物事の判断や評価をするような場面、意見を求められた場合などで
できそうでなかなか難しい「多角的に見たり考えたりする」
「広い視野で」「包括的に」「大局的に」や「俯瞰する」など
ものの見方、考え方について様々な言い方を表す言葉での答えを
求められると感じた場合、何をどのように表せば・・・と考えると自分の
知識や情報力では容易にその表現ができないばかりか実践するとなると
さらに難しいと思う。
しかし、いろいろなことをきっかけにその経験や体験をもとにして
無理なくできる(やる)人の存在を知り、その人達が自分の考えや行動
のみにこだわらず、多くの人達との交流によって多くのことを学んだり、
知識や情報を得て、機会ある毎に的確に表現していることを思うと
あらためて人と人の交流、未知だった世界との繋がりのようなものの
大切さを少しだが思い知ることとなった。
私が常々考えるブログの効果もその一つで、多くの人達の様々な
考えや意見を聞き理解し、いいことはやってみるという行動が
できれば少しは今まで自分には無かった、或いは意識もしなかった
違った自分の一部を見つけ出せるのかもしれないと思った。
(半分は自戒、半分は期待して)
小さくても心に沁みる言葉や胸を打ち、自分の行動によってまた
その輪が拡がるという波紋のようなものであったり、さざ波が
大きなうねりにもなり得ることも・・・
昨日の夕刻、生ぬるい風の中、すぐ近くのスーパーへ行った時に
大柄な外国人女性が商品を探している様子をみた中学生らしき
若い女の子が臆することなく側に近づき、何か話しかけていた。
「臆することなく」というのは日本人の多くは外国人と話すことに
恥ずかしさや一種の不安のようなものを感じる場合も多いようで
日本人特有(?)の真面目さから正しい文法で話せるだろうか?
言葉が合っているだろうかなどという考えが先立ち、できれば
避けたい・・と思う人も少なくないようだ。
私は『さすがは現代の中学生だなとも、勇気ある行動だなあ・・とも
思った』
私自身も以前は恥ずかしさもあり、積極的に話すなどと言うことは
できなかった。
積極的に近づき、上手く喋ることなど望むべくもないし、できない
私だが・・・幼稚園の頃から外国人を見ると駆け寄り『What your
name』と声をかけていた息子が、9年ほど外国(メキシコ)で
仕事をし、外国人と結婚したこと、そして私達が彼の妻との
交流によって、だんだん外国語を敬遠することがなくなったことや
その後、月日の経過と孫の成長(息子の家庭ではスペイン語)に
よって、スペイン語や英語にも余計な神経を使わず、意思の疎通を
主体として話すことによって徐々に違和感なども無くなったように思う。
外国語を流暢に話す人日本人男性を軽薄だと思ったり、その人が
日本語で話していたとしても軽薄なイメージを持ったりする
女性がいる・・ということを塩野七生さんも言っていたような
気がする。
更に滑らかに外国語を話す人に対して少し嫉妬の気持が働く
ケースもあり、また自分ができないことに対する無意識な
劣等感なども・・・
塩野さんはこうも言っていたような・・・
それは・・外国語を話せることを自慢する人も外国語を話せる
ことを馬鹿にする人達も救いようのない馬鹿であり、外国語を上手く使う
ことは違う文明で育った人たちを理解するための基本的なものだとも・・・
そして塩野さんは誰もが外国語の達人であることが必要である
と言ってるわけではなく外国語に対する「耳」を持っているか
どうかであると・・・
遠い昔、ローマ人はラテン語のみを話し、高い文化とされたギリシア語
や周辺の国(現在のイギリス、フランス、ドイツなど)の言葉に疎く、
一部の人しか話せなかったようだ。
英語が国際語になっている現在、日本人が英語を話すようになれば
英語しか話せない外国人よりも、そして通訳を介しての会話よりは
遙かに理解もできるということなど・・・
塩野さんの言葉をすべて覚えているわけではないが、言葉は
道具であり、上手く使えば人生が豊かになるいい道具であると
いうことが言葉を上手く使えていない私の脳に深く刻み込まれたような
気がするのである。
取りあえず日常の言葉に対しても考えてみようと思う。
それでは私も遠慮無く、今日から一層の親しみを込めてkenさんと呼ばせていただくことにしましょう。
kenさんには前回も今回も過分な言葉をいただき、
恐縮しています。
私はただ、思いのままに筆を進めるだけで決して文才などありません。
私が交流させていただいているkenさんや皆さんの
記事や言葉には学ぶことが多いことを嬉しく思い、
記事の内容に賛同していただいたり共感を持っていただいたりすることには本当に喜びを感じています。
今日のkenさんのコメントで仰っている日本と世界観はその通りだと感動しております。
今後ともよろしくお願いします。
「昔は優秀な留学生といえば、日本人だった」
それが今では他のアジア諸国等になってしまった、まず、文章力がない、と嘆いておられました。
更に問題なのは、会話の中身、ですよね。
個人的には、語学力は、さほど問題ではない気がします。
「何を話すか」
遠慮がちで大人しい国民性と、教師が一方的に喋り、板書するだけの教育制度も 「発信力」重視の欧米諸国(南米や他の諸国も)関係しているとは思いますが...。
更に問題なのは、全般的な国語力の低下です😢
筆圧もない。字が薄い。短文も書けない。
子供のころ、あって当たり前だった「世界の名作シリーズ」もいつの間にか絶版。
当然、知っていると思っていた昔話も
「しらな~い」と言われることが多いです。
文部科学省は外国語(英語)教育に力を入れ、小学校でも英語が「教科」になりましたが、寧ろ「国語」の方を強化して欲しいです。
外国語の能力がどこまで伸びるかといえば、「母国語」のレベルまでですから。
fumiel-shimaさんは勿論のこと、先輩方のような豊富な語彙も運用能力も私にはありません。
テキストを開けば、すぐ眠ってしまいます。
塩野七生さん☆彡
これまで、どれほど多くのことを学ばせて頂いたか!
