮮やかに復活します。


 課外学習や自然体験で「外の世界」にふれているかどうかは科目を問わず、このように思わぬ形で学習に関係してきます。そして、体験の差による理解の深さの差は、もちろん学ぶことのおもしろさに直結することは言うまでもありません。

 

 春に稲を植え、秋に刈り取る飛鳥の田んぼまでの道筋や「でっかい筍掘り」に向かう道は、文学や歴史に関わる情報の宝庫です。古くからの多くの歌も残っています。


 米作りの田に向かう際通り過ぎる甘樫丘には、歴史漫画や教科書に出てきて子どもたちでもよく知っている蘇我入鹿の邸宅がありました。土筆ハイクや筍掘りで歩く道の近くでは、請安の塾に通う道すがら、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を討つ相談をしていたかもしれません。


 横を流れている飛鳥川は、歴史の説明とともに団員諸君の頭の中で古の川に復活します。子どもたちは、そこで釣り糸も垂れます。子どもたちが実際に身を置いている環境の中で、学習が立ち上がってきます。

 川原にはヨシがたくさん生えています。岸辺の葦(ヨシ)から葦簀やヨシノボリへと話題は広がり、ヨシは水の浄化におおきな役割を果たし、琵琶湖や多くの干潟で貴重な生態系の維持・保存にも役立っていること。葦簀で日差しを防いだときの涼しさ。もちろん単子葉植物であることも学びます。


 ヨシとは葦のことで、パスカルの「人間は考える葦である」も仲間に入ってきます。「君たちも、ただの葦になっちゃいけない」と注意し、葦が「悪し」を嫌って「よし」とよばれるようになった理由を話すと笑みがこぼれます。子どもたちは葦とも仲良くなれました。


 いかに周りにはぼくたちと親しいものがあって、ぼくたちと深い関わりを持っているか、ということを納得することで、周囲に目を向ける「環覚」も少しずつ鋭くなってくるでしょう。課外学習は、季節の中でその絶好のタイミングを用意してくれます。

 


 「室内での、文章や言葉だけの説明による理解」と「自然に浸り身体全体が感覚器官として働き出している中での生き生きとした学び」では、その厚み・奥行き・次なる学習への興味やその後の広がりは比較になりません。


 時に珍しい姿を子どもたちに見せながら、体験とともに「国語の虫たち」・「社会の虫たち」は次第に増えていきます。

実際の昆虫採集で赤トンボやシオカラトンボ・ハグロトンボ・・・等と区分が進み、蝶や甲虫へと分類が進むように、学びの虫たちも様々に比較・分類されて、子どもたちの頭の中でそれぞれの「昆虫ケース」に収まっていきます。


 飛鳥の自然豊かな景観や里山は、実は、子どもたちにとっては、学びの虫たちの無尽蔵の採集場所です。そして、古の時代へのテーマパークでもあるのです。

  

 

 

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