『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢へのワープ⑧ M君への理科・社会指導

2015年05月30日 | 学ぶ

 日ごろの授業の中では、学習することの意味やまとまった考えを子どもたちに話すことはなかなかできません。それは立体授業のテキストやスライド指導の際に補います。
 京大へ進んだM君にも、一貫したまとまった話を話すことはできませんでしたが、学体力を整えるために、二年間教室でおりにふれ話したことや、機会を見て都度アドバイスしたエピソードがあります。学習する意味、中でも理科に向かう考え方。少し参考にしてくれたかもしれません。一部をまとめて紹介します。
 なお、この部分は立体授業の「でっかい筍掘り」の、子どもたちの新しいテキストで前書きになる予定です。(本表紙の写真は彼に読むことを薦めた本の一部です。理科対象ではありません)

「考えること」がおもしろい
 立体授業シリーズ「ヨモギからの科学」で、「生物とは何だろうか?」と考えた。「生物」は基本的に3つのはたらきー特徴(とくちょう)を備えている「らしい」ことがわかった左記参照・写真はニュートン「遺伝のしくみ」2009年11月号から)。
1ー物質交代を行うこと
2ー形が安定していること
3ー子孫を残す機能をもっていること
の3つである。
 今の文に「らしい」という「形容動詞」を入れた。それはなぜか。わかるだろうか? 「正しく」考えようとすると、 こういう留保(りゅうほ)(下線のことばは国語辞典で意味を調べてみてください)がどうしても必要になってくるのだ。
 どうしてだろうか?

 わたしたちは現在のところ、「地球上の」生物しか知らない。他の星の生物の存在は知らない。もっと厳密(げんみつ)に言えば、まだ地球上の生物もすべて知っているわけではない。一部しか知らない。
 つまり、生物全体を知っているわけではないのに、生物全体に対して、一般的(いっぱんてき)に答えてしまっているのだ。もっとちがった生物が他の星にもいるかもしれない。だから、「生物すべてがわかってはじめて、ほんとうに正しく答えられる」。
 この場合、「現在わかっている地球上の生物とはなんだろうか?」という「問い」であれば、「科学的な正しい答え」なのだ。惑星物理学者松井孝典氏の論説(ろんせつ)―「われわれはどこへいくのか?」ちくまプリマ―新書ほか―参考)。

 このように、「考える」ということは際限(さいげん)なく、とても奥が深い。ところが、ふだんぼくたちは、「わかったつもり」・「知っているつもり」になって、それ以上注意しなかったり、考えるのをやめたりたりすることがよくある。
 ぼくたちは「ほんとうに知っている」だろうか。何事も「よくわかっている」だろうか。
 ふり返って考えてみれば、みんなよく知らないことばかりではないだろうか。「知らないこと」や「ほんとうはわからないこと」がたくさんある。

 ぼくは最近、「人間とは永遠に答えを探し求めつづける」動物で、それこそ「人間という動物がこの世に存在するようになった大きな理由」だ、と考えるようになった。
 地球にはじめて生まれた太古(たいこ)の生命細胞1つから始まり、生きるためにさまざまな工夫や進化と変化をつづけてきた生物。生きることの工夫や戦いは植物も動物も重ねてきたが、「生物が工夫や戦いを重ねてきたこと」を「考えられる」動物は人間だけだ。
 どの生物もみんな生きることに一生懸命で、他の生物のことを考えられる余裕(よゆう)がない。脳の進化で、それらを考える特権(とっけん)を手に入れたのは人間だけで、「人間が生まれた意味」も、人間にしかわからない「おもしろさ」もそこに見つかる。

 テレビを見ている君たちは、大ブレイクしても一・二年もすれば見向きもされないタレント(芸能人)がたくさんいることに気づいているだろうか。奇妙(きみょう)な声や言いまわし、珍妙(ちんみょう)な姿のアドリブ・一発(いっぱつ)芸(げい)は、最初見たときはおもしろくてしかたがなくても、何回か見ていると飽(あ)きてしまう。全然おもしろくなくなる。
 なぜかわかりますか? 何度見ても「深く考えようがないから」だ。その瞬間(しゅんかん)はおもしろくても、「中身がない」・「考えることができない」おもしろさは、いつまでも続くものではない
 「考えない」、「深く考えられないこと」は、すぐ飽きてしまうのだ。(もっとも、そこで、その後の人間模様(もよう)を考えはじめると、それはそれでとてもおもしろいものだが・・・)。

「考えること」をはじめよう
 君たちがしている「勉強」も、頭の中に蓄(たくわ)えた「考える材料」が乏(とぼ)しく、「考えるきっかけがなければ」おもしろくならない。まず「ある一定の考えられる材料」を頭にストックしなければならない。「勉強しなくてはならないほんとうの理由」はここにあると、ぼくは思う。
 また、「ただ『暗記』と『練習をくり返す』受験勉強だけでは、勉強がおもしろくない」のも、「考える内容が乏(とぼ)しい」からだ。「考えるきっかけ」が少ないからだ。「なり立ちやしくみを究めるという、考える深さ」が足りないからだ
 だからといって受験勉強をしなくても良いと言うことにはならない。受験勉強は、若い君たちが『考えること』をはじめる良いトレーニングの機会でもあるのだ。だから、少しは我慢(がまん)して、その機会をたいせつにしなければならない。

