143:札幌へ
瀬口恭二は失ったものの大きさに、茫然自失している。藤野詩織が吐き出した「結婚するかも」という一言が、微熱のように体内に居座り続けている。微熱は体中にみなぎっていた力を抜き取り、何かをしょうという気力をも奪ってしまった。
札幌の予備校へ行くために、明日標茶(しべちゃ)町を離れなければならない。詩織はそんなおれの背中を、残酷な刀で切りつけたのだ。
札幌予備学院から紹介してもらったアパートには、机や椅子やベッドは備えつけられているとの連絡があった。標茶から送ったのは、布団と衣類と簡単な調理器具と電気ストーブだけだった。
恭二は机のなかの、整理をはじめた。詩織の写真は全部破り捨て、本の紹介をつづった詩織ノートも引き裂いた。何一つ痕跡は、残したくなかった。壁に貼ってある、中学時代の野球の賞状も破いた。書棚の本は、そのままにしておくことにした。
ふと見ると書棚に、一冊のノートがはさまっていた。標高新聞部へ入部したときに、何でもいいから自主研究をしなさいといわれて、思いつくまま書き留めていたノートだった。表紙には「笑話の時代」とあり、「笑話」には、「しょうわ」とルビが振ってあった。めくってみた。十枚ほど使用されていたが、あとは空白だった。
記憶が戻った。詩織と笑い話を集めようという話になって、思いつくまま書き連ねたものだ。笑い話の収集作業は、とっくに止めていた。自ら創作する習慣も、なくなっていた。ノートの存在すら、忘れていたほどである。
ノートに書いた笑話を、通学路で詩織に披露していた。受けたものもあった。しかしほとんどは不発に終わった、小さな物語ばかりだった。
◎怖い夢
――笑話(しょうわ)の時代
精神科での医師と患者のやりとり。
患者「毎日変な夢ばかりみます。最初の日は十五階から落ちて、次の日は十四階から落ちて……」
医師「それで相談とは?」
患者「私怖いんです。明日は二階から落ちる日なんです」
医師「今まで相談にこなかったのに、なぜ二階の日は怖いんだい?」
患者「今までは落ちる途中で目が覚めたんですけど、二階からだと目が覚める暇がないんです。先生、怖い!」
(これは誰かに、教えてもらったものです。誰かは覚えていません)
◎おもしろさの点数
――笑話(しょうわ)の時代
A「おもしろさの度合いを示す、十段階を考えた博士がいる」
B「それはユニークな発想だな。それならどのくらいおもしろいかが、相手に理解される」
A「ちょっぴり、おもしろいのは一点として、こんな具合だ。くすっと笑う。にやっと笑う。大口をあけて笑う。体をくねらせて笑う。げらげら笑う。肩を揺すって笑う。腹を抱えて笑う。笑い転げる。涙を流して笑う。これが博士の示した九点目までだ」
B「それで十点は何だい?」
A「笑いの実験をしていて、博士は十点を考えている間に、笑い死んだらしい」
(これは、恭二の創作です)
新聞記事を書く腕を磨くために、おれはこんなばかばかしいことをしていたんだ。読んだ話は、ちっともおもしろくなかった。しかし恭二は、浪人中にこのノートを続けようと思った。猛勉強の合間の、気分転換くらいにはなるだろう。
胸のなかに溜まった詩織の澱(おり)は、時間が解決してくれるはずだ。明るく、笑って、おれは新たな一歩を踏み出さなければならない。ノートを、旅行カバンに入れた。そして、恭二は眠った。