『いつも、いつでも元気炸裂!』

どんな環境やどんな状況でも、どんな人とでも明るく元気な笑顔で交流するよう心がければ自他ともに更に元気な心が増幅します。

誰もが自分の人生を肯定すれば・・・

2020-09-30 06:40:19 | 喜怒哀楽をポジティブに
私は今の政治に強い不満や激しい怒りなどを持ちながらこうして
ブログで気持ちを吐露することができることをひそかに感謝している。
そしてその思いを解ってもらえる人たちがいることにも・・・

以前何度かブログの効用・・・ブログをやっていて良かったという
内容の記事を投稿したことがあるが、その気持ちは毎日片時も、
少しも変わることなく続いている。

私はブログで多くのことを知った。
そして政治や体制に対する不満や批判、非難だけではなく、日常の
あらゆることに目を向ければ過去や未来に繋がる喜怒哀楽の
様々なものについて自分の気持ちが素直に表現できることも・・・

さらにブログを通じて少しずつではあるが「友達」「仲間」と思える人が
増えてきたこと・・・その人たちと共有できるものがあっても無くても、
その一人一人に尊敬の念を持つことができたこと・・・
そして以前から自分の座右の銘や指針の一つとして思い続けてきた
『我以外皆我が師』を実感したこと・・・年齢は子供や孫ほど離れていても
教わることの多いことを数多く知ったことが一番嬉しかったかも知れない。
  
誰もが年齢に拘わらず多少の(小さなことでも)波瀾万丈的なことを
体験したり、今まさにその渦中でもがき苦しんだり、脱出しようとしたり
している人もいることと思う。

私にも少なからずその「波瀾万丈」はあった。
自慢するわけではないが私は苦境に立たされた時ほど自分の気持ちや
士気を高揚させるために、『困った、参った』などと思わないように
努めてきた。
その基本となったのが社会人となってからすぐに考え、持ち続けてきた
『いつも、いつでも元気炸裂!』と『喜怒哀楽をポジティブに・・・』の
実践でありその後の人生、そして今も、この先も思い続けるつもりなのだ。

過去は反省しても悔やんではいけない・・・あの時があったからこそ
今が・・・今は苦しくてもこれを乗り越えればきっと・・・と思うことで
常に自分の人生を肯定しながらこの先も長く生き続け、いろんなものを
見続けていきたいと思う。

ブログによって多くの人たちの幅広い知識や見識、人間性を学び、
時には自分が誰かに多少の影響を与えられることがあるかも知れないと
考えながら・・・

さあ、私のブログへ訪問してくださった方々、私が言うのも
おこがましいのですが、『私は私である・・』と言う強い意識で
自分の人生を肯定しながら一緒に・・・更に前へ足を踏み出しましょう。


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『爺さんカルテット』のそれぞれ元気な様子にひとまず安心!・・・

2020-09-29 08:01:49 | 喜怒哀楽をポジティブに
今日は仲良しグループ『爺さんカルテット』の一人、Tさんの76歳の
誕生日・・・彼の長女も誕生日が同じなので今朝二人にお祝いの
メールを送信・・・毎年のこととは言いながらも二人は喜び、別々に
「ありがとう」の返信あり・・・

我が家もTさん夫婦も同学年同士の結婚で、Tさんたちは同じ中学の
卓球部で活動し、クラスも同じでまさに同級生。
彼(Tさん)は9月29日生まれ、彼の奥さんは次の年の2月8日生まれなので
学年は同じだが年齢はTさんが1歳上となる。

我が家は私が人事異動で赴任した所属先に妻がいて、たまたま同学年
だったので同期生というところ。
誕生日は妻が5月13日、私が5月15日・・と、妻のほうが2日早く
生まれた関係上、私は『姉さん女房』と言ったりしているのだが・・・

『爺さんカルテット』の残る二人のうち一人は明日が誕生日・・・
明日も早朝からちょっと長めの(迷惑を含む?)お祝いメールを
送るつもりなのだ。

私の記事に度々登場するこの『爺さんカルテット』の3人は
私が最初に勤務(20年)した会社のどこかの部署で一緒に働いた
仲間でありその家族ぐるみの付き合いはそれぞれの子供たちの
家族も含め今もずっと続いている。
最初に知り合った人とは55年ぐらい・・最後に知り合った人は
私がその会社を退職後だがそれでも25年以上・・・

そして昔からテレビのコマーシャルや芸能人に詳しいと言われている
私の『どんなCMのタレント、女優などもすぐに覚える』という変わった
趣味がいまだに続いていることを知っているため彼ら、彼女らは
CMに出演している好きだと思うタレント、女優などの名前や話題の
CMについても『shimaさんのおじさんに聞けばすぐ判るよ・・』などと
言って問い合わせて来ることもしばしば・・こんなことでも頼りにされると
やはり嬉しい。

お互いに何でも相談し合ったり、アドバイスを受けたり楽しく行動
したりで長い年月が過ぎ、今はみんな第一線を退き、慎ましく静かな
生活に入っているが4人とも元気で毎日を迎えることができているのが
一番嬉しい。

今年もコロナ騒ぎの中、あっという間に時が過ぎ、残りはあと
四分の一となった。
コロナの問題で仲間とはまだしばらくは会えないがこれから寒くなる
季節もお互いに励まし合いながら元気で過ごしたい。

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女優竹内結子さんが亡くなったことが伝えられた。

2020-09-28 08:58:51 | 喜怒哀楽をポジティブに
報道では自殺の可能性が高いとのこと。
竹内さんのような評価の高い、そして公私ともに順風満帆だと
思われる女優が何故?・・・と誰もが思うだろう。

私たちには勿論、仕事の仲間や身近な家族にすら解らない、そして
知り得ない彼女の持つ悩みや苦しみがあったのだろうと思う。

自殺だとしても彼女のことを何も知らない私たちは『自殺』について
『何故?』『他に選ぶべき道が・・・』などと個人的に思うことや考えが
あっても軽々に口に出してはいけないと思う。
(決して自死を擁護したり、認めたりするものではないが)

誰もがそして私も『愛する家族を残してまでも・・・』と思うが
表には出ない彼女なりの悩み、不安や動揺、葛藤などがめまぐるしく
交錯したことだけは想像できるので・・・

