日常生活で、
これまでの人生で、
ありとあらゆる常識や慣習
当たり前と思ってきたこと
なんだか納得できないことや、
仕方ないと思ってきたこと、
そんなことを落ち着いて見てみる
世の中は理不尽で不公平で、弱肉強食。
今日、目にした記事で、経団連の会長が
消費税で少子化対策をすれば良いというのに対して、
世間では不満が噴き出した。年収1億以上の人に何がわかるのだと。
一度、庶民の給料で生活してみろと。
政府は育児給付や育児休暇ばかり取り上げるが、
子供を授からない夫婦や、
そもそも子供を産むことを選択しなかったり、
結婚しない選択をする人たちには、何もしない。
まるでそれがルールから外れたかのように扱う。
要するに、人生は不平等だし、不公平だし、
それすらも前提なのだと考えると、
自分がどう生きるかはなんとなく理解できてくるのではないか。
誰かに遠慮したり、巷のルールや慣習に従う必要があるだろうか。
生きたいように生きればいいし、
人生は生まれたときから、
ゴールは締め切りのわからない死でしかない。
生まれたら最後、全員死ぬのがゴールだ。
人間の最後の学びは、死をどう受け入れるかでしかない。
人生ルールなどはじめからないし、あるように見せられてきただけ。
あなたがしたいように生きればいい。
これまでの人生で、
ありとあらゆる常識や慣習
当たり前と思ってきたこと
なんだか納得できないことや、
仕方ないと思ってきたこと、
そんなことを落ち着いて見てみる
世の中は理不尽で不公平で、弱肉強食。
今日、目にした記事で、経団連の会長が
消費税で少子化対策をすれば良いというのに対して、
世間では不満が噴き出した。年収1億以上の人に何がわかるのだと。
一度、庶民の給料で生活してみろと。
政府は育児給付や育児休暇ばかり取り上げるが、
子供を授からない夫婦や、
そもそも子供を産むことを選択しなかったり、
結婚しない選択をする人たちには、何もしない。
まるでそれがルールから外れたかのように扱う。
要するに、人生は不平等だし、不公平だし、
それすらも前提なのだと考えると、
自分がどう生きるかはなんとなく理解できてくるのではないか。
誰かに遠慮したり、巷のルールや慣習に従う必要があるだろうか。
生きたいように生きればいいし、
人生は生まれたときから、
ゴールは締め切りのわからない死でしかない。
生まれたら最後、全員死ぬのがゴールだ。
人間の最後の学びは、死をどう受け入れるかでしかない。
人生ルールなどはじめからないし、あるように見せられてきただけ。
あなたがしたいように生きればいい。
このコメントは、今回の記事内容を読んで書こうと思ったものではないのですが、やっぱり関係はしてきます。
生きることには様々な苦悩がつきまといますが、その人の人生に悪影響を及ぼすほどの苦悩にしてしまうかどうかは、その苦悩にどれぐらい「自分」が入っているかだと最近思います。
他の役に立つことをしようと生きる人には、どんな苦悩があるでしょうか。
自分のわがままは成り立たないと知って、自分が生きていられるのはまわりの世の中のおかげであると知って生きるなら、どんな苦悩は生じ得るでしょうか。
こんな世の中はひどい、と思うのは自分の思い通りにならないからなのではないかと最近思うのですね。でも、自分の思い通りになるわけないではないでしょうか。自分の思い通りにしようとすることは、他の役には立たないことになってしまいます。他の役に立つように、私はこうしたいのだ、という、結局は自分のわがままに収束されます。
わがままは成り立たないと知って、周囲の役に立つことをしよう、人の役に立って生きようとするなら、悩みも苦しみも成り立つものでしょうか??
離婚の苦しみに囚われるのも、やっぱり「自分」に囚われるからじゃないかなあ、と思います。自分はこうしたかった、自分の思い描く家族はこうだああだ、と。その思い通りになっていないと自殺を考えるほど苦悩する。
自分との相対としてあらわれる「相手」にも囚われると、やっぱり苦悩せざるを得ません。相手は異常だ、理解できない相手だ、相手はこうすべきだ、こうして欲しかった、などなど、結局は自分のわがままで作り上げたこと通りじゃないことに思い煩うのではないかなあ、と思います。
結婚する姿勢が間違ってたなあ、と最近思います。それはイコール、生きる姿勢が間違っていたと気付いたと思っております。もうわがままを通そうと生きるのは辞めます、というのが結婚で、相手のために生きます、と、これはお互いがそうであれば理想なのですが、ある程度で相手がわがままであっても、別に自分が殺されるわけじゃないのですね。残念ながら自分の時間は一切なくなるかもしれないし、趣味も好きなこともできなくなるかもしれませんし、思ってたのと違って理想と全然かけ離れた結婚相手との生活は面白くないかもしれませんが、この世の中を生きるというのは全般そんなもんだと思います。その事実を認めないでわがままを通そうと生きると、離婚だけじゃなくてこの先も色々と、経験しなくてもいいような苦悩を誘い込むことになるのではないかと思えます。
理不尽、不条理というのはわがままの産物ではあると思います。それらはただの現実や事実、出来事に過ぎないものだと思います。
自分、自分、ということではなくて、まわりのために、それは別に人間でなくて、自分以外の生命、植物でも花でも虫でも、それらが幸福であるようにと行動する。
自分以外のために行動すると、途端にすごく明るい気持ちになりませんでしょうか。自分以外のために行動しようとすると、ちからが湧いてくる。fujyouri様が離婚に苦しむ誰かのためにブログを書くのだって、そういうことではないのかなあ、と思います。
まさに離婚の出来事のショックでどん底にいるときには、それも難しいかもしれません。私が超どん底の底にいたときに、誰か他のためのボランティア活動とかに参加したら元気が出たかなあ…と考えると、ちょっと自信はありません。でも、何日も泊まりがけでそういうことをして、やってあげた相手に感謝されて、一緒に活動する人、やってあげる相手と、何日も一緒に過ごしたら、少しずつ元気も出るんではないかなあ、とも思えます。
そんなことは現実的にはなかなか実現できませんが、少なくとも「自分」に閉じこもってしまうよりは良いのではないかと思います。自分の苦悩!となってしまうと苦しいのではないかと。