『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

シナリオ学習の報告ー殺人犯はタブレット

2018年03月03日 | 学ぶ

なお、今週は昔懐かしい子どもたちの写真を掲載しています。
抹殺された真実
 子どもたちの入試が終わったら落ち着ける、と思っていたのですが、いろいろ野暮用が降りかかり、気の休まる暇のない毎日でした。「年をとってきたんやから、もう、ええ加減にしてや、勘弁してよ」という感じです。一時中断していたシナリオの学習を始めようとしましたが、何かと気の散ることも多く・・・なかなか進みません。
 そんなとき届いた分厚い封筒。名前の横には、「抹殺された真実」と朱書されています。
 しばらく音沙汰のなかった高校時代の親友からでした。トーマス・マンが大好きで、『魔の山』・『トニオ・クレエゲル』・『ヴェニスに死す』・『ファウスト博士』等の読後感を、目を輝かせて述べる彼と、ドストエフスキーや芥川龍之介、カミュやサルトルを読んでいたぼくの、お互いにいつも「かみ合わない会話」をしていたあの頃が、懐かしく蘇ってきました。


 封を切ると、中にはぼく宛の手紙と、彼が知り合いに宛てたであろう、長文の手紙のコピーが入っていました。ぼく宛の手紙には、彼一流の冗句で、「黄昏を迎えた長い『三分の二』生(!)を振り返ってみても、こんな複雑な方程式が解けるのはキミくらいだろうから・・・」という、「身に余るお褒めの言葉」とともに、いかにも「今風」、理不尽なできごとの「概略」、長年の夢と思いと努力を込めた一途な取り組みの仕上げの時に受けた、「悪意」と「謀略」による冤罪の経緯、その無念さを告発すべく「抹殺された真実」が明快に記されていました。第三者のぼくが見ても、姑息な手段を使った、とんでもない「濡れ衣」です。
 何度も手紙を読み返し、事実関係を辿り、できごとの経緯の探索を進めてみると、「隠蔽体質がもたらした袋小路」「浅薄で陰険な情報操作」「弱者の仮面をつけた魔女」等々、さまざまなコピーで代表されるテーマが脳裏をよぎります。「軽薄短小」という四文字熟語で代表されてきた「現代社会の闇」をえぐるべく、シナリオや創作を修業中のぼくには、まさに「天啓」です。

エゴン・シーレ
 数十年前、写真に夢中になっていた頃、訓導を受けた深瀬(昌久)さんが、ぼくが訪れた原宿のマンションの一室で、「鴉」という、壁一面の彼の作品を背に、「・・・おい、どうしてオレを撮らないんだョ、今!」と酔っ払っていました。
 泥酔で首を前後に揺らしながら、「・・・キミはすごいよ、・・・エゴン・シーレだ。そうだ、エゴン・シーレだ・・・暴くんだよ、キミは。暴く・・・キミの写真はすごい。カルチャーショックなんか、もつ必要はまったくない・・・」。

 ぼくが雑誌で深瀬さんの写真を見て、「この人なら・・・」と、彼に写真を見てもらいたく、作品の提出に「カメラ毎日」のコンテストを選んだことがまちがいではなかった、深瀬さんもぼくの感覚を理解してくれたと感じた、うれしい瞬間でした。
 深瀬さんに連れられて行った新宿駅前のパブでのパーティには荒木経惟さんも、当時元気だった奥さんの洋子さんを連れて出席されていました。トイレで、偶々荒木さんと一緒になり、朝顔に並びながら、平凡パンチでの選考のお礼を云うと、「ああ、君かァ、おい、奥さんだろ、もっときれいに撮ってやれよ~」と笑いながら、注意されました。「真実を暴く写真」の想い出です。
 その後、故あってカメラを目指すことはできませんでしたが・・・。
 手紙をくれた彼も、小さいころから見ていた、ぼくの感覚がわかっていたのでしょう。助けてくれないか? という叫び声が聞こえるようでした。