竹内さんも賢い人なので単純なことが要因だとは思えないが
それを知っても彼女は帰ってこないのだ。
ただ残念な思いで悲しむことしかできない。

でも・・・
やっぱり踏みとどまってほしかった。
私は特別なファンではないが、映画の中のあの凜とした姿も、
私生活での明るい笑顔も見ることができないと思うと寂しく悲しい。
ファンの人たちならなおさらのことだろう
生きていれば喜怒哀楽すべてに新しいいろんな発見があるのだから・・・


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『酒は楽しく飲むべかりけり』

2020-09-27 10:13:22 | 喜怒哀楽をポジティブに
先日(22日)、元TOKIOのメンバー山口達也が酒気帯び運転で
逮捕された。

芸能界を去ることになったのも酒が原因だった。
その後彼なりに
飲酒によるトラブルや問題を起こさぬよう反省や努力もしていたと
言うが・・・またもや不祥事が再発してしまった。

元メンバーとは時々電話等で連絡もしていたという情報もあるが、
離婚もし、周りでサポートする者もいない状況の中で本人は過去の
問題の原因となった「酒」から脱出することができなかったようだ。

彼には以前からアルコール依存症の疑いがあり、酒が原因の
肝臓の病気で入院もし、退院後にあの事件を起こし、妻との
離婚も酒が原因だという。

彼はいろんなストレスを強く感じ、ストレス解消のためだった・・・
という少し擁護するような声も一部ではあるとのことだが、私は
仲間の心も傷つけ、本人自身の生活も一変した問題の反省を
活かすことなく、一人の社会人としての自覚もなくこうして二度、三度と
問題を起こす彼を厳しく見つめる必要があるのではないかと思う。

最初は罪(?)を認めたがその後に否認するとは本当に過去を反省し、
自らを厳しく見つめているのだろうか。
彼のファンや彼の才能(?)を認め、復帰を期待している人たちの
ためにも今回こそ、酒を断つ強い意志とそのための勇気が求められると
思う。

私も偉そうなことは言えないが彼がこの先の人生を楽しく堂々と生きる
ためには今が、そしてこれからが最も重要であると考える。
今の状態を考えるともちろん、カウンセリングや周りの人からの精神的な
支援も必要なことは間違いないと思うが、一番大きな力となるのは
本人の「強い意志」とそれを行うためにかって持ったことの無いような
「勇気」ではないだろうか。

彼にはアルコール依存症のことをよく知り、隠したりそこから逃げたり
せずに立ち向かってほしいと思う。

そして私は常に思う。
誰もが酒は楽しく飲むものであり、寂しさ、悲しみ、辛さなどを理由に
ストレス解消のため・・・などと言ってほしくない。
どんなストレスもその解消は自分自身の心が決めるものだと思うから・・・。

嬉しい場面、楽しいときに前を向き、顔を上げて度を超さずに飲む酒は
精神的にも良い効果をもたらすが、寂しさ、悲しさ、辛さを紛らわそうと
いう気持ちで目を伏せたり、下向きに首を曲げて飲む酒には前向きな
気持ちが生まれてこないのではないだろうか。

もちろん過去、現在、未来にいろんな思いを巡らし『一人静かに飲む酒・・』のような飲み方や過去や思い出を誰かと語り合うような『静かな酒』を
否定するものではない。


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新型コロナの一日も早い収束を・・・、そして終息を望んでやまない。そのために日本が今やるべきことは・・・

2020-09-26 09:00:34 | 喜怒哀楽をポジティブに
新型コロナは悪政にも耐え、嘘もつかず真面目に生きている多くの
国民に・・・同じように懸命に生きている息子の家族にも大きな影響を
与えている・・・

息子は若い頃9年ほどメキシコで仕事をし、スペイン系メキシコ人と
結婚・・・4年後の1995年に帰国した。

帰国後既に25年が経過し、息子の妻も日本での生活や言葉には
何の問題もなくこのまま日本で一生を過ごしたいと話している。

2年前からスーパーのパン屋さんでパートとして明るく楽しく働いて
おり、仲間とのコミューニケーションも良くどうやら人気者でも
あるらしい。

夫婦には1998年に生まれた娘がおり、今はもう22歳・・・
子供の頃から家庭内ではスペイン語を多く使う生活を活かし
昨年春に短大を卒業と同時に日本にも支店のあるメキシコの
観光会社に就職し、まさに水を得た魚のようにいきいきと働いていた。
そして今後もずっとメキシコや海外で働き、将来を貧しくても心豊かな
メキシコで過ごしたいと望み、日々の生活を喜び、楽しんで
いたのだが・・・

今年のコロナの感染拡大がメキシコにも拡がると勤めていた観光会社
にも大きな影響があり、日本人の社員は解雇ではないが
契約の一時解除(凍結?)のような形で順次帰国することになったのだ。
そして私の孫は7月20日に日本へ帰ってきたのだ。

東京にも支店があるとはいうものの新人にはそこへの転勤も叶わず、
メキシコでのコロナの収束が見込まれ、終息が確実となれば再雇用・・・
ということでもう一度メキシコ本社に採用されるという。
その間はもちろん無給なので日本でアルバイトをしながらその日を
待っているのだが・・・

スペイン語を使う仕事を・・・ということで探してもなかなか見つからず
8月からはアルバイトをしながら再びメキシコへ行ける日を待っているが
世界の状況も好転せず、メキシコ行きの日がまだまだ先になりそうなので
やはり寂しそうだ。
日本の片隅に住む孫の希望が叶うためにも一日も早いコロナ全滅作戦を・・
と思う。

世界各地でワクチンや薬品の開発が研究され臨床試験も進んでいる中、
日本は果たして・・・・

勿論日本でも日夜熱心な研究が進んでいることと思うが、治験から
認可までの基準が厳しい日本が外国でできたものを言葉は悪いが
「お金にものを言わせ、他国に先駆けて買い占める」ようなことで
日本人の命を救おう・・・という考えは日本人としてはあまりにも
恥ずかしいのではないだろうか。

今朝の新聞にはGo To関連の政策を拡大するということが大きく
報道されている。
勿論、経済を立て直すことは良いことであり当然なすべきことでは
あると思うが、政権が変わっても経済最優先で人命第一であるべき
コロナ対策は人任せのようにしか見えない。

さらに今、世界中が人命尊重のために一致団結してコロナに向かわ
なければならないこの時期、「イージスアショア」の代替品や
「敵基地攻撃能力を持った・・・」ということにうつつを抜かすところ
など・・・人としても恥ずかしいこととは思わないのか・・・
そんなお金をコロナの影響で困窮している人たちや医療関係に
使うという発想はないのだろうか・・・