 しかし、勉強が「試験のための受験勉強だけで終わってしまう」と、考えることそのものが嫌いになったり、苦手になったりするので、さまざまな方面の「考えること」もはじめてほしい。勉強したい勉強。考えたい考えること。それを見つけて欲しい。「立体授業」をはじめた理由と目的はそこにある。
 君たちの「考えはじめるきっかけ」になってほしい。「知らないこと」や「考えればおもしろいこと」だらけの世の中だ。そして、考えるほど「わからないこと」が増えてくる。つまり「考えれば、考えるほどおもしろいことも増えてくること」がわかってほしいのだ。

 実際にものを見る機会がない、「ものを見ても何も考えない」。そういう日々が続くだけでは、おもしろいことは始まらない。「ほんとうにおもしろいこと」は「考えること」から始まる考える習慣がつくと、次から次へと「知りたいこと」「おもしろいこと」が生まれてくる、だからそれは飽きない。飽(あ)きようがない。だが、学ばなければ、何かを一生懸命学び始めなければ、そういうことがわからない。
 たとえば、現在の研究では、137億年前ビッグバンによって宇宙が誕生(たんじょう)し、太陽系(地球も)は46億年前に生まれたと考えられている。「宇宙は137億年前に始まって、地球は46億年前に生まれた」ことを知っていても(記憶《きおく》していてもー知識があっても)それほどおもしろくない。少し「偉(えら)そうに知ったかぶり」できるだけだ。それだけでは、「受験やテストのための知識」だ。
 しかし、これらの結論も「さまざまなことを研究し、考え始めた」からわかったことだ。宇宙の起源(きげん)や地球の誕生を考え始めた人は、当初雲をつかむような話で、「むちゃくちゃむずかしかった」にちがいない。

 しかし、そのむずかしいことを考え始めたから、おもしろさが生まれた。疑問をもち、考える、解釈(かいしゃく)する、理解できる、納得(なっとく)できる、その過程でおもしろさが始まり、おもしろくて我を忘れたはずだ。
 つまり、おもしろさは「あること」や「あるもの」をただ知っているだけでははじまらない。「なぜそうなのか」、「どうしてそうなったか」という原因や理由・成り立ちやしくみを考えること、わかること、つきとめることで「おもしろくなる」。

 逆に「考えるきっかけがない」、「考えることをつづけない」ところからは「おもしろいこと」がはじまらないし、おもしろさもわからない。残念ながら、そういう人が世の中にはたくさんいる。
 だから、何かが「おもしろくなる」には、まず学び、考えることが始まらなければならない。「勉強」がたいせつなのも、ほんとうはこういう理由だ。「考えるきっかけ」をつかみ、君たちには、ぜひ「おもしろいことを究める」日々や一生を送ってもらいたい。

問い1 ちなみに望遠鏡で遠くを見ることは宇宙の誕生を見ることになるのだが、それはどうしてだろう?

 


夢へのワープ  ⑦

2015年05月23日 | 学ぶ

「学力コンクール」の総評紹介
 団では充実課程・発展課程については月例テストを行います。入試時期の講習までは国語・算数の二科目のテスト合計点で、受験生に順位も公表します。個人塾で人数が少なく、実力把握を確実に行うために、学力が把握できているOB諸君が受験した過去問を再テストすることもよくあります。 
 オリジナル問題や市販の問題、どちらも使用しますが、いずれも小学校のレベルよりかなり難易度の高い問題です。成績表は当日、試験実施後即返します。その総評では、テストの意味や団の考え方を補足したり、また日々の課題に対する進捗度合いや学習アドバイスもします。従来のOB諸君の学習法や学習のようすも伝えることはもちろんです。

 M君の理科と社会の「学習紹介」に関連して、今回は、その月例テストの「総評」と成績表(5月度充実課程・名前はもちろん掲載しません)から紹介します(一部『舌足らずの部分』は訂正・補足しました)。写真は原紙です。
総評
 2003年度5年生のテスト第4回(9月実施)の問題です。
 団員諸君は今まで経験したことがないような難易度にびっくりしたかもしれません。漢字がたくさんあり、問題文が長い国語の問題。まず、その量に圧倒されます。次に「問いにどう答えたらいいか」を考えるのに一苦労でしょう。また、算数は「習っていないこと」がほとんどです。見たことのない問題が出てきます。
 しかし、実はそれらの問題にひるまず、あきらめず、こたえるために「理解しようとする姿勢」や「手がかりを見つけようとする態度」が何よりも大切なのです。それ(学体力)を身につけてもらいたいというのが、これらのテストを実施する大きな意味です
 「教えてもらわなくては何もできない」子は決して頭がよくなりません。教えてもらったことをただ覚えてよい点を取っても頭がよいわけではありません。「自らの現在の能力を駆使して問題にあたっていく子、解決を図ろうとする子」が頭がよい子、頭がよくなる子です

