ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

久し振りの帰省へ

2014年12月08日 | 日記
 明日から11日まで帰省する。
 兄弟達に年末の挨拶と墓参の為である。
 明日は早朝に家を出て、午前中に到着したいと思っている。
 片道、約8時間を要していた行程も、3時間程で帰省を果たせる様になった。
 ただ、走るだけの有料(高速)道路ではあるが、便利にはなったものである。
 4~5時間の時間短縮は大きい・・・!
 久し振りの墓参と、兄貴夫婦達との語らいを楽しんできたいと思っている。

原を”ばる”と称すること  (追記を加筆)

2014年12月07日 | 日記
  
 友人からお呼びがかかった。
 寒くて、じっと閉じ篭っていたことから”渡りに船”であった。
 暖房の効いた暖かい部屋で、お酒のもてなしを受けた。
 TVの「軍師 官兵衛」を視聴しているとのことで、TVを観ながら他愛も無い話に興じた。
 この中(TV放送)で、戦国時代・九州最後の決戦地(黒田対大友)で「石垣原」という地名が出てきた。
 「いしがきばる」と読むらしい。
 2006年・平成18年”バイクで全国周遊”の名のもと、沖縄に行った。
 その時、宮崎県の「西都原」という処に立ち寄った。
 古墳が点在する処であった。
 そして、その地名は「さいとばる」と云うことであった。
 普段、私は「原」は「はら」もしく「げん」と発音している。
 今日、友人宅で観たTV番組で「ばる」なる言葉に、又しても遭遇した。
 気になったので、帰宅して(NETで)調べた。
 詳しく、調査した人が居て、理解&納得することが出来た。
 全国に、約100ヶ所”ばる”と称する地名が存在する様である。
 しかし、その殆ど(約98%)が九州に分布しているとのことであった。
 調査した著作者が言うには、九州は大陸に近く、古くから交流があった。
 そして、朝鮮半島には”ばる”と極似した発音をする地名があるらしい事が分った。
 尚”ばる”は、支配者がその地域を支配する”行政区域”では無かったか?と云うものであった。
 現状、私の認識(得る知識)としては充分なものであった。
 気掛かりであったことが消化できた思いがして、わだかまっていたものが取り除かれた気分である。
 今日の絵日記の絵(写真)は、過去(2006年)に訪れ「ばる」と言う呼称に、最初に出遭った「宮崎県・西都原古墳群」での思い出の写真とします。
     ・
 追記
 ”原”を”ばる”と称する人名があるは了知していた。
 広辞苑で「原」を検索すると「ゲン・はら・もと・たずねる」とある。
 「原」を「ばる」との読み方をする手掛かりは無かった。 
 人名は、過去からの称号であり「原」を「ばる」と名乗ったと、私は理解していた。
 しかし、地名には”命名のいわれ”があると思いながらも「さいとばる」は、異国情緒溢れる”名(地名)”としか、考えなかった。
 そして「ばる」は大和言葉か?と言う程度の疑問であった。
 尋ね求める”伝手”が見出せなかったのである。
 だが、今回の、TV番組中での「石垣原」と言う地名が出た時、過去に”モヤモヤ感”があったことを思い出され、再挑戦することで、NETでの情報を得る事が出来たのである。

神戸ルミナリエで思ったこと

2014年12月06日 | 日記
 今年も「神戸ルミナリエ」は開催されている様である。
 私は、2006年・平成18年12月の「神戸ルミナリエ」を観に行った。
 その前年(2005年)にも、観に行ったことから、想いでの日記としたい。
 先ず、宿泊場所を探すことからはじめたが、神戸市内の手頃な価格のホテルは満室であった。
 土地勘もあったことから周辺に拡大して探した。
 三木市にあった。
 そして、自宅をバイクで出発。
 三木市に近づくにつれ、怪しい天候となってきた。
 雪である。
 高速を降りて一般道に入ったが、積雪で転倒してしまった。
 それから、ホテルまでが地獄の”歩み”となった。
 両足を補助車にして、慎重に進んだが、何度か転倒しそうになった。
 特に交差点で、先行する車両が急停車するものなら大変であった。
 フット(後輪)ブレーキは操作出来ない。
 前ブレーキを急な操作をすると、前輪がロックし転倒する。
 小刻みな操作が要求された。
 やっとの思いでホテルに到着した。
 チェックインを済ませ、電車で三宮駅と向った。
 そして、目的のルミナリエの会場を聞いた。
 その人は「えぇ!」と驚いた様に「昨日で終わったよ!」との返事が帰ってきたのである。
 2006年はリベンジであった。
 