過去の悪政の「踏襲」をそのまま「踏襲」では国も国民もそして
末端の小さな家族である息子の家族たちもすべてそれぞれの
夢や希望が打ち砕かれるなものであると思う。

戦争や国と国との関係は言葉や熱意ある交渉で解決できても
コロナは全世界を情け容赦なく攻撃してくるのだ。
真面目である筈の日本は今こそ、真剣にコロナと戦うべきであろう。
何よりも人命が第一なのだから・・・

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腕時計をしなくなってから久しい・・・

2020-09-25 09:58:41 | 喜怒哀楽をポジティブに
腕時計をしない生活になってかなりの年月が経つ。
私が腕時計をしなくなったのは携帯電話が急激に普及した頃から
だっただろうか。

仕事中は片時も離さず携帯電話(スマホを含む)を持ち、家庭内では
いくつもの時計をあちこちに置いてあるし、テレビを見ているときも
時間帯によっては常に時刻は表示されるので腕時計をしないことに
よって不便を感じたことは全くない。
車に乗っている時も時計はあるし・・・

とは言うものの・・・腕時計の良さも・・・
腕時計をつけるのは長い間の習慣だったので特別苦にはならず、
腕に時計があればちょっと見るだけですぐに時刻がわかるという
便利さはあり、スマホの画面の時刻表示より時計の文字盤のほうが
温かみもあるように思えて何故か「ほっ」とするのである。

しかし・・・反面、その習慣をやめて一種の開放感のようなものを
感じているのも事実で、今はむしろそれ(時計をしないこと)が
快適で当たり前のようになっているように思うこともあるので
あらためて考えると不思議でもある。

あの時計はどうなっているかな・・・と棚にしまったいくつかの時計を
取り出してみた。
長く愛用したシチズンの時計も息子からプレゼントしてもらった
タグホイヤーも私が好んで購入したいくつかのカシオのGショックも
最近は電池交換をしていなかったので当然のことながら停止していた。

当時は必需品でありながらそれほどありがたさも感じなかったが
防水検査や耐圧テストなどで腕から離れているときはしょっちゅう
左手首を見ていたことを懐かしく思いだした。

それぞれの時計にいくつもの色々な思い出があるがこれらの時計は
もう二度と使われることなくこのまま多くの思い出を秘めたまま
眠り続けることになるだろう。

動かなければ価値のない時計・・・・
時計は動かなくても外観はいつまでもほぼそのままだが私たちは
頭や体を動かし続けなければ心身共にどんどん劣化するばかり・・・

動かなくなった時計は外部から何か手を加えてやらなければ機能は
回復しないが私たちは自らの意思で自分に刺激を与え、時計のように
正確無比・・・ということは無理でも人としての心を持った
社会生活や人間関係を保つ機能は持ち続けることができると思う。
(迷惑や害にならない程度の誤差を感じながらも・・・)

そう思うと、誤差の無かったこれらの時計を時々見ることで何か
励みのようなものを感じるかも知れない。

そのためにも一つぐらいは電池交換や防水検査、耐圧テストなどを
していつでも使えるようにしておいた方が良いのかも知れない。

便利すぎるスマホの時計画面を見るよりも素朴でも温かみがある
懐かしい文字盤を見ればさらに懐かしい思い出も拡がり、更に元気に
なるだろう。



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今日からシャワーの日をやめて連日風呂(入浴)の日に・・・

2020-09-24 09:35:30 | 喜怒哀楽をポジティブに
朝起きて窓際に立つと外は霧雨のようだった。
ドアを開けると風が無くても肌寒さを感じるくらい空気が
冷たくなり深まりゆく秋を感じる。

台風12号の本土直撃は回避されたが強い雨と風には
しばらく警戒を要す・・・という情報。
17.5度ぐらいの気温も11月並みだという。

食後、狭い庭の隅で数少ない花の様子をみて思いつき、
花の図鑑で秋の花を見るとその種類の何と多いことか・・・
我が家の周りの民家にも少し前から既に秋の花がかなり咲いている。

早朝に少し「ブルッ」として目が覚めたのは私がまだ半袖パジャマ
一枚で寝ているからかも知れない。
(エアコン使用に関係なく足下にはタオルケットを用意しているのだが)

マンションは機密性が高く、建物の構造から暑い夏も寒い冬も直接
外気が入ることもなく、室内も快適な温度を保ちやすいので就寝時は
毛布、夏掛け、タオルケットなどは使わずいまだに半袖パジャマ
一枚なのだ。

パジャマ一枚・・・と言っても私は暑がり屋ではなく、むしろ真夏の
カンカン照り・・・焼けるような炎天下が大好きで暑くてもあまり汗を
かかないし、寒さにもそれほど弱いとは思っていない・・・
いろんなタイプの人と合わせられる都合の良い体質なのかもしれない。

そんな私なので本当は真夏でも毎日浴槽に首まで浸かりたいと思っても
我が家ではいつの頃からか夏の間の風呂を炊くのは週に2回程度と
なっている。

私は風呂へ入る時には浴室内に暖房をつけるくらい暑いのが好きなのだが
決して寒がり屋でもないところが家族(・・と言っても今は二人だが)
からは『面倒くさい奴』となっているのかも知れない。

その私にとっては悪しき暗黙のルール(?)のシャワー過多が先週も・・・
そして一昨日まで続いていたが昨日はさすがに妻も風呂に入りたいと
言ったので私はニンマリ・・・

さあ、今夕からは『家長の権限(?)』でシャワーは停止・・連日風呂を
湧かすことにしよう。
ビールが一段と旨くなるぞ~っ!        
そしてパジャマもそろそろ長袖に・・・・更に薄手の毛布も用意する
かも知れない。



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予想を超える人の動きや流れ・・・果たして2週間後は?