 したがって今の子育て(多くの)は、本当に頭がよい子を育てる方法ではありません。頭の働きから見れば、ほんの一部分のはたらきを評価して右往左往しているだけです。言われたことはできますが、「自ら考える力」は育ちません。自ら難儀格闘し、試行錯誤している間に脳が鍛えられ、応用する力が整い、イメージをする力がわいてきます。その経緯が抜け落ちています。もちろん、そのためには普段から、その「過程」でのアドバイスや助言は欠かせませんが。団で育った子たちは、こうして20歳前後になれば大きく飛躍していきます。
 「自らよく読み、考えること」で、後で解説、見直しするときに早く深く、そしてつながりまで理解できるわけです。「考える力」はこうして育まれます。また、難問を読み立ち向かい、やがて自らの力で問題を解決することで、できるという大きな喜びや自信が生まれます。学習はそうして面白くなります
 おしえられたことを単に暗記し、類似問題を宿題で繰り返すという方法では「学体力」は育ちません。そういう姿勢で日頃学習に向かっている団員諸君には、単に点数と順位だけを評価の対象にするのではなく、そうした勉強が頭をよくするためにすこぶる大切であること、また、そこで点数が悪ければ、がんばること、努力する必要があることをきちんと伝えてください。あとは、宿題や課外学習参加など、団の指導や指示に協力していただければ、素晴らしい子に育ってくれます。いままでのOB諸君の多くがそうであるように。楽しみにしてください。

 なお、基礎課程と充実課程の諸君の差は、漢字の読みと学習習慣(宿題の習慣によって考える力・考えつづける力が変わってきます)の差です。能力の差では決してありません。彼らは全員、今までの子に比べても、もっている能力はすこぶる高いものがあります。ほんとうです。
 ただ、小さな積み重ねが一年近くでこうした差になり、やがて「とても追いつけない大きな差」になってくる、ということは知っておかなければなりません。「漢字」と「計算演習」をバカにしてはいけません。「日々のたいせつさを、いかに早くきちんと自覚することができるか」という問題です。
 成績の差は、いずれにしろ、たいていの場合ほとんど能力差ではなく、そこに帰着します。つまり、自らの意思でどうにでもなるわけです。(以上充実課程5月度学力コンクール成績報告より)
備わった学体力が自学自習を可能にする
 大学を受験するころには、予備校頼りの『受け身!』ではない学習ができるようになっていること。つまり、「学習の進め方がわかり、使用参考書の選択も含め、自学自習できるようになっていること」が団の指導の目標です。いわば、「大学受験ぐらいは、もうひとりで・・・」という考えです。

 先週紹介した16名の諸君(左記表)のうち、星印の5名は予備校受験をしないで、OB教室と進学校の指導のみで合格を果たしました。特に紹介しているM君はきちんとした学校経験が中二までですから、実質、団での二年間で京大合格の学力(学体力)を備えたことになります。
 理科系志望のM君が理科で選択した物理と化学のメインの参考書です。物理は僕が薦めた「難問題の系統とその解き方物理Ⅰ・Ⅱ」(服部嗣雄著・ニュートンプレス)、化学は彼が書店で選んできた「化学Ⅰ・Ⅱの新研究」(卜部吉庸著・三省堂)。ぼくらのころと違って、この二冊のように、今は自分できちんと勉強すれば(できれば)難関大学に楽々合格できる参考書が多数出版されています

 なのに、どうして自学できないで「予備校頼り」になってしまうのか? それは、こうした(自学自習を進める)際に、まず必要になるのが、いわゆる「学体力」だからです。あなた任せの『学力』ではない真の学力―「学体力」が整っていないからです。
 つまり現在の学習指導は、「自ら勉強を進める力が備わっているか」、あるいは「その下地ができているか」を問わない指導なのです。大学受験をするのであれば、参考書の選択をはじめとして、その学習法・学び続ける精神力を含めた力が備わっていなければなりません。少なくとも、その時点で、(大学に進むのであれば)教えてもらうのではなく、一人で考えることを進める用意が整っていなければならないわけです。

 こうした力は「即席」で身につくわけでは決してなく、小さいころから座って学習を進める「日々の学習習慣の定着」や「きちんとした学習法」が身についていること。つまり、まず自ら参考書やテキストを読んで理解しようとすること、続けることができていなければなりません
 「新しいこと」「わからないこと」に対しても、「それを教えてもらうのを待っている」のではなく、「自らその解決をすべく努力を払う」ことができなくてはならないわけです。学習に限らず、成人になるということは、そういうことではないでしょうか。M君は、その真面目な性格もあり、小さいころの団での指導を経なくても、僕と二年間過ごすうちに、人生・生命や時間のかけがえのなさを伝えることで、学体力を整えることができました。爆発力が身に付きました。