 2006年は、早めにホテルを予約し、準備を整えていた。
 ホテルの人に道順を聞いて、徒歩で向った。
 誘導員の指示に従って、入場?を待った。
 大勢の人の流れるままに、電飾の美しさを楽しんだ。
 逆進するなど出来ない、一方通行であった
 やがて、人の流れに従って、ルミナリエの会場から離脱していた。
 お腹も空いてきたことから、居酒屋を見付けて入店、楽しみの、お酒を少し頂いて、一時間程で退出した。
 ホテルへの帰路、ルミナリエの会場を観ると、人もまばらな状態であった。
 今度は、ゆっくりと往復の道程で楽しむ事が出来た。
 点灯から、一時間後頃から観に行くことが最良と学習した。
 しかし、このテクニックは今もって、活用出来ていないのである。
 翌日は、久し振りとなる、六甲山を周遊して帰宅した。
 前年の前哨戦から、二年がかりの挑戦で完結できた。
 
 
 

ねぇねぇ!聞いて (追記を加筆 12/7)

2014年12月05日 | 日記
  
 以前にも、お見せした風景である。
 我家の窓から海を観たものである。
 絵(写真・左)の幼木が植えられている付近は、年輪を重ねた松の大木が”林”となっていた。
 所謂、砂防林であった。
 民間の施設が建設されるにあたって、伐採されてしまった。
 問題は、今日のような強風が吹く日である。
 海風が直接、我家を襲うのである。
 そして、細かな砂も飛来してくる。
 防波堤に打ち寄せる白波が、高く立上っているのが確認(写真:右)出来るのである。
 過去には、砂防林がカーテンとなっていた。
 立上がる白波を直接観る事も無く、不安感を抱くことは無かったのである。
 日本の典型的な風景である”白砂青松”が、開発の名のもとに、いとも簡単に伐採されてしまった。
 松林があることが気に入って、定住を決めた一つの要因であった。
 今はただ、海が観えるだけの風景になってしまった。
 穏やかな日は、良いとして、今日の様な、荒天時(写真:右)には”松林”のあった頃が懐かしく思えるのである。
 とは云え、津波時の避難場所として、一時的に受け入れてもらえる施設であり、複雑な気持ちである。
   

 追記
 ”命”を守る為に(松林の伐採は)諦めろ!と”松林”の存続を比較するなら、私は、松林の存続に軍配を挙げたい。
 避難することにより、生存の可能性はうまれる。
 日常的に、生活する風景であり、砂浜と青き松林のコントラストは癒されていた。
 何はともあれ、砂防林の歴史を守ることなく”何時かは枯れる”そして、津波対策で”盛土する”と言う理由で、失われていくことに、一抹の不安を抱くものである。
 確かに、害虫被害や樹勢の衰退等で縮小はしていた。
 しかし、二箇所となった松林を残そうと、中学生達が植林を行っている。
 気が遠くなる年月をかけて成長し、世代交代を繰り返し、砂防・防波の恩恵をもたらせるものであった。
 この様な想いも、人間の利便性を追及する”力”には、無力である。
 歴史としての”景観・風景”を残す工夫は、そして知恵は無かったのだろうか?
 見てのとおり、樹木が数本植樹されただけで、大半は無機質な更地である。
 浜辺への直接的なアクセスも、そして松林を通って海辺に至るという情緒は今はない。

想いは2020年12月

2014年12月03日 | 日記

 今日、友人宅で「はやぶさⅡ」に関するTV放送を観た。
 打上げの様子を観ていると、思わず涙が出てきた。
 何故だか分らないが、熱いものが込上げてきたのである。
 2020年12月に地球に戻ってきて、再度、果てし無い宇宙へ旅立たせるという、壮大な物語の始まりである。
 6年後のこの時期に、長旅の果てに地球に帰還し”お土産”を地球に置いて行くと云うのである。
 なんと健気な姿ではなかろうか?!
 今日は、スポーツジムに行く予定の日であるが辞めにした。
 ビールが出され、乾杯した。
 与えられたミッションをクリアして、帰還(サンプル・リターン)を願っての乾杯であった。
 先に日記にもしたが、2020年12月の次なる旅立ちを(私自身が元気で)見送ってやらなければと強く思った事であった。
 行ってらっしゃい! 良い旅であることを祈ります。
 