2020-09-23 10:19:18 | 喜怒哀楽をポジティブに
この4連休もあっという間に終わってしまった。

仕事をしている人たちにとってはこのコロナ禍の中でも
この連休を有効に、有意義に使いたいと事前にいろいろと
予定をたてて楽しみにしていた人も多かったことだろう。

個々の希望が叶い、目的目標が叶った人たちにとっては
本当に良かったと思う。

一方、やはりコロナの事が心配で計画中止や控えめな外出で
ささやかに連休を過ごした人が多い・・というのも頷ける。

人命よりも経済を最優先する政府は感染者数も減少傾向にあると
判断し、時短の制限解除や東京発着を含むGo Toの推進を
打ち出したことによってかなり多くの人たちが収束の兆しが
見えたと思い込んだのか、勘違いしたのか、最近は人の流れが
大きく変わり、街の中の様子も変わってきたようだ。

ことに、この4連休は行楽地や観光地が賑わい、それ自体は
良いことだと思うが、ゆっくりと安定した本来のような人の
動きでは無く、まるで洪水や雪崩のように一気に大勢の人で
溢れたことが今後、残念な形で表れたりはしないのだろうか・・・

欧州型Go Toといわれるイタリア、スペイン、フランスなどでは
感染者が急激に増加しつつあるようだ。
日本も2週間後の状況がどうなるのか大変気になるところだ。

日本は欧州型GoToの二の舞にならぬよう、今後の政策には必ず
確実な「工夫」と「改善」を完全に徹底したものを確認の上で
打ち出してほしいと思う。
何もかも「踏襲」では何も変わらないし、人心の不安が増幅
するだけなのだから・・・


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ブログをやっていて良かった・・・『番外編』

2020-09-22 05:58:44 | 喜怒哀楽をポジティブに
私がブログを始めたのは2年ちょっと前・・・
何をどう書けばいいのか全く検討もつかないまま、ただ自分が日々
思いつくことを素直に書いてみようということで始めた。

ある時、初めていただいたコメントがきっかけで同じ思いを持つ人や
いろんな事象に対する感動を共有できる人が現れたり、自分とは少し
考えは違ってもそこから学ぶことができたり・・・と日を重ねる毎に
ブログの楽しさと共に自分の考えや言葉に対する反省や文字にする
責任のようなものも少しずつ感じるようにもなった。

そして、楽しく交流できる仲間が少しずつ増えて喜びも次第に大きく
なっていったのだが・・・

急に世界が一変したようなコロナ禍の中でも依然として無策と無責任で
暴走を続ける安倍政権については『悪、許すまじ・・・』の信条から
私も暴走気味に罵り、蔑むように不適切で辛辣をきわめるような言葉を
多用して政権批判をし続けてきた。

こうして、時には自分自身、激しい感情を表さずにはいられないことも
あったが交流仲間のお陰で今年は7月上旬に我が家といろんな共通点も
あるような「すずさん」という新しい仲間とも知り合うことができて
大勢のすずさんファンと共に楽しく交流させていただいている。

そうして今までの交流のお陰で今夏、また新しいブログ友(・と言えるの
かな?・・私はそうありたいと思っているのだが・・・)に巡り会う
ことができた。

その人は私たちが毎日楽しく交流させてもらっている「すずさん」同様、
本が好きで小さい頃から本が友達だったと言うくらい本を読み続けて
きたという女性Mさん。
私が言うのもおかしいが語彙は豊富で文章も鮮やか・・・
時折「はっ」とするような言葉や会話調の文章などにも感服する。

コロナの問題や政権批判についても深く確かな知識と積み重ねた根拠
ある情報で自分の考えを堂々と主張する一方、自分とは違う考えや
反対の意見にもしっかりと耳を傾け、多角的、大局的見方で物事を
判断しようという考えで記事を投稿・・・・

これに対し、誹謗中傷するコメントや嫌がらせの記事も多いようだが、
そういう人たちに対しても冷静沈着に対応、ストーカーもどきの輩には
理路整然とした返信で論破するという勇敢な(?)女性のようだ。

私がMさんのことを知る前にMさんは手術によって生死の淵から奇跡の
脱出をされたようだがその後も時々体調不良となり投稿のない日も
多くなった。
前述の心ない誹謗中傷や嫌がらせに加えてファンのコメン等に因る
心身の負担も多く、8月の下旬からコメント欄も一旦閉じ、続いていた
記事も6日以後しばらく途絶えていたので健康状態が心配だったが
13日に迫力ある記事の投稿があったので一安心・・・そして18日にも
投稿あり・・・。(日々解放に向かっていると信じたい)

Mさんの記事に巡り会った時には何度目かの危険の状態であったらしい。
不安や焦燥・・・
常に命の危険と闘いながら・・・精神的にも強いはずのMさんなら
きっと復活するだろう。

様子をうかがう術も無いが我々の心配や余計な気遣いが逆にMさんの
負担となってはいけないのでもどかしい気持ちではあるが私たちは
あのしっかりと分析された記事と得意な料理の記事に一日も早く再会
できることを願い、静かにエールを送ろう。

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母親にとっては娘の存在が一番ありがたいようだ。

2020-09-21 07:00:45 | 喜怒哀楽をポジティブに
私の息子の家族は我が家から歩いて5分ぐらいの距離に・・・娘も7、8分
位のところにおり、高齢の私たちとしては心強いと感じている。

特に妻には「腎臓」の病気に加えて数年前から「脊柱管狭窄症」による
様々な症状や痛み、しびれなどがあり、それをサポートするため・・・
ということで私が2018年の5月に仕事を辞めたのだが・・・・

私は主に病院への送迎や日々の買い物の手伝い(荷物係)の役目で
サポートしているが、娘はもっぱら精神的な(?)面でのサポート担当・・・

このコロナの感染問題が発生する前は息子夫婦が月に2~3回は
我が家へ飲みに来がてら私たちを気遣ってくれていたが、息子は
都内勤務、妻のソニアは近くのスーパーのパン屋さんでパートとして
働いているので万が一、年寄り夫婦に感染させるようなことがあっては
いけない・・・と最近は玄関先でマスク姿のまま、私たちの様子を
見る程度で家の中までは入ってこない。

娘も基本的には同じように玄関で少しだけ話して帰るのだが、最近は
仕事も減らし、フリーの時間を多くしているので趣味で作るクッキーや
チーズケーキなどを持って頻繁に訪ねてくれているのだ。

病気のこともそうだが年齢と共に急加速するように気も弱くなった
妻としては近くに娘がいて、こうしてしょっちゅう様子を見に
来てくれることが何よりも嬉しいのだという。
娘夫婦には子供がいないので娘も気軽に立ち寄れるようだ。

5km程先に済む妻の絵手紙仲間の一人である兼業農家のAさんも
常々自分のために同居している娘には心強く思うと共にとても
感謝していると言っている。
長野から彼女の大好きなものを送ってもらったので久しぶりに
顔をみたい・・・と2日前に電話したところ『畑にいるから・・・』という
ことだったので畑へ向かった。

長い付き合いでその娘さんは私にもよく話してくれる明るく快活な人で
普段は親子で冗談を言い合い、私も時々その仲間に入れてもらうのだが
その日のAさんはしんみりと少し涙ぐみながら私と妻に娘への感謝の
言葉をいくつも、何度も繰り返して言っていた。