 しかし、現状の「過保護」の世の中では、多くの子どもたちは、「問題の解法を、ほとんど自らの頭を使わない解説をしてもらって、それを理解し、それを真似すること」そして「類似問題で演習して定着すること」しかできません。何の疑いもなく踏襲されているその方法が当事者や関係者にはすこぶる手軽で、特に『頭の良い子を難関校に入れる』には最高(!?)の方法だと考えられてつづいているのです。そうした「(受験)問題解決法」に習熟し、マスターした子が「よくできる子・頭がよい子」と評価されます。ほんとうに、それでいいのでしょうか? ぼくは反対です。

 本来なら、「わからないこと」や「新しいこと」を、まず「どういうことなんだよ、結局!」というところから始まり、そのためには『何を、どうしたらいいかを模索する(できる)こと』から始まるべきです。そうして初めて、社会に出た時の様々な問題の解決、あるいは、その前提としての『問題の発見』ができるようになります。生きていく力―「学体力」が整います。

 こうした態度・姿勢は、誰も最初から、つまり「生まれつき」身についているわけではなく、小さいころ(ぼくの手ごたえでは小学生段階まで)からのしつけや指導で養成されます。難しいことも見ただけで投げ出さないで、まず「我慢して」理解しようと「努める」こと。その習慣が「学体力」を養成します。
 大阪弁のおばちゃん風に言えば、「わからへんから、しゃあないやん!」、「わからんなら放っとき、そのうちわかるやろ!」、「もうええやん、いやがってるのに」。ほとんどの場合、そのうち忘れます。ちょっとした近所の「道案内(!?)」ではそれでよいかもしれませんが、「考えること」を始める子を育てるのならば、それではすみません。すませてはいけません。
 特に小さいころから、それらの反復では、終生「学体力」とは無縁のままです。「考える子」は育たないし、高い学力など望めないでしょう。さらに中学に入って高校受験に向かっても相変わらず、先述の「受験勉強が勉強だ」ということになってしまう。こうした繰り返しでは、「勉強」はほとんどの場合、『面白い勉強』としての結実ではなく、受験のための「手段」や『方便』に終わります。それ以外の「学ぶこと」による可能性がすっかり鎖されてしまうというわけです。

 「難しいこと」にもあきらめずに取り組む姿勢を育てることで、「手掛かり」が見え始め、水平線に「解決の朝日」が昇り始めます。「老人と海」を一緒に読んだY君は、5年生の時、「計算問題の特訓」(学習研究社)に取り組んでいて、「わからないこと」に腹が立ち、知らぬ間につま先で畳をけり続け、つま先から血が出ていた、とお母さんから聞いたことがありました。ぼく自身も中学生の時に数学の問題が夢に現れ夢の中で解けたことが何度かあります。

 「考えること」を始める(始めてほしい)子どもたちに、こうしたエピソードや経験を話すことがよくあります。『考えるということ・考えることの手ごたえをわかってほしい』からです。受験が先にあるのではなく「考えること」が先にあって、それは結構面白いことなんだな、と興味をもってくれることを願いながら。 
 


夢へのワープ  ⑥

2015年05月16日 | 学ぶ

進学先を問わず
(今週の本の写真は、立体授業のテキスト作成の際、よく利用しているおもしろいものばかりです。参考にされたらいかがでしょうか。)

 中二で登校拒否をし、方向を見失い町のゲームセンターで遊んでいたM君が、団での二年の勉強の後今年京都大学理学部へ合格した話を紹介しています。先週まで京大受験のための数学・英語の勉強法(指導法)等を一部紹介しました。今後理科・社会・国語の学習についてもお話ししますが、このまま続けると誤解を受け、団の本質が伝わらなくなりそうなので、少し説明を加えます。

 このM君を含め、今までOB教室を経て団から国公立難関大学に合格した諸君(32名中16名)の進学中学をまず、左記に紹介します(平成27年現在)。
 左端の数字は団開設よりの入団期、黄色枠は国立大進学者(白枠は公立大)です。OB教室32名中16名です。表は合格報告を受けた分のみ、また私立大学進学は、今回の数に入れておりません。
 ★印は医歯薬学部、合格大学の水色は京都大学合格者、ピンクは大阪大学合格者です。 
 真ん中数字は左から入団学年、小学校時在籍年数、中学入学後OB教室在籍年数です。3とあれば中学進学後3年間OB教室で過ごしてくれたことになります。小学校3年で入団し、OB教室3年在籍であれば、在籍合計が7年ということになります。
 備考1の*印は、在籍校とOB教室のみで大学合格を果たした諸君です。また、備考2は小学6年時のI社模擬テストの4科目合計点の平均偏差値を、中高一貫校の目標偏差値で日能研の偏差値に比定(2012年版使用)したものです(詳細はブログ「学体力は偏差値を超克する」等をご覧ください)。
 ご覧のように、ほとんどすべての諸君が当時の偏差値では50以下、さらに39以下に比定される諸君が混じっています。一人が神戸大、残り二人が札幌医大と奈良県立医大です。また京都大学へ進んだ子も最高が54、後の諸君は50以下です
 また、彼らはすべて大手受験塾のトップランクのこのような選抜試験で選りすぐられた諸君ではなく、「おじ兄ちゃん!」が、たった一人で指導している、無試験入塾の町の小さな個人塾出身者です。その彼らが18歳前後になると、偏差値70を超える超難関校の子どもたちに引けを取らない大学進学を果たしてくれました。
 つまり、一流校進学や高い偏差値だけが大学進学を左右し、将来を規定するのではありません。子どもたちの能力や学力は可能性にあふれています。フォアグラ受験指導ではなく、人格の涵養も含めた指導が隠れた才能を開花させます