潮解するナメクジ
 何が正しいか? 真実は? そして人間とは? 
 正義、善、良心、信頼・・・そういう、人として「かけがえのないもの」が、ことごとく、「悪意」や「欲望」という塩で、ナメクジのように汚らしく、潮解してしまわなければならない時代なのか・・・。
 「正しく、健やかに、清らかに」、かつてはそういう子が育ち、そういう子が集ったはずの学校・教育界も、欲望まみれのさまざまな陰謀と策略が渦巻き、ノイローゼや退職に追い込まれる事態も頻発するようになっているようです。考えたくはないことですが、「人としての正しい判断力」や「正邪の感覚」・「倫理観」が崩壊し、子どもと教師、親と子の愛情・先生と親の信頼関係なんか「そっちのけで」、世は曲がって曲がって進んでいるのではないか?
 「自分さえ良ければよい」。「バレなければ何をしても良い」。「拾ったものは私のもの、借りたものも私のもの」。「バレそうになったら、うまくごまかせばよい」。「自分が助かればよい、相手のことなんか『くそ食らえ』」。そういう社会になってしまったとすれば、今こそ警鐘を大きく鳴らすことが必要です

 手紙をくれた彼と同じく、塾を自営しているぼくは、かつて、ひとりの団員のお母さんに、学生運動のことを聞かれたことがあります。ぼくは、党派に属していたわけではなく、「若さゆえの許せない正義心」から、「何とか良い世の中を」と、デモの隅っこで理想と悲憤にもだえながら隊列を組んでいただけなのですが・・・。
 「・・・なんで学生運動やったんですか?・・・」。
 ぼくは一瞬、唖然としました。エッ?! 何でやった? なんでやって? 本気で云ってるんだろうか? この人は! 「当時は、みんな、世の中を何とかよくしたい、何とか良くなって欲しい」という、心の底からの願いと熱情からに決まっているじゃないか! 
 想像もできなくなっているんだな。これじゃあ、こんな感覚じゃあ、デモや運動で大けがをしたり、なくなったりした仲間たちはすくわれないなあ

 自分以外のこと、世の中のことなんか「他人事」で、「世の中を見る視点」なんか、ほとんどないんだな。デモで怪我でもしたら、「バッカじゃないの!?」になるんだろう、きっと・・・。「少しでも世の役に立って欲しい、そんな子を育てたい」と、本気で考えてる人はどれだけいるんだろう? ほとんどないんだろうな。
 そういう子が増えなければ、自分たちの願いも、理想も、よりよい世の中も、決して叶えられることはない、ということがわからないんだろうか? 「子や孫の時代の理想」ではなく、自分の日々の欲望や欲求だけで生きてる人が、ホントに多くなってるんだろう・・・
 以前にも書きましたが、何度考えても、ぼくの東京時代、若かりし頃、彼が今度連絡をくれたような、「禍々しい事態」に遭遇したことはありません。「ものごとは、もっとストレートで、澄明でわかりやすく、人として、仲間として手を添えられる、理解が整う」日常でした。ぼくがだまされてしまった「詐欺師のやりくち」でさえも・・・。
 心から謝りなさい・・・。「あやまれ!」。ぼくは彼を陥れた「闇」に、そう声をかけたくなりました

著作権フリー
 近年は、汚くて情けなくて、「たとえ指先でも触れたら汚れる」ようなことが多すぎる気がします。日本人か? 日本人のやることか? いや日本人に限らず、人間がやることか? 

 「自分さえ良ければよい」、「自分が助かればよい。そのためには、人のことなんか、『構ってられるか』」。そういう社会になってしまったのでしょうか? 華やかで清々しいオリンピックの陰で。
 さて、来週から掲載するストーリ―等は、手紙をくれた彼の体験・内容を元にしていますが、登場人物の名前・職業・地域等すべてフィクションで、ぼくのオリジナルの作品です。実在の人物・事件とは何ら関係がありません。今後シナリオになるか、小説(まがいのもの)になるかは、残された時間の有無・ぼくの能力次第です。
 なお、このストーリー・物語の展開等、すべてのアイデアを「著作権フリー」にします。お譲りします。作品化されても、ぼくは抗議もしませんし、賠償請求も一切しません。逆に、ぼくが先に作品化したからと云って、著作権の主張はやめてくださいよ、お願いしますよ(ははっ)。
 どうして著作権フリーなのか? 今こそ、こういう事態・世相について、みんなで問題意識を共有することが、もっとも必要だと思うからです。シナリオ化、小説化、テレビ・ラジオドラマ化・・・。すべてフリーです。みなさんの体験を元に、ストーリーをふくらませてください。特に教育界に籍を置く方・学校関係者には、教育・指導方法の改善や現場環境等の告発・問題意識喚起に格好のテーマだと思います
 「深瀬さんの写真」に対した「ぼくの感覚が未だずれていないとすれば」、まちがいなく問題作・良い作品になるはずです。現社会の暗部をあぶりだせるはずです。