やはり世の中のお母さんたちはいざとなると一番頼りになる夫が
側にいても普段の生活では娘が一番頼りになる最高の相談相手で
あるらしい。

息子の妻のソニアも外国人独特のきれいな顔に似合わず(?)
冗談好きで私たちをいつもおちょくったりしているが本当に優しく、
私たちを大切に思ってくれている。
外国人特有(?)のYes ,Noをはっきりと表すところや激しく感情を
表に出すことも少なくないがソニアも勿論私たちの大切な娘である。

世の中には母を・・或いは娘を早く亡くした家族もたくさんいると思う。
私の姉もその一人だがその人たちのことを思うと私たちはこの優しい
二人の娘に見守られて本当に幸せな日々を過ごしていることを喜び喜び
と感じ、この感謝の気持ちを今後も元気に過ごすことで表したい。



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数え切れない、忘れられないTさんとの思い出・・・その③

2020-09-20 09:02:17 | 喜怒哀楽をポジティブに
ここ2、3日は涼しく感じる日が続いていたが、今朝マンションの
エントランスのポストへ新聞を取りに行くとき、通路を渡る風が
冷たく感じ、いよいよ秋が深まるのだなあ・・・と言う実感・・・・
今日はリハビリも、妻千恵子選手の病院行きもないので朝ご飯も
テレビを見ながらゆっくりと済ませ今、パソコンに向かった。

さて、昨日に続くその③の前に・・・
私の最初の就職先(株)Mは私の入社3年後には東証2部に、
5年後には東証1部へと上場し、その後も勢いを増し、我々従業員に
とって給与や福利厚生面でも充分満足し得る会社で時代背景もあったと
思うが20代後半には男性社員の多く(ほとんど)が家を建てることが
できるという恵まれた状況だった。

そんな恵まれた環境の下で各社員が力を養い、それぞれが仕事にも
自信を持ち、どんどん進化するシステムや体制の中で私も在籍年数と
共に少しずつ責任ある立場にあったが勤続20年を間近に控えたころ
ある種の悩みが少しずつ私の頭に蓄積していった。

その頃、私とは違う業界へ進んだ弟も私とは全く別の悩みを持っており、
弟から『兄貴と俺が一緒になれば必ずや成功する筈・・・』
『小さくともやりがいのある仕事をしよう』と持ちかけられ、私の心も
起業へ大きく動き、二人を中心に小さな会社を作り大波の中へ
小さなボートを漕ぎだしたのである。

余談の余談で二人の悩みなどはどうでもいいのだが・・・・
簡単に表すと私は会社の強烈な締め付けとも思える管理体制と
部下や後輩たちへの自分なりの接し方に大きな相違を感じ、
上層部に逆らうと私へではなく、下位の人たちに報復手段的な対応が
されることに大きな疑問を持っていた。
多くの成長企業にも数多く見られた現在のパワハラ的なものとも
言えるかもしれない。

私は会社組織には不適格かもしれないが最近流行りの言葉で言うと
一切『忖度』はせず会社の原動力だと思っている第一線の人たちの
ことを優先するという立場をとり、職場のムード、コミュニケーションを
第一とし、仕事内容や結果においても上層部には文句を言わせない
よう努めていた。

一方、弟は大学卒業後、営業の世界に入り、2度3度と転職を
重ねたが、それは自分が常にトップセールスになることによって古い
体質の会社を変えていこうという意識、意欲を持ってのこと。
ところが、転職先すべての会社で営業成績、成果のトップになっても
目指す改善や改革が叶わず、加えて報酬も自分の成績に見合うものでは
ない・・という不満を持っていたのだ。

そして私はある支店への異動をきっかけに自分の気持ちが
退職→起業へと向かっていることを強く感じた。

さていよいよその③へ・・・・・
そして無二の親友Tさんにもそのことを打ち明けるとTさんからは
『おまえがそう思うのならそれが正しいと自分を信じてそうすればいい・・・誰よりもおまえのことを知っている俺は賛成だ・・・』という力強い
後押しともとれる答えをもらっていよいよ決断へ・・・。

異動先の支店長との出会いは2度目でその支店長は以前から私の
仕事ぶりや言動を認めてくれていたので少し後ろめたいような
心苦しさはあったが1年後退職を決意し、支店長に申し出た。

支店長の言葉には激しく叱責したり説教がましいものはなく、理由を
根ほり葉ほり聞くわけでもなく、強く引き留めたりすることもなく
私の意を汲むように頷き、少し厳しい表情だったが笑って握手してくれた。

そしてただ一言、『家族に対する責任感を強く持つように・・・』という
アドバイスに加え、これから立ち向かうであろう数えきれないほどの
「苦難」「困難」に立ち向かうための決意を促すということだったのか
再び厳しい表情で私にとっては思いもよらぬ言葉を・・・
それは・・・『これからの人生は口髭を蓄えて挑戦しなさい・・・』という
言葉を付け加えて私を見つめていた。

髭の意味は・・・?
そのころ髭を生やしているのは特殊な職業や人物であり、一般社会人
にはほとんど見受けられず現在のようにファッション感覚で髭を蓄えて
いる人も少なかったし、ましてやこれからの人生の面接。面談、商談や
面接などには不適格と思われていたので私はその支店長の言葉に
『えっ?』と思った。
(この意味は誰にも言わぬと自分自身心に決めて現在も封印中)

更に『私との約束を完全に果たすまではどんなことがあっても髭を
剃ることまかりならぬ』・・・と。

その後、度々この髭が原因で、面接、面談、転職、商談などが
成立しないケースが多すぎるくらいあったが、あの時すぐに
理解できなかった支店長の言葉の『髭』の深い意味を探りながら
『不成立の原因は髭だけではない・・・自分が至らないからだ』と自覚し、
めげることなくその先を目指し、むしろ励みとして挑戦意欲を
燃やしてきたと自負している。

その支店長が亡くなってからもう10数年も経っている。
子供たちも成長、そしてそれぞれが社会人となったこともあり、
支店長との詳細な約束はほぼ達成しているが約束の内容は未だに
家族にも語らず、今後も公表するつもりはない・・・一生封印するつもりだ。

何かの拍子に私の髭やこの約束のことが話題になると次のようなことを
言う人も少なくない。
『約束を守り、達成してきたのならば既になくなった人との約束よりも
現実重視でその約束はもうそろそろ反故にしてというか終わりにしても
いいんじゃないのか?・・・』と。
勿論、仲良しグループの『爺さんカルテット』の4人もそうだが・・・

