monologue
夜明けに向けて
 

試練  


平成9年1月10日午前10時丁度に妻の勤める都心の宝石店のファクシミリ機が作動した。前日、すべての商品を本部に送るようにという指示があり、店には売るべき品物が皆無であった。朝、開店前に新商品が入荷する予定だった。届けば大急ぎで陳列飾り付けをして平常業務に就かねばならないがまだ来ない。従業員は一抹の不安を感じながら商品の到着を今か今かと待ちわびていた。しかし、届いたのはそのファクスだけであった。
その文面は「甚だ残念ながら当社は平成9年1月10日午前10時をもちまして破産いたしました」全国の支店にも同じ文面が配布された。ことは本社のほんのわずかの幹部によって極秘裡に進められ店長クラスといえど知る者はなかった。泣き出す社員たち、狂騒の中で店じまいは行われた。それは数々の会社の倒産劇の始まりのひとつで、日本全体の行く末を暗示する雛形のようだった。業界トップの座にあった外見上、安定優良会社はバブル期に畑違いの不動産購入に走り、いつのまにか巨大な白蟻に中身を食い尽くされて、何も知らない従業員の重みに耐えかねて大魔術のように倒壊消失した。
嵐の海に投げ出された従業員たちは世間の非難中傷の雨を浴びながら大渦に浮かぶ藁にすがって再就職の道を求めた。かれらのすがった藁はそれぞれのために用意された試練への優待券だった。その券には前の会社の名前はもう印刷されていなかった。
過去に終止符を打って訣別してこそ玉となるために新たな試練が与えられる。
 それではと、妻は資格に関する本を入手して吟味した結果、これまでと全く違う業種に活路を求めて、宅地建物取引主任者の国家資格試験の受験準備を始めた。
半年間、資格試験専門の学校に通い、何がなにかわからない法律用語の理解に取り組み、朝から晩まで何冊もの問題集を解き続けた。市販の問題集はほとんどやり尽くし、一度やった問題の答えを消しゴムで消して何度もやり直した。そして、試験当日までには問題を最後まで読むまでもなく、一瞥しただけで条件反射的に正解を書けるまでになった。そして十月の試験合格後、十一月にある不動産会社のその支店初の女性営業社員として男たちの戦場に参戦した。
 それから十年が経過して当時女性社員採用に反対した男性社員たちはほとんど他の職場に去り、世代交代した営業社員たちを妻は次長として日々叱咤激励して働いている。
fumio



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