殺人犯はタブレット
 ストーリータイトルは、「殺人犯はタブレット」。「え~っ、タブレットなんかで人を殺せるの?」。
 即答で、「殺せます」。いや、「殺されます」かもしれない。それほど人間社会は魑魅魍魎にあふれるようになりました。
 理由です。

 ここに、芥川龍之介の『羅生門』があります。中・高の国語の教科書には、かつて(今も?)必ずと云ってよいほど掲載されていた(る)短編で、今昔物語に材をとった作品です。内容は違いますが、黒澤明の映画のタイトルにもなりました。
 さびれてしまった平安京の羅生門で、置き捨てられた死体の髪の毛を、金(かね)に換えようと抜いている「老婆」と、それを見つけた「仕事にあぶれた下人」という、ギリギリの状況にいる人間の、「心の闇」を表現しようとしたものです。国文学者の三好行雄の解釈に、そのヒントがあります。
 
 彼ら(下人・老婆)は生きるためには仕方のない悪の中でおたがいの悪を許しあった。それは人間の名において人間のモラルを否定し、あるいは否定することを許容した世界である。エゴイズムをこのような形でとらえるかぎり、それはいかなる救済も拒絶する(「現代日本文学大辞典」より)

 「悪を許容しあって、悪の中で平気で生きることができる人間」の中に、「善人」が「ひとり」紛れ込んだとすれば、その善人は、「自ら生命を絶つ」か、「悪の暴露を阻止するための陰謀で殺される」しかないのではないか。
 今昔物語の時代には未だ決して複雑ではなかった、「善悪の基準」は疾うに崩壊したのだろう・・・。善人の追放や抹殺を企む、善の仮面をかぶった魑魅魍魎が、ぼくたちの社会を席巻しはじめているのではないか? ぼくはそう考えました。
 そうであれば、「タブレットひとつ」で、善人は死にます。ストーリーや登場人物は来週から順次掲載する予定です。

「もっとも危ない」のは「人の心」
 このブログを始めたころ、ぼくはナイフ(肥後守)を子どもたち一人一人に渡すことについて、こう考えを述べました。(当ブログ2012年9月15日アップ分『つくらせズ 肥後守は凶器か道具か』参照)
 ナイフや刃物の取り扱いも子どもたちを育てるに当たって考えなければいけない、大きなテーマです。
 かつては小学校のクラスの男の子はほとんど全員が切り出しや肥後守をもっていました。
 鉛筆を削るのはもちろん、枝を切る、皮をはぐ、木を尖らす、どんな遊び道具をつくる際にも重宝しました。竹とんぼや弓矢、釣り竿、水でっぽうや杉でっぽうづくりの大切な道具でした。女の子の筆箱にさえ、小さな刃がついた鉛筆削りが入ってました。
 切り傷や擦り傷、当時はほとんど毎日です。当たり前でした。みんな気になりません。きれいな切り傷であれば二十分位ぎゅっと押さえておくと、傷跡はくっつき血も止まりました。時には化膿することもありましたが、身体はそういうとき、見事な回復力を発揮してくれました。
 放課後や休日、男の子たちは肥後の守を使って、雨の日は近所の軒下で、晴れた日はあぜ道の陽だまりで、竹とんぼや水鉄砲をつくります。作業は簡単ではありませんし、刃物の扱いが常に危険と隣り合わせなことは、今も昔も変わりません。ナイフを使うには細心の注意はらい、集中し続ける力が必要になってきます。
 稲刈りの鎌でもナイフでも、刃物は使ってはじめて力加減・威力・便利さや怖さが分かります。使ってみてはじめて、ふざけて使ったら危険だということも分かるのです。注意力や集中力も実際に使ってみないと身につきません。

