その2.のその①
ネジバナの不思議・・・
一昨日(10日)の放送で万太郎が腹ばいになって花に話しかけ、よ~く
見るとネジバナのねじれ方が右に巻くものと左に巻くものがあることに
気づくシーン。
我が家の狭庭の芝生にも毎年、春の終わりごろからだろうか、
ネジバナが登場する・・・
その姿を可愛いと思って見てはいたが右に旋回しながら伸びるものと
左に廻りながら伸びるものがあるとは知らなかった。
夏の頃にも咲いていたような記憶があるので今年も何度か見ることに
なるだろう。
その時はよ~くみて写真にとっておこうと思う。
下の絵は昨年から今年の1月までの1年間私のこのブログに併載した
『今日の千恵子選手の絵手紙コーナー』の中からネジバナを再度
掲載したもの。
その2.のその②
今回の朝ドラ「らんまん」が始まってまだ7、8回だがこの間、
何度か懐かしい記憶が甦った。
先日の放送で姉の綾と弟の万太郎がおしおきをされていた時のこと・・・
万太郎が泣くのを姉の綾が諭す場面に私の思い出が同時に重なって
それが私の頭の中を駆け巡るようだった。
昨年・・・
驚くほどの読書家であるブログ友すずさんの「とりかえばや物語」の
解説や感想を読んでその後に投稿した私の記事の途中から懐かしい
思い出の一部を(青色文字の部分)・・・
私たちの年代ではジェンダーと言う言葉だけでは様々なことを
理解するのも難しいことがあるのではないだろうか・・・
唐突なようだが・・平安時代にも形は違ってもジェンダーフリーが
考えられていたのだろうか・・・
実は先日のすずさんの投稿「とりかえばや物語」を読み、何十年も前の
我が家のことをそしてそのころの私の気持ちを思い出した。
ただ女性の生き方を問うようなややこしい物語の内容とは全く
違うものなのだが・・・
物語に登場する異母兄妹の考えや外見、さらに行動が逆であれば・・と
願う父親の心と同じようなものを感じたことがあるということで・・・
この「とりかへ(え)ばや物語」では兄(秋月)と妹(春風)がそれぞれ
自らの意思でその外見や考えを軸に行動していることについてこの兄妹の
親(大納言で後の左大臣)のように私自身も『両者を取り替えたいなあ』と
思ったことが何度もあった。
私たちが受けた教育や育った時代・・ということもあり、私自身も
「男は男らしく、女は女らしく」ということに違和感を持つことも
なかったが・・・
この場合、男らしく・・も女らしく・・も差別的なものではなく
それぞれの良さや特性を素直に納得、認める‥という意味で・・・。
さて、いつもは明るく心優しく気が弱かった私の息子はしっかり者の妹が
『将来私は考古学者かいくつもの会社の経営者になりたい・・』と
言った時に息子は『じゃ、そうなったら僕にその会社のうちの一つを
頂戴・・』と言ったり、幼稚園へ通うバスに乗ると仲間の子供たちは
見送る母親たちの姿などには目もくれず、座席ではしゃぎ始める中、
息子はいつも最後部の席にしがみつき、外から見送る母親たちを見て
『ママ~、ママ~』と泣いていたり、仮面ライダーを見たいというので
催し物に連れて行くと、仮面ライダーが登場しているときは凄く元気で
喜んでいてもショッカー軍団の戦闘員が現れると泣いて私にしがみついて
泣きじゃくったり・・・
少し大きくなってからも兄妹喧嘩をするとその罰として夕刻に2人とも
外へ出され、周りが暗くなるにつれ不安になり、息子は『お父さん、
もうわかったから、これからは絶対に喧嘩しないから早く家の中へ
入れてぇ~』と泣き叫び、妹は『お兄ちゃんっ!お兄ちゃんがそんなに
大きな声で鳴き続けるとお父さんはきっともっと怒って中にいれて
くれないよ、じっと静かにしていれば遅くなっても必ず入れてくれ
るんだから、泣くのはやめてね・・』と諭すように言った時なども
この息子と娘の性格が反対だったらなあ・・と思うことが何度もあった。
また私が少年野球の練習の時に他の子供たちよりも厳しいノックを
息子に連発し、息子は体に球の直撃を受けると泣き出したり・・・
他にもまだまだたくさんあった。
息子は気が弱い子だったが優しさと明るさと人懐っこさは持ち合わせており、
外国人を見かけると会話はできないのに“what's your name?“と声をかけて
戸惑う外国人と一緒にただニコニコしているような子供だったので
引っ込み思案ではなかったようだ。
一方娘は何事もきちんとやるタイプで、二人が一緒に習っていた
エレクトーンの練習も全てきちんとやり、仲良しの友達から
遊びに誘われても、エレクトーンの練習や宿題や勉強や読書が終わるまでは
遊ぼうとしなかった。
そしてそれらをさっさと片付けると先頭に立つようにして遊んでいた。
男は強くあるべきで、女性は泣いても意思が弱くても良いとは決して
思っていないのだが私たちが受けてきた教育もそうだったので・・・
息子を女々しく思ったことも度々・・・
この女々しい(めめしい)と言う言葉も今や差別用語となりかねない
のではないだろうか・・・既になっているのかな?・・私は使わないように
しているが、そう考えると女々しいに対し雄々しいという賛辞のような
言葉にも問題があるのかもしれない。
「女々しい」だけでも問題となれば「女々しい男」はダブルで差別される
ことにもなるだろう。
娘は小、中学校では生徒会長としても活動したが息子はみんなに促されて
ついていくタイプだった。