 彼らの姿です。救急医療の現場で患者の生命を救うべく日夜奔走します(上宮学園)。医学部(保健学科)に行って院を卒業、就職後、医師の現実を目の当たりにし、自ら再度学士入学で医師を目指します(清風学園)。また、大学院に行きたかったものの、一人っ子で家庭の事情が許さず就職し、新しい薬品の研究に没頭します(西大和学園)。あるいは阪大の院で哲学の研究に我を忘れます(奈良学園)。ゲームセンターで毎日遊んでいた子が、自らの能力に目覚め、おもしろい勉強に埋没してゆく…(NHK学園・M君)。等々すべてOB教室生の姿です
 彼らの中学進学先と進学大学をご覧ください。現状の姿と夢をイメージしてください。
 説明をしたように、高偏差値や超難関中学進学は関係ありません。それ以外に、もっと子どもたちの能力の開発や成長にとって、大切なものは何か? 指導しておくべきことは何か? 
 ブログアップを始めたのは、それらをぜひ伝えておきたい、わかっていただきたい、という気持ちからでした。

 
可能性と夢は「つぶす」ものではなく、「育てる」もの
 お父さん、お母さん、そして先生方、どうか子育ての原点とグラウンドを見直してください
 小さいころからの偏った受験指導で、自然環境をはじめとする自らの周囲に対する興味や関心を持てないまま、それゆえ学習対象や学習内容の現実が見えないまま、参考書や教科書で受験特化の知識だけを身につけるフォアグラ授業を受け続ける子どもたちの現実を何とかしなければなりません。たいせつなことは「環覚」の養成です

 合格や受験は無視できない試練ではあるけれども、現状のような巷の学習指導だけでは「勉強」や「学習」が、すべて「受験勉強」の域を出なくなってしまう、大学に入れば、ほとんどの子にとって、それ以上追究する意味のない対象に成り果ててしまう、問題はその現実です
 室内で教科書や参考書を開き問題を解く、というのは「学習」や「勉強」のほんの一部であって、それ以上では決してありません。Field work Study。学習探偵団のサブネームです。 

 本来ぼくたちが一生をかけて追究すべきものは、どんな意味においても環境や社会の問題発見であり、研究解決であり、それらの社会還元であるはずです。「学体力」の定着です。若者の成長が、「人の迷惑顧みず、他人の生死には我関せず、ことさら欲望と金の亡者になること」ではないはずです。
 抽象的な学習・成績の上下や合否の判定「のみ」に十年近い時を埋没させる子どもたちが、超難関校に進学したものの、進学後、消耗と喪失感でやる気が失せたり、欲求不満を様々に解消させて、半数は大学浪人。それが受験体制と超難関エリート校が目標の、現在の多くの子どもたちの現実の姿ではないでしょうか。

 その「受験勉強の苦闘」の間に、夢や目標は胡散霧消する。本来なら追求すべき「将来の夢」がおろそかになり、難関大学合格以外に目標が見えず、そのために、またまた予備校頼みで、フォアグラ受験生活を「満喫!」する。こんな生活では、一生を左右する「学体力」の養成など、到底望むべくもありません
 大学は卒業しても、学習や勉強や研究に潜んでいるおもしろさには一切目が届かず、考えることや読書さえ避けて通る。そんな傾向はないでしょうか。日本の大学評価のレベルの低さは、もちろん他にも多くの原因や理由があるでしょうが、ぼくは、程よい(!)「過保護」とこのような受験体制・学習習慣が大きな原因のひとつではないかと感じています。

 つまり「将来の目標や自立・生きていく目的」を日々の考えに加えるべき時に、難関中学、難関大学合格しか見えない、考えられない状態が延々と続いている状態です。それは、それぞれの子どもたちが持っている大きな可能性をつぶし続ける方向ではないのか。
 団のOB諸君は、当初決して高い偏差値(ではないでしょう?)ではないのに、受験を乗り越え、それぞれ志を持ち、前を向いて進んでくれます。それは「消耗戦」で可能性や夢をつぶし続ける方向ではなく、「学ぶことの大切さと意味」、「究めることのおもしろさ」や「できることの自信」と「視野の広さ」を身につけて育ってくれているからではないか。そう考えています。  