しかし私はそのたった一つの約束があったからこそ今、自分や家族が
裕福じゃなくとも普通に暮らしていられるのだと思うとあの支店長の
言葉を思い起こし、今後も生きる糧として日々感謝と共に、命果てるまで
守り続けていかずにはいられないのだ。

それにも増して私を決断させてくれたTさんには感謝し続けてきた。
このシリーズ②の記事内のとおり、私の脱サラ後間もなく、将来を
嘱望されていた彼も安定企業の管理職をあっさりと捨て、小さな会社を
作ったが判断力、実力に加え、社交面でも優れた才能を持っていた彼の
仕事は順調に推移していった。

いずれは父の仕事を継ごうと考えていた彼の息子「龍一郎」は
建築士の資格を取り、側面から補佐しようと他の会社で経験を
積み重ねていたが小さくとも充実した仕事を・・・と考えていた
親子の夢が叶う前に彼は逝ってしまったのだ。

こうしてこの世に二人とない大切な知己を僅か42年間で失ったが
125歳まで生きる私は残された47年間も四季折々、ことあるごとに
彼を思い出し懐かしむ日々が続くことは間違いない。

そして私は決して言わない・・・
『Tさん、もう少し待っててください、私もやがてそちらへ行きますから』
などとは・・・・。





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数えきれない、忘れられないTさんとの思い出・・・その②(九州旅行記)

2020-09-19 13:09:02 | 喜怒哀楽をポジティブに
昨日の続き・・・
人事異動で同じ支店の同じ部署に配属されたTさんと私は
最初から馬が合い、親しくなるにつれ、お互いの家族(妻)の
ことを語り合ったことがきっかけでTさんと私の妻の思わぬ過去の
壮絶なバトル(?)の話から私たちはお互いに更に強い絆の友人
同士だと思うようになり、飲むときはお互いの家で・・・ということに
なった。

その頃、私たちが勤めていた会社は数年前に一部上場企業となり
給料をはじめ、いろんな面でも優良企業と言われ、社員の多くは
25~30歳ぐらいで家を持つような風土が広まり、彼(Tさん)も私も
朝霞市、志木市でそれぞれ家を建てたので経済的なことも考え、
飲むのはお互いの家で・・・というのが始まりだったのだ。

お互いが強く結びつくきっかけはいくつもあったが一番大きかったのは
二人とも歴史小説がこの上なく好きで、特に司馬遼太郎の作品を好んで読み、飲みながら感想を言い合う・・・ということだったと思う。
こうして休日はあっという間に一日が終わってしまうような日々だった。

そうして1969年、我が家に初めての子供が生まれるという時にTさんは
『男の子だったら俺に名前をつけさせてくれ・・・すでに決めているから』と
半ば強引に言い、何のためらいもなく承諾する私を見て嬉しそうに
笑ったのは51年も前のことだったのか・・・・。

その名前が『将太郎』・・・
彼は私同様、右翼でも何でもないが純粋に「日本」や「日本人」
「日本の歴史・風土・風習」などには特に思い入れが強く、日本人の
心という意識を大切に思い、昔から男の子に多い「太郎」という名に
歴史を動かした人物から「将」を・・・という彼の強い思いが
込められた『将太郎』となったのである。
因みに私の息子と1歳違いの彼の息子の名前は『龍一郎』・・・
この「龍」にも彼(Tさん)の強い思いや願いが込められているのだ。

その後、人事異動で支店や部署が変わっても私たちの交流は変わること
なく続き、家族ぐるみの交流はますます深まっていった。

私たちが勤務する会社には夏と冬に社員全員が交代で連続10日間の
特別休暇を取得・・・という制度があり、この休暇を取るのは真夏や
真冬に限らず、個々に月日をずらして取ることも認められていたので、
ある年の冬休みを3月にTさんの同期生5人と一緒に取る計画を立て、
西日本から九州への気ままな旅をすることにしてTさんの車と私の車で
行くことにしていたが、直前にTさんグループ二人の都合が悪くなり、
最終的にはTさんの車で、4人で行くことになった。

その頃の東名高速道路は全線開通してまだ日が浅かったと思うが
4人を乗せた「三代目コロナ」は東名高速を快適に走行・・・
そして名神へ・・・ドライバーは運転が好きなTさんと私が交代で
一路有馬温泉へ・・・

海水よりも塩分濃度が高いと言われる赤茶色の温泉は4人とも初めてだったのでお互いに『おまえが先に入って見ろ・・・』などとふざけあったことも今となっては懐かしく思い出の一つ。
この赤茶色の不気味(?)な温泉も慣れてしまうとなかなか楽しいもので当日も、一泊した翌朝もはしゃぎながら入ったことも思い出す。

続いて旅はTさんと私が一番行きたかった姫路城(白鷺城)へ・・・
少しでも多くのものを見たいと先へ急ぎたくて躓きそうになるくらい
二人は興奮していた。
姫路城の狭間(さま)の形とその数に驚き、私たちは文字どおり時の
経つのを忘れて城内を歩き回った。

後ろ髪を引かれる思いで予定通り九州へ向かうことに・・・
(その頃はまだ私の髪もふさふさだった=蛇足の最たるものだが)
さて、陸路で九州に入るよりフェリーが良いという話からフェリーで
大分へ・・・
別府で2泊だったかな・・・いろんな温泉に入り、鉄輪温泉と書いて
かんなわと呼ぶことなども初めて知った。
別府での思い出は何と言っても『地獄めぐり』・・・・
何故か「血の池地獄」が一番印象深かった。

それから熊本へ移動・・・
水前寺公園の芝は緑ではなかったと記憶しているのだがその広さと
池の水の様子はよく覚えている。
熊本ではTさんと私は念願の熊本城を見ることができ、二人とも異常に
興奮・・・他の二人は私たちの見学が終わるまで城外で別行動・・・

そして熊本で驚いた(?)ことがもう一つ・・・
『晩白柚』なる柑橘類を初めて見て、更にその爽やかな香りと味に
こんな果物があるのか・・・・と。
宿泊した旅館でも4人は特別注文で小さい子供のように夢中で
ほおばり続けたのである。
4人みんながお土産に・・・と思ったのだが旅はまだ先へ続くので帰りに
もう一度八代へ寄ろう・・・と次の目的地宮崎へ向かった・・・
二日がかりで宮崎の「海岸」「島」「浜」「浦」などと呼ばれるところを
廻り、4人で日本の素晴らしさを再発見したような気分になったことや
青島では鬼の洗濯岩と言われる場所に立ち、着替えた半袖のシャツから
入る風の心地よさに四人は思わず感嘆(嘆く方ではなく感心、感動)の声・・・。