是非、著書名を教えて下さい。
もしかしたら、読んでいるかもしれないなぁと思いつつ、確認の為、知っておきたいです。
京都の観光地や浅草仲見世通りの商店の人たちも、さして外国語が分からなくても気持ちで通じるのですから、言語がなくても肌で感じ合える言葉が大切なのでしょうね。
私が担当している子供たち、語学力がすこぶる劣ります。特に読解力が。本を読まなくなったのも原因の一つかもしれないな、等と思ったりします。
視聴率が高いテレビドラマ「ドラゴン桜」で指摘、解説するように勉強の仕方が分からないということが課題になっているのも頷けます。
旧約聖書「創世記」の「バベルの塔」で、同一言語だった人間の言葉が、神の怒りに触れて異なった言語を使わせられ互いに何を言っているのか理解し合えないようにしたというものでしたが、今日に来て世界の人々が分かり合えることの大切さを取り戻し差別のない平和で愛ある人々になってくれたらいいのですが。大坂選手もそれを訴えたいのでは。
少し話してみないと、スペイン語もポルトガル語も似ていますのでよく判りません。それに片言程度しかボキャブラリーもないのですが、ポルトガル語の方でもスペイン語で結構通じます。
マレーシア語圏でインドネシア語を使うようなものです。いまは、イザとなったらスマホの無料アプリで何か国語も通訳できますので・・・。
中国でも困ったときは筆談で、結構通じましたし、流暢にスペイン語が話せなくても、英語やスペイン語の単語を使いながら図に書けば、ペルーでも欲しものを作ってもらうことができました。
とても素晴らしいことです。要は、「勇気と愛情」で話せると思います。
それを強く感じているすずさんですからおそらくECCでの指導は学校教育とは違った接し方になっていることでしょう。
そして『何を話すか?・・』の大切さを考える機会を得る生徒さん達も幸せだと思いますし、その後にきっと活かされると思いますね。
すずさんの言葉からふと思いました。
内容も状況も違いますが「365日の紙飛行機」の歌詞の中に『その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか それが一番大切なんだ・・・』というところを・・・。
ご質問の塩野七生さん☆彡の著書名のことですが・・・
すずさんが5月15日に紹介された「再び 男達へ」より先に発行された「男達へ」です。
ゴールデンウィークの頃にすずさんは「マキアヴェッリ」についての記事を投稿されていましたね。
塩野七生さんの記事に関心があっても「ローマ人の物語」はさすがに私にはちょっと重いかな・・・と思っていたのですがその後、すずさんの記事(再び 男達へ)が偶然私の誕生日に投稿されたものでしたのでその偶然をバースデープレゼントと考え、次の機会にはぜひ「再び 男達へ」を借りようと思っていたのです。
その後、図書館へ行った時に図書館で「石田衣良」の本、数冊と筋トレの本や歴史書などを借りた際に「男達へ」を見つけたのです。
(その時「再び男達へ」はありませんでした)
私の読書力では返却日までにそれ以上借りても読めないと思い、いずれ、「男達へ」と「再び男達へ」をあわせて読もうと考え、「男達へ」は図書館内で54章のところどころを読みましたので
それを少し覚えていたというわけです。
いつも『なるほど・・・と感心させられる』コメントをありがとうございます。
yamaさん、すずさんの言葉から今の日本の現状が浮き彫りにされ、将来の日本と世界の関係や言語を通しての人類の繋がりの大切さを痛感させられました。
仰るとおりですね。
正しい文法で・・・などと考えていたら外国人との会話などはできませんね。
言葉が通じない分は片言の会話、知っている単語などを使い、身振り手振りで相手にわかってもらおうとすることやその時の表情などが理解し合えることになるのだろうと思います。
相手を思い、自らも近づく「勇気と愛情」がお互いを理解することに・・・と言うことですね。