 高い偏差値や超難関校への目標が、子どもたちの夢や可能性を育てるのではありません。勉強に限らず、一つ一つの問題にきちんと立ち向かい、自信と誇りを身につけ、自らの存在意義とやる気、モチベーションを高めていくことが小学校高学年から、大学進学までの第一義ではないでしょうか
 拙文からそのヒントをくみ取っていただけるか、いささか心もとないのですが、もし少しでもお役に立てれば、といつも念じながらアップしています。来週は理科・社会の学習に進みます。


夢へのワープ  ⑤

2015年05月09日 | 学ぶ

ロングマン(英英辞典)を常用する(続)
 Y君は現在京都大学ですが、高校2年のときに、やはり英語がなかなか読めないという悩みを打ち明けたので、手ごろなところから「老人と海」を一緒に読もうと提案しました。

 彼は、受験ではトップクラスの進学校に通っていました。文法問題等に関しては、彼の学習姿勢や性格からして問題はないだろう。だが、本来の作者の意図や思いや感情を抜きにした大学受験用の、1~2ページに満たないような英文解釈の繰り返しで、「気持ちの入らない」学習を続けているのだろう、おそらく。
 それでは面白くないし、読もうという気も起こらないだろう。そこから脱出しなければ。
 もう一つの理由は先にも書いたように「受験英語(読み)からなんとか脱したい」という、ぼく自身の長年の切なる願いもありました。
 当時、OB教室では別に高校生相手に、Teacher Man(Penguin Readers Level 4)を読んでいました。また、時期はすでに高校2年生の夏過ぎで、希望大学や他の科目のことも考えると、それほど余裕がありません。(写真のTeacher Manは原本です)

 すべて英英辞典を使いながら、comeやgoという簡単な単語の「本当の語義」やacross,awayなどの『本来のニュアンス』なども調べて読んでいきました。そして、ぼくが読みかけていた「実況翻訳教室」別宮貞徳著(ちくま学芸文庫)を彼に手渡し、時間があるときに、自ら例題の英文をノートに筆写した後、和訳を書き込み、ていねいに解説を読み進めるようにアドバイスしました。

 「老人と海」を一緒に読みながら、「水平線からマストが現れ、ついで船体が見え・・・」というイメージを明らかに描けるようになった彼を見たとき、和訳は、もう心配いらないと確信できました

『「本読み」は「文字読み」!』ではない
 さて、今は少なくなっているところもあるようですが、小学生の宿題に「教科書」などを声を出して読んでくる、という「本読み」があります。漢字や本の読み方を習得するためのものでしょうが、ここに大きな落とし穴があることに、みなさんは気がついているでしょうか。
 つまり、「まだ読むことに慣れていない」小さいうちに、「『大きな声で上手に読めるから』といって、それが『読んで意味をとらえている』ということにはならない、必ずしもイコールではない」という落とし穴です。「意味をとらえながら、上手に読んでいる」とは限りません。文字や漢字は読めても、「内容をきちんと把握しながら読めているとは限らない」のです。

 「上手に読めて、意味もある程度とらえている子」は一定程度いますが、シビアに見れば、「上手に読めても必ずしも意味をとらえているとは限らない子」も、それと同じくらいいます。「文字が読めること」に意識が向かい、「内容把握がおろそかになっている」場合です。「声を出して上手に読むこと」が『読めること』、またそれで「読めている」と思ってしまうのは、明らかに「誤解」です
 そのままでは『読めない』『わからない』がつづき、「読むことのおもしろさ」・「本のおもしろさ」を手に入れることはできません。「読める」けれどおもしろくない。「本が好きではない」・「勉強はできるけれど本をあまり読まない」という人のなかには、そんな人が結構混じっているのではないかと、ぼくは感じています。つまり「本に入ることができず、通り一遍に読んでしまっているので、考えることや次を知りたくなることが始まらない」という結果です。

 
 本を読む人の中にも、集中力がともなわない時や体調が整わない時は内容把握がおろそかになり、おもしろさがわからないという経験はないでしょうか。理解が整わないのです。そんな経験しか知らなければ、本を読んだり、考えを深めたりする子にはなりません。
 団では授業の際「今読んだ内容を・・・」と聞いてみることがよくありますが、それは「反芻すること」で、「読むときの意識を内容把握のほうに向かわせる」という意味があります。子どもたちの「本読み」の際、意識して、今読んだ内容を尋ねてみてください。そういうトレーニングで、内容をとらえられるようになるたび、本は「おもしろい存在」になります。

 Y君の英語の場合も受験読解一辺倒で面白さは二の次、そういう「気味」があったのではないでしょうか? 深さが足りなくて読む意欲がわかない。フォアグラ受験勉強の、受験英語だけでは、そういうところが犠牲になります。大きな犠牲です。
 今年京大に合格したM君とは、Teacher Manを読み終えた後、OB教室で、「解釈に強くなるための英文50」(行方昭夫著 岩波ジュニア新書)と「ポレポレ英文読解プロセス50(西きょうじ著 代々木ライブラリー)を英英辞典を使って、一緒に読み込みました。喧々諤々。