そして最終目的地の鹿児島へ・・・・。
鹿児島では指宿の砂風呂で4人それぞれの反応の違いがはっきりと
表れ、3月とはいえ、私はまだそれほど暖かさを感じない状態での
砂蒸しは適度な圧迫感とじんわりとくる砂の暖かさに満足したが
汗かきの二人はすぐに「降参」の表情・・・もう一人は砂の重さに
苦しいなどと5分も持たずギブアップ。
そんな中、暑さにも熱さにも強い私は温度も砂の重みもぴったりと
合い、一人悦に入る・・・という状態で3人から奇人扱いされた。

鹿児島を出発後はあの宝物のようなお土産(晩白柚)を買うために
予定(?)通り再び熊本へ・・・
晩白柚は鹿児島でもたくさん見かけたが四人とも熊本の印象が
強かったので迷うことなく八代へ・・・。

トランクいっぱいに積み込む予定の「晩白柚」を少しも傷つけず、しかも
1個でも多く積むには・・・ということでそういうことが得意な私の出番と
なり首尾良く4人も晩白柚も無事に埼玉へ帰ったのだ。

その後私は上福岡市(現在はふじみ野市)へ、Tさんは狭山市へ
引っ越したがその後もさらに交流は続き、私が20年勤務後に脱サラし、弟と一緒に起業・・・私よりもはるかに昇進した彼もまもなく起業・・・と
またお互い同じように違う世界へ・・・
私はいろんな条件が重なり閉業してまたサラリーマンの世界に転職したが
彼は順調に推移・・・以後もお互いの良き関係の交流が続いたのだ。

本日も例によって長文となってしまったのでこの続きはまた明日に・・・

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数え切れない、忘れられないTさんとの思い出・・・その①

2020-09-18 10:46:18 | 喜怒哀楽をポジティブに
私の無二の親友とも言うべきTさんが亡くなってから11年になる。
夜中に突如倒れ、入院して僅か4日後・・・68歳という若さだった。

葬儀は飯能市の斎場・・・雨の降る蒸し暑い中、私は家族と共に
棺に納められた無言の彼と対面した。

あの豪快無比だった彼が何故こんなにも早く・・・と思うと悲しさで
いたたまれなくなり、私の右手は彼の顔に・・・
彼の青白くなった頬に触れるとそれは氷よりも冷たく感じた。
今もはっきりと覚えている。

彼と私が初めて会ったのは53年前の1967年(昭和42年)、12月の
人事異動時に同じ支店の同じ部署に配属された時だった。

私は1960年入社、彼は1962年入社で2年早く入社した私のほうが
当然彼よりも仕事には熟知していたが、彼は大学卒、私は高校卒で
年齢は彼が1歳上(3月の早生まれなので学年では2年先輩)・・・

その頃は大卒であっても実務ではやはり2年間の差は大きく、一般的に
彼らは私たち高卒には「一日の長」のようなものがあることを認め、
お互いに意識してはいたが彼も既に入社して5年・・・他の大卒組とは
違い、私たちに遠慮したり気遣ったりするということは全くなく、
私たちが年下であることから仕事中も「呼び捨て」であった。
後にわかることだが彼が大学の応援団で活躍していたこともあり、
豪放磊落な性格を考えると『むべなるかな・・・』との思いでごく
自然に受け入れていた。

私は入社時から上司には勿論、年下であっても必ず「〇〇さん」と、
さん付けで呼んでいたので彼に対しても当然Tさんだった。

初対面からなんとなく気が合い、野球好きの私と6大学で応援団として
活動していたTさんとは瞬く間に仲良くなり、お互いに社内結婚
だとわかると彼は私の妻の旧姓を訊ねてきた。

そして・・・
私が本社〇〇部△△課のA.Cだと答えると彼はこの上なく驚いた表情で
『何ぃ~、A.Cだとぉ~?・・・』と仰天・・・
聞けば彼(Tさん)と妻とは不思議なことに「犬猿の仲」だったのである。
その頃の連絡は電話と書面が主だったのでお互いに相手の顔が
見えない分、余計に過激な応酬をし合っていたようだった。

彼も私も仕事では異動前から既に中堅クラスとして職場では2番手、
3番手の位置だったので彼が異動前の職場で本社とのやりとりの中、
豪腕、辣腕ぶりを発揮しようとしても本社側もそう簡単にはいかぬぞよ・・・
と抵抗、かつ本社の立場を強調・・・その頃から今も変わらぬ妻の
特徴である『鼻っ柱や気は多少強いが心は弱い・・・』という
多少強い(?)性格の部分が応援団を束ねてきた彼と仕事には自信を
持つ妻との舌戦による『壮絶バトル』となっていたようだ。

私と知り合う前の妻に対し『にっくきA.Cめっ!』と思っていた彼は
私と出会ったことで何か吹っ切れた様子で例の豪快な笑いで、
近いうちにshimaんちへ遊びに行くから・・・と何故か嬉しそうだった。

知り合ってすぐにお互いに酒類も好きだということがわかっていたが
私たちは二人とも車での通勤だったので仕事の帰りに飲むことは
なかった。

その後すぐに彼が我が家に遊びに(飲みに)来たときには彼も妻も
過去の笑い話として彼は『字はきれいだが気の強い女・・・』だったと
評価・・・
一方妻は『汚くて読めない文字に苛立った・・・』などと笑いの応酬・・・・

こうして両家の中は彼の奥さん(やはり社内結婚)も含め、唯一無二の
信頼関係ができたのである。

そして私の長男が生まれた時に彼が『将太郎』という名前を
つけてくれたがこの名前の由来も含め、まだまだたくさんある
エピソードは次回にしよう。(いつものようにすでに長くなったので・・)


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今日も音楽のことを考えながら・・・ 

2020-09-17 09:03:07 | 喜怒哀楽をポジティブに
私の15日の記事に端を発し、博学多才で音楽にも造詣の深いブログ友
highdyさんの昨日の記事に触発され、音楽好きの私は調子に乗って
自分の好きなジャンルの音楽や作曲家、演奏者、曲名などを思い出しながら
羅列してみたいと思った。(書き留めながら・・・)