ただ吹奏楽部のコンクールで演奏の途中、すっくと立ってソロ演奏
(トランペット)をしたことがあり、事前に聞いていなかったので、
その時は息子のちょっとした変貌ぶり(?)に本当に驚いた。
昔から息子にも野球を続けさせたいと思っていた私だが何事に関しても
あまりにも意思が弱いので野球をさせるのを諦め、その後精神面から
鍛えなおそう(?)と私が通っていた道場へ連れていったのである。
その道場は合気道をはじめ、居合道、空手道、杖道など古武道を教える
道場で、私は居合道を学んでいた。
そこの館長(師範)は私と同じ年齢で、野球やサッカーでは全国的に
有名な都内の高校の先生だった。
野球では優勝3回、準優勝も2回を含む甲子園出場も26回という強豪校・・
全国高校サッカー選手権大会への出場も34回、優勝6回、準優勝4回、
他のスポーツでも全国に名を知られたスポーツ強豪校の先生なのである・・・
私はその道場で小学校5年生の息子に「空手」を学ばせた。
とにかく痛いことを嫌がる息子にはどのスポーツも適さないと思い、
精神力を養う意味でも基本的には寸止め空手を主とする伝統空手を
習わせた。
これが後に息子の性格を大きく変えるきっかけとなったのだ。
小学生がいつしか中学生になり部活(吹奏楽部)を終えた後、雨の日も
風の日も道場へ通うことにより、息子にも少しずつ変化が表れ、
高校受験を考えなければならない頃になると自分の意思をはっきりとさせ、
その恩師のいる学校へ行くと決めたのだ。
やがて高校3年生になると息子は子供の頃からの夢であった料理人に
なり、海外で働きたい・・という望みを叶えるためにその先生が全国の
空手の有望選手(息子は含まれず)を連れて海外遠征をしたことが
きっかけで知り合ったメキシコの日本料理のレストランの社長と会い、
そこに就職することになったのだ。
息子は寿司部門へ配属されることになり、私の知り合いを通じて
卒業までという短期間ではあったが寿司職人としての修業の一歩を
踏み出すことになったのである。
余談だが寿司はもちろん魚介類を全く食べない私に寿司屋の知り合いが
いるとは不思議な話でもあるが・・・
そして高校3年時はアルバイトを兼ねてこの寿司屋で寿司の入口とも
いうべき修行(?)をさせてもらい、卒業と同時に言葉(スペイン語)も
わからないまま単身メキシコへ渡り9年間の生活によって得たものは
大きかったと思う。
それは流暢なスペイン語を話せるだけではなく、外国人との生活で
「個」の大切さを弁え、自分の意思をはっきりと表現したり
是々非々を明確にしたり、物事を大きく広く見ることができるように
なったことだと思う。
その後メキシコ人と結婚した息子が帰国して私が感じたことは子供の
ころは意志薄弱だった男の子が違った環境に置かれるとこんなに
変わるものだろうか?・・と。
一番変わったことはいろんな形で自己の主張ができるようになったこと。
そして自分の発言に自信を持ち、責任も明確にすることなど・・
日本での社会人としての経験がないまま海外で働き、帰国後の
日本の企業での仕事に最初のうちは大きな戸惑いもあったようで・・・
コロナの問題が発生してからは我が家へ来る回数も少なくなったが、
以前は仕事と人の活かし方について悩みも多かったようで私からの
アドバイスも受け入れられるものや実践できるものなども自分なりに
考えていたようだった。
そして外国で培われた仕事に対する取り組みや合理性を取り入れる
ことに躊躇せず、ややもすると古い体制に流されやすい企業内の意識を
変えるために諦めずにやってきたことが功を奏し社内のムードもかなり
変わったようである。
今は中間管理職として忖度なしの仕事ぶりが認められ、本人も自信を
もって仕事にあたっている姿はかつての息子からは想像もできない。
私にはできなかったが息子は海外での生活や仕事を体験したことで
得たものが大きかったのだと思う。
かっては「とりかえばや物語」の秋月と春風のことを考えたその父親
(左大臣)と同じことを思った私だったが「時が経てば・・」まさに
違う結果に・・・
あの頃の息子は大概のことはそつなくこなすのに根気がなく、勉強嫌いで
注意力も散漫だった。(それを求める方にも問題はあったかも?・・・)
そんな息子が環境によって性格が変わったとは思わないが、考え方や
判断力が変わったことで私などは到底敵わないものまで身に着けたと思うと
何となく嬉しい。
時が過ぎるごとに娘のほうにも本来持ち合わせていた優しさや穏や
かさが大きく表れ、「認知症の一歩手前」の軽い症状だと診断されて
いる私の妻千恵子選手への気遣い(ほぼ毎日我が家を訪問)にも
親ながら感心する毎日である。
今回「とりかえばや物語り」がきっかけで思い出したことだが
今や、過去に兄妹の性格が「反対なら良かったのになあ」
「取り替えたいなあ」と思ったことなどが本当にあったのかなあ・・と
思うくらいの遠い、朧げな思い出となっている。
あの頃はもちろん本人たちにもそんなことは言ってないし、今後も
笑い話としても言うつもりなどない・・私だけの小さな秘密なのである。
・・・という思い出が綾と万太郎から甦った瞬間だったのだ。
自分の娘を買いかぶるようだが、しっかり者の娘は今後も
綾のように・・そして私が今交流させていただいている多くの
女性のブログ友たちのように多くの人たちから慕われる聡明、
明哲な人であってほしいと思う。