 ロングマン・Oxfordやコリンズなど、写真掲載の英英辞典もすべて使いました。M君はやがて、PODを自由に引けるようになりました。
 団での読解の指導はそれだけです。Y君とM君、二人とも京大です(文学部と理学部)。

CDの聞き流しとレジエンド参考書
 中学で中退したM君には「リスニング」の経験も全くありません。しかし、共通一次で高得点を取るには捨てられない得点対象です。また以降、英語を話せるようになるためにも、聴く機会を多くしておかなければなりません。

 「日本語ができる」ぼくたちも、小さいころから「日本語が絶えず流れている」中で育ちました。他の勉強をしているときにも英語を流しておこう。最初は気になるかもしれないが、絶えず日本語が行きかう中でも、僕たちはいつも困っているわけではない。「慣れ」の問題だ。イントネーションや英語の発音になれるには、それが一番だろう。
 ぼくも、その数年前から、出かけるときは必ず携帯用の機器を使い、「片耳イヤホン」で、先述のTeacher Manや The Old Man and the Seaを聴き続けていました。それほど意識して神経を張りつめて聴いていたわけではなかったのですが、半年ぐらい続けると、注意を向ければ、英語をかなり聞き取れるようになっていました。

 M君にはその経験を伝えました。日々の子どもたちの授業時間が始まれば別ですが、昼間一人で勉強している間(彼は二年間、朝から教室で勉強をつづけました)は、M君にCDで英語を適度の音量で流しておくようにアドバイスしました。
 そして手持ちのCDの中からおもしろそうだと感じたものを彼に選ばせました。O・ヘンリーの小説や英文の日本史、ジャパンタイムズの社説やキング牧師の伝記など、彼は7~8枚選びました。半年後、やはり彼もかなり聞き取れるようになっていました。
 和文英訳についてです。先週紹介のように、M君は「和文英訳の修業」(佐々木高政著 文建書房)の暗誦用例文500の暗記を続けました。50年以上・数十年以上と版を重ねていた、とんでもないレジェンド参考書です(今は絶版になっているのではないでしょうか)。そして一年間のZ会。英語はこれですべてです。

 難関大学合格に必要なこと・欠かせない要素は、教養を広めたり、考えを深めたりする学習法、つまり学体力がともなった学習法や学習習慣を身につけ、いかに知的な体験・奥行きと深さを日ごろから積みあげるか。おもしろさに手が届く境地に至れるか、そこがポイントだと思います。小さいころからのフォアグラ授業やフォアグラ指導の積み重ねでは決してありません。
 さらに、レジエンド参考書のまえがきや筆者の言葉には、悩んでいる受験生諸君への、いわば、経験豊富な温かいおじいちゃんの、心からの激励・応援の言葉がならんでいます。素直に読めば、それも大きな力になることを受験生諸君は知っているでしょうか?

 そして、受験対応は「最新式」方法やデータもたいせつですが、もっともっと欠かせないものは、「学体力」の養成や「教養」・『心』を培うことであることをお母さん・お父さん・先生方は少し忘れてはいないでしょうか?
 次回は、社会と理科の学習法について考えてみます。


夢へのワープ  ④

2015年05月02日 | 学ぶ

レジェンド参考書と「学体力」
 亡くなった友人が天国から紹介してくれた青年。
 中学入学後不登校になり中退、今年京都大学理学部に合格できたM君の数学指導法、続きです。
 積みあげた学習ができていなかったので、まず中高一貫校用のテキスト(「中高一貫校をサポートする体系数学」数研出版)を使用し基礎力の徹底を図る、という方法でした。ゆるぎない確固とした土台を培うことからのスタートです。それが、あらゆる学習の基本です。

 そして、この方法は、かつて大学紛争のあおりで入試が中止になり、経済的に困難だった自らが体験した(せざるを得なかった)方法でした(ぼくの時代は前記のテキストはなく、公立の学校で使っていた同じ数研出版の教科書です)。
 数学の場合、「公式や定理を丸暗記し問題演習を」というのが、『普通の勉強法』です。しかし、ぼくは性格上「なぜそうなるのか」を究め、納得がいかなければ『落ち着かず』、前へ進めませんでした。
 たとえば、「根の公式の丸暗記」に労力と時間を使うのではなく、「解を何度も開いてみる」という具合です。公式や定理が導き出せる、その「しくみ」を繰り返し、徹底理解していきました
巻末の問題演習まで、そうした方法をおそらく三回以上(今は三周というようですが)繰り返したでしょう。
 教科書の表紙に手垢が目立つようになった頃、今もありますが、同じ数研出版の「青チャート」で問題演習してみると、おもしろいほど解けました。国立・教育学部という文系でしたが、予備校には一度も通わず(えず)、模擬テストを一回も受けず(られず)、翌春無事合格できました。