音楽はどのジャンルも好きだが特に好きなものは映画音楽(サントラ)、
イージーリスニング、ポピュラー音楽、と言われるものなどで
苦手(?)は演歌だろうか。

日本の歌も歌謡曲も好きだが演歌は2018年から日本でも取り入れられた
申告敬遠(野球のルール)を使いたいというところ。
聴いてみると勿論心に響く心良い曲はたくさんあると思うのだが、
私の中では「日本の歌」や「歌謡曲」とは少し違った分野ではないかと
思うからかもしれない。

好きではない理由として・・・すべてではないが演歌からはあまり
明るさや現状を乗り越え前に向かって進もう・・・というような
ポジティブな姿があまり感じられず、悲嘆に暮れる・・酒で心を紛らす・・
挫折感・・などを強く感じてしまうような気がするからなのかも知れない。

これはあくまでも私個人の見解で、当然のことながら演歌を否定
するものではなく、勿論演歌の良さも充分承知の上の話・・・
私の友人、知人にも演歌ファンは多く、亡くなった私の弟も大の
演歌ファンであった。
繰り返すがただ、私が好きではないというだけのこと・・・
演歌ファンの方々、どうぞお気を悪くなさらないように・・・

さあ、話をもどして・・・
毎日の生活の中で起きる「喜怒哀楽」の瞬間、瞬間で僅か数秒でも
時間をおけば誰でも少し気持ちも落ち着くことと思う。

そんな時こそ感情を表すにも押さえるにも「音楽」は言葉では言い
尽くせない不思議とも言える力というか効果があるのではないだろうか。
怒りや焦燥をコントロールするような力も・・・・

老若男女、誰にとっても今や日常、形は違ってもどこにでも音楽はあり、
無意識のうちにも音楽とは切り離せない生活となっているような気がする。

クラシックもジャズもタンゴもポップも民族音楽も・・・童謡も、
CMソングもアニメソングも・・・と数え切れないほどあるジャンルの
中から誰もが楽しもうと思えば何かを見つけられると思う。

私は自分の部屋でもパソコンでも、車の中でも常に何かの音楽を
聴くことにしている。
妻は自分で何かをする(している)時はそのことに集中し、テレビや
ラジオ、音楽を聞きながら・・というのを嫌うが私は特別の場合を除き、
「ながら〇〇・・」は決して苦手ではないし、むしろそれが自分の
気持ちを落ち着かせ、円滑に事を運ぶ役目ともなっているような気がする。

さて、私の好きなジャンルのイージーリスニングや映画のサウンドトラック
などだがよく聴くのは「パーシー・フェイス」「ヘンリー・マンシーニ」
「カラベリ」「リチャード・クレイダーマン」「マントヴァーニー」
「レイモン・ルフェーヴル」「ビリー・ヴォーン」「アッカー・ビルク」
「ポール・モーリア」「ニニ・ロッソ」など。
これらを懐かしく「同感」だと思ってくださる方々がいらっしゃると思う。

日本の曲では昔懐かしい「フォークソング」「さだまさし」や「小椋佳」
「南こうせつ」「ビリーバンバン」などの静かな曲・・・親しみやすい
女性歌手の曲としては「竹内まりや」「高橋真梨子」「ZARD」「杏里」
「五輪真弓」「岡本真夜」「中島みゆき」「キロロ」「トワ・エ・モア」
「夏川りみ」などの曲。

新型コロナが発生し広がり始めた以後は行っていないがそれまでは
『爺さんカルテット』の4人でカラオケへもよく行き、みんなそれぞれ
好きな歌を歌っていたが上記歌手の歌を歌う私に仲間はこんなことを言った。
『最も演歌らしい雰囲気のshimaさんが演歌嫌いとは・・』と・・・
冗談交じりではあるが異端児の扱いでまさに四面楚歌(?)・・・
勿論、大の仲良しグループなので全く問題なし・・・。

そして調子に乗る私が「あいみょん」のマリーゴールドやハルノヒなど、
そして時にはAKB48の「恋するフォーチューンクッキー」や荻野目洋子の
「ダンシングヒーロー」などを歌おうものなら・・・それはそれは・・・
後はご想像にお任せ・・・。


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一念発起(?)で有酸素運動を・・・

2020-09-16 09:20:48 | 喜怒哀楽をポジティブに
以前はすぐ近くでも車で出かけたが今年7月の「市の健康診断」時に
血圧がやや高いという結果により医師から夕食後にマイルドな降圧剤の
服用と有酸素運動を勧められ、最近は自転車に乗ることが多くなった。

私は以前からハードな筋力トレーニンングが好きで、2018年の5月に
仕事を辞めてからはジムでウェートトレーニングを続けていたが、
今年、急に拡大した新型コロナの影響でジムが一時休館となった時
以来、その後再開されてからもジムへは行かず、自宅で筋力トレーニングを
続けていたが、7月の下旬に昨年の同じ時期に発症した右肩の
「鍵盤断裂」に次いで今年は左肩の『肩関節唇損傷』という更に深刻な
痛みを伴う間接周辺の筋肉を覆う組織を痛めてしまった。(以前に投稿)

その影響で今は薬の服用とリハビリを続けているのだが、痛みが軽減
してきた現在、トレーニングの再開を目論んでいる。
ただ無謀なことを続けると更に悪化する恐れがあるので医師や
理学療法士と相談しながら・・・ということが必要なのだが・・・

そこでしばらくは今までのような重量(70~80kg)を扱うような
激しい無酸素運動のトレーニングよりも血圧降下にも効果のある
有酸素運動をするために自転車を利用・・・ということになったのだ。

妻は家の中でエアロバイクを漕いでいるが、私はたまに使うだけで
家の中での自転車漕ぎは1週間に1~2度程度なのだ。

今朝はやや冷たい空気の中、まだ人の行き来が少ない時間帯に
自転車に乗り、3km程の短い距離だが車の少ない住宅街を抜け、
気持ちよくペダルを漕いできた。

舗装道路の細かい凹凸による振動とその音が全身に心地よく伝わり
静かな朝ならでは・・・のちょっとした爽快感を味わうことができた。

いつもはリハビリの順番の札を取るため整形外科の扉が開く7時半頃に
自転車で向かうのだがこの距離は往復でも1km位なので有酸素運動とは
言えないかも知れない・・・
明日からは少し気合いを入れて、今朝のように少し早い時間に家を出て
しばらく走った後、整形外科へ向かうことにしよう。

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