 刃物を扱っていれば怪我をすることもあります。今のお父さん、おかあさんなら大騒ぎするかもしれません。しかし、怪我をしたぼくたちは、指先の痛みとともに、小さな傷とは比較にならないくらい大切なことも学びました。相手に対する痛みです。
 心配する母親の気持ちを想い、自分と同じ血が流れる仲間の姿が見えました。自らが感じる痛みと相手に対する思いやりは決して切り離すことはできません。 ゲームでコントローラーを通じて画面の相手をKOしても、「抹殺」しても、相手の「痛み」は分からず快感しかありません。こんな危険な育ち方はありません。 ナイフ事件で大騒ぎする人たちは、倒しても傷つけても殺しても「快感」しかないゲームに夢中になることの恐ろしさを、どうしてもっと強くアピールしないのでしょうか。ここでも「危険であることの誤解」がはじまっています。
 ニュースなどで見る事件が悲惨な結果になるのは、多くの場合、「ナイフ」や「包丁」を「道具」として実際に使った経験がない、身に及ぶ危険や怖さを知らないで育った場合ではないでしょうか。 使った経験がなければ、危険度や与えるダメージの大きさを想像することができません。自らの身に及ばない危険は危険ではありません。自らの身に及ばない危険ばかりで育っていれば本当の危険はわかりません。
 開塾以来、子どもたちにナイフを渡しつづけ、また毎年の稲刈りでもよく切れる鎌を使いますが、過ちはもちろん、怪我もほとんどありません。その成長ぶりを見ていると、経験を重ねれば、今の子どもたちも僕たちのころと変わらないことがよくわかります。
 ナイフは道具であり、使い方やルールは使ってこそ会得できます。小さな怪我が大きな過ちを未然に防ぎます。使ってみなければ使えるようにならないし、怖さや危なさもわかりません。
 ヒトが創造的になっていったのは、道具を使い、「つくる」という経験を重ねていったからではないでしょうか。僕たちと道具を切り離すことはできません。道具はいつまでも現れ続けます。そしてナイフに限らず、使う人の心を育てない限り、道具はいつでも凶器に変わります。 セルフコントロールできる人・信頼できる子どもたちを育てられない環境・育てていこうとしない社会ほど、未来のない、そして恐ろしい社会はありません。 何よりもたいせつなことは、危険な道具を危険と認識し、使い方や使い道をわきまえている子どもたちを育てる環境を整えることではないでしょうか

善悪の彼岸
 ここでは「切れば血が出るナイフとゲーム機で養われる『感覚』と『感性』発達のちがい」について述べていますが、この中に、意識せぬ間に、現在さらに社会に深く浸潤している、「自らを律する、セルフコントロールできる倫理観の喪失」という問題が隠れているのがわかりますか? ゲームへの欲求をセルフコントロールできる子どもがどれだけいるのか、近くにあるコントローラーを平気で無視できる小さい子は何人いるのか? よほど「保護者の意識の高い」家庭でない限り、歯止めがきかない、コントロールできない日常がつづきます。
 心の「限度」、自分を律する『ガードレール』ともいうべき支えが、決定的に崩れはじめています。突き究めるべきは、ナイフを持っていようと、「何を持っていようと、何を持っていまいと」、「いけないことはいけないし、やってはならないことはやってはならない」という心の「崩壊」への傾向に歯止めが効かなくなる問題です。

 悲観論ではありません。心から、みんなで、よりよい社会を、という切なる願いのもとでの発言であることを、ご理解ください。
 この一節は、すでに当時もぼくの目には見え始めていた、そういう傾向を危惧する意味を込めても、述べたものでした。この比喩が「ナイフとゲーム」という間は未だ良かったが、ゲームで育った子どもたちがおとなになって、心そのもの、善悪の理念や正邪の判断基準などさえ崩壊しつつある社会が現れつつあるのではないか。子どもだけではなく、そういう洗礼を受けたおとなが(も)増えてきているように思えます。まさに「善悪の彼岸」です。
 ゲームでいつでも「一人遊び」でき、「何不自由ない環境で育った人は、別に相手に遠慮したり、相手に思いやりをかけたり、気を遣ったりする必要はありません」。昨年『忖度』という言葉が時流に乗りましたが、そんなに遠くない未来には、おそらく「忖度」という気づかいも、忖度という言葉もなくなるでしょう。自分以外の生きている相手に対する気づかいや思いやりなど、気づかなくなり、次第に関係なくなるからです。
 昔、「日本沈没」という小説が映画化されましたが、あのときは日本列島でした。しかし、今は日本人としての『たしなみ』・『気づかい』や『思いやり』も、海の藻屑になりつつある、と感じている熟年者が、未だ日本列島にたくさん残っていることを信じたいものですね。


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