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142:最後の夜

2019-09-22 | 小説「町おこしの賦」
142:最後の夜
詩織の部屋のドアを、軽くノックする。手が震えた。すぐに扉が開いて、詩織は恭二をなかに招き入れた。詩織は恭二に椅子を勧め、自分はベッドの端に腰を下ろした。
「恭二、ワインを飲もう。一番高級なのを、持ってきちゃった」
 机の上には、二つのグラスと赤ワインが置いてあった。恭二は栓を抜き、グラスに注いだ。それを両手に持って、詩織の隣りに腰を下ろした。
「恭二、何ていって乾杯する?」
「二人の幸せのためにかな」
「うん、それでいい」
 グラスが合わされ、澄んだ高い音が響いた。
「恭二、長い間つき合ってくれてありがとう」
グラスを口から離して、詩織はいった。

「グラス、置くところがないね」
「机を引っ張ってきて」
 グラスを机に置いて、恭二は詩織の肩に手を回した。詩織は引っ張ってきた、机の引き出しを開けた。そしてなかを指差していった。
「これ全部恭二からもらった手紙。ごめんね、ずっと返事も出さないで」
 
引き出しの中は、恭二の手紙でいっぱいだった。詩織はそのなかに手を入れて、小さな消しゴムを取り出す。詩織消しゴムだった。詩織はそれを眺めながら、ぽつりといった。
「私ね、小学校のときから、恭二のこと好きだったみたい。この前、気がついた。中学のときに、もらったラブレターを恭二に見せたよね。あれは恭二の気持ちを、確かめたかったからなんだ」
「あのとき、おれの方が詩織のこと、何倍も好きだっていった」

 展開が悪い、と恭二は思う。詩織ののど元には、別れの言葉が突き上げてきている。恭二はそう直感する。なぜだ、なぜだと思う。別れる理由が見つからないのだ。
 頭のなかをスライドショーみたいに、昔の映像が次々に浮かんでくる。恭二は、覚悟を決めている。何をいわれても動じないでおこうと、固く決意している。
「恭二、私、結婚するかもしれない」
 予想もしていなかった、宣告だった。硬直してしまった思考回路を、力まかせにこじ開ける。言葉が出ない。
「主治医の先生から、プロポーズされているの」
「そうか」と、恭二は応じた。時間が固まってしまった。不安定だった、グラスタワーが倒れた。砕け散ったグラスから、粘液質の水がこぼれた。
「恭二、ずっと私のこと、大切に思ってくれてありがとう」
 詩織の肩が、激しく揺れはじめた。恭二は肩に回していた手を解き、絞り出すようにいった。
「わかった。おれ、消える」
 
恭二は立ち上がり、机を元の位置に押し戻した。詩織は、背後から抱きついてきた。
「恭二、きて!」
強引に、手を引かれた。恭二は手を振りほどき、大きく息を飲んでから、「さよなら」と告げた。すすり泣きが聞こえた。恭二はドアノブに手をかけ、後ろ向きのまま、もう一度「さよなら、詩織」と吐き出した。
ドア越しに、泣き叫ぶ声を聞いた。恭二は空っぽになった胸のなかから、「さよなら」の四文字をつまみ出し、自分の足下に放り投げた。


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