 M君もこの基礎トレーニングのあと、「大学への数学」(研文書院)とZ会の受講で、京大理学部への切符を手にしました。他、うれしいことに僕がすすめた懐かしい「モノグラム」(科学振興新社・フォーラムA)も少し使っていたようです。ぼくの場合も、その数十年後のM君の場合も、この方法で受験数学は十分でした

 奈良の有名高校の教師をしている友がたくさんいましたので、この方法の現在の是非を問うてみると、「今でも十分だ」という答えです。「それときちんとした学校の指導があれば、受験なんて、何でもない」と返ってきます。
それじゃあ、今の子は「なぜできないのか」。「なぜ予備校へ行かなくてはならないのか?」ぼくは、そこに、現在の学習法・受験勉強の大きな問題点がある、と思っています
 
学体力の欠落
 それは親子共々の、依頼心・安心料・責任転嫁のなせる業です。つまり「誰かに頼りたい」、「誰かが何とかしてくれる」、「うまくいかなければ誰かが悪い」という「心の構え」の蔓延です

 小学受験・中学受験を経て大学まで、受験という受験を、「誰かに頼って」『どこかに預けて』乗り越えてきたことの「弊害」です。いや、受験だけではなく、時代の大きな流れが、そういう方向で流れてきているのでしょう。
 「甘えるところ」が無く、『頼るところ』がなければ、それぞれが頭を使って方策を探り最大限の努力をし、「戦わ」なければならないところです。ところが、いつも誰かがそばにいて、「必要なこと」あるいは「しないで済むこと」まで、すべてまかなってしまう。それを商売にする。そんな環境が当たり前になってしまっていて、もはや、だれも不思議がらない
 そんな中で「学習すること」は『受験』とほぼイコールになり、学習の過程で培うべき「考えること」や「考える力」の養成もどんどん受験寄り・受験一辺倒になってしまっているような気がします。勉強に限らず、本を読み、何日も考え続けるという経験をした子はどれだけいるのか?

 「問題を見つけて、考える」のではなく、「与えられた問題だけを考える」、それ以外は用がない。そんな具合です。
 そうした学習続きでは、一生を生きていくのに必要になる、自ら学び考える力=「学体力」さえ、身につける機会やタイミングが生まれません。これは、思ったより簡単で、小さいころから、ひとりでやることが多くなるほど育っていく力です
 考えることや考える習慣をきちんと身につけてさえいれば、大学受験も余裕をもって乗り越えられる。これからは、そんな子どもたちの登場が待たれるのではないでしょうか。そういう子どもたちを育ててみたい。今頭にあるのはそんなことばかりです。

 
小学生の算数指導で、日ごろ心がけるべきこと
 さて、学体力をつけるために、あるいは考える力をつける一つの方法として、日ごろの算数指導(勉強)で心がけるべきことを少しお伝えしておきます。
 九九や計算問題に対しての習熟は言わずもがなですが、3~4年生になり、文章題が出てくると、子どもたちが答えを出す過程での式の使い方・立式した考え方を確認し、もう一度辿らせていくことがたいせつです

 計算が得意になった(できるようになると)子どもたちは、満足に確認をせず、計算方法だけを覚えて、考えないで(機械的に)類似問題の答えを計算してしまうことがよくあります。
 答えを導き出す時に「何をどう考え、式が出来たか(つくったか)」をたどらせてみること。それによって『問題をよく読むこと』や『式を作るまでの思考過程』が反芻できます。解答に至る考え方を確認する習慣がつきます。いつの間にか式ができて答えがあったというレベルとは格段に違う数学のセンスや学体力が生まれます。もちろん緻密な思考過程も養うことができます。団ではもっともたいせつにしている算数指導法のひとつです

ロングマン(英英辞典)を常用する
 さて、それではM君の英語の指導法です。M君は英語のほうが苦手のようでした。当初グレードリーダーの簡単なレベルを手渡して読ませても、きちんとは読めなかったのです。

 英語の参考書を使い、単語集を使い、問題演習を重ねれば、受験には間に合うかもしれません。でもぼくは自分が大学へ行った時の苦い思い出がありました。受験には合格したものの、英語のリーダーさえ満足に読むことができなかったのです。あれだけ「英語」を勉強しても、こんなに読めないとは! それが情けない実感でした。そうなってはほしくない

 M君の能力の高さは分かったので、彼には、ぜひ入学しても原書をそれほど苦労せず読むぐらいの実力はつけてほしい。英語の講読と受験学習を同時進行で進めたい。他は桐原書店の有名な英文法問題集と、これも懐かしいレジェンド「和文英訳の修業」をすすめ、講読は簡単な原書を中心に一緒に読んでいくことにしました。
 そして、ここでも、ぼくの経験した方法が役に立つだろう、という手ごたえがありました。英英辞典の常用とCDの聞き流しです。

 「単語の知識を増やすこと」と「英語の感覚を身につける」には、英英辞典を常用して単語調べをすることが一番だという確信がありました。数年前、京大に進んだY君が高校2年の時、英語がどうもよく読めない、という悩みを打ち明けたので、始めた方法でした。彼とは一緒に「老人と海」を講読しました。