沈下橋の想い出

2014年12月03日 | 日記
 
 私が、生まれ育った”ふるさと”にも沈下橋はあった。
 その想い出の沈下橋も、時代を溯れば”木造”であった。
 私の生家から自転車で30分(子供の頃)程の処に「一級河川」があり、橋はあった。
 下流域での橋は、一般国道の橋梁以外は”沈下橋若しくは木造橋であった様に記憶している。
 台風や長雨で増水すると、木造の橋は流されていた。
 流されても、修復出来る様に主だった木材は、ワイヤーで結ばれていて、流失してしまうことは無かった。
 幼心にも、増水などで橋で無くなった状態を観て”大人の知恵に感心”していた。
 何時の頃かは分らないが、木造橋からコンクリート製の、所謂”沈下橋”となった。
 確かに、橋は増水によって、流失しなくなったが、ガレキや流木等で通行不可には成っていた。
 私の生まれ育った街には”本屋さん”が無かった。
 自転車で一時間程かけて通った。
 しかし、この橋が増水や流出すると、回復する(再構築若しくは増水が治まりガレキの撤去)まで、通行不可となり、国道の橋まで遠回りしなくてはならない。
 月刊誌の「少年の科学」や「模型と工作」の出刊日になると、居ても立っても居られなくなり、遠回りしてでも行きたかった。
 例え、立読みに終わっても行きたかったのである。 (少ない小遣いを使うのであるから、記事の内容によっては買わなかった)
 夏になると、プール等は無く、水泳のためによく行った。
 橋の高さ(水面からの)が手頃で、飛び込み台としての役目も果たしてもらった。
 水量が多く、水流の勢いも強いことから、ただ浮いて流れに任せる”泳ぎ”でしか出来なかった。
 今ではトラフ橋が架かり、増水しようが無関係な状態となっているし、夏になっても水泳する姿を見かけることはない。
 両親達が眠る墓の、目と鼻の先に、この三代の歴史(木造橋→沈下橋→トラフ橋)を語る橋があり、墓参のたびに、沈下橋のあった幼き頃を思い出すのである。
 そして、先日の29日、訪れた高知の沈下橋に立っても、幼き頃の想いを巡らせてもいた。
 

一気に真冬日

2014年12月02日 | 日記
 昨日から荒天となった。
 強風に加え、雨も強く降った。
 そして、今朝まで続いた。
 寒い!
 我家の冬の定番である”頭寒足熱”のスタイルでは寒さに耐え難いことから、止む無く”灯油”を買いに走った。
 暖冬との予報に反して、寒い一日となりそうである。
 やはり、師走か?!!

今年も、忘年会は高知で!

2014年12月01日 | 日記

 平成26年・2014年11月29日~30日 高知県土佐市にある「国民宿舎・土佐」において今年最後のツーリングと忘年会が催された。
 昨年は、高知市桂浜にある国民宿舎・桂浜荘であった。
 この近年、忘年会は高知県が多い様である。
 当初、忘年会の会場までの間を、周遊する計画であったが、確率の高い”降雨”との天気予報から直接、会場へのコース変更となった。
 11時、集合場所を出発。
 出発に先立ち、降雨を予想し、雨具を着用した。
 昼食となって、雨具の必要はないと判断し、雨具を脱いだ。
 高知といえば!と云う事で「沈下橋」二箇所を経由し、16時「国民宿舎・土佐」に到着した。
 宴会の開始・18時までの間、入浴するなど休息をとった。
 私は、太平洋が一望出来る”露天風呂”を楽しんだ。
 日帰り入浴も出来るようで、20分ほど自動車を利用して入浴しに来たという地元の人と一緒になった。
 「太平洋が一望出来るこの風景が好きでよく利用する」と話していた。
 夏になると夕日が観られるそうで、その風景も雄大であるとも話した。
 宴会の時間となったことから宴会場に集合した。
 夫婦や家族で参加した人達など、20人ほどでの宴会(忘年会)となった。
 出された料理は土佐名物”皿鉢料理”である。
 大皿で料理を提供する方法で、刺身・天麩羅・寿司・煮物焼き物など4皿×2組が提供された。
        
 見るからに豪華で、食べ応えあるボリュームでもあった。
 しかし、結果的には、その多くは食べ残してしまった。 もったいないことをした。
 翌朝は、スッキリと晴れ、気温も低くは感じられない恵まれた朝となった。
 今日は、足摺岬を周遊して帰宅する予定である。

 今年の忘年会への参加を記念して全員での記念写真である。
      
 足摺岬に到着した頃には、朝の天気も怪しくなってきた。
 そして、昼食にため立ち寄った土佐清水市では、大降りの雨となった。
 土佐清水市から宿毛市を経由し、愛媛・西予市に至り、津島から高速道を利用して帰宅した。
 28日のゴルフ反省会で、今回の忘年会ツーリングの実施に際して、HS氏等から”雨乞い祈念”を受けていた。
 シッカリとご期待にお応えした格好となったが、雨降りのバイクはリスクは高い。
 昼食後から帰宅まで、絶え間ない雨降りで、身体も冷え切った。
 無事に帰宅でき、今年の忘年会ツーリングも有意義に終了した。 無事な帰宅が最大のお土産であることに代わりない。