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奥泉光『シューマンの指』(講談社文庫)

2018-02-09 | 書評「お」の国内著者
奥泉光『シューマンの指』(講談社文庫)

音大のピアノ科を目指していた私は、後輩の天才ピアニスト永嶺修人が語るシューマンの音楽に傾倒していく。浪人が決まった春休みの夜、高校の音楽室で修人が演奏する「幻想曲」を偶然耳にした直後、プールで女子高生が殺された。その後、指を切断したの修人が海外でピアノを弾いていたという噂が…。(「BOOK」データベースより)

◎新たなジャンルの確立

奥泉光は難解な純文学作家です。そうした硬派の鎧を脱ぎ去って、ミステリーの世界に小さな風穴をあけはじめました。その象徴的な作品が『「吾輩は猫である」殺人事件』(新潮文庫、初出1996年)でした。

そこへ至るまでの奥泉光は、野間文芸新人賞(『ノヴァーリスの引用』集英社文庫絶版、初出1993年)、芥川賞(『石の来歴』講談社文芸文庫、初出1994年)と純文学関連の賞で評価されてきました。芥川賞受賞作『石の来歴』の選評をならべてみます。

――これまでの氏の力作と並び、創作意図は強くつらぬかれている。こうしてみれば、講談調にうわずる文体も粗雑な細部も、つまりは氏の個性なのだ。それを見きわめての、氏の剛腕への評価は、選考会でよく納得できた。(大江健三郎:芥川賞選評)

――いつもその腕力と言葉の氾濫に負けそうになっていたが、今回は素直に降参することにした。(吉行淳之介:芥川賞選評)

――才能とか資質という言葉よりも、力量という表現がまず頭に浮かぶ。石への執念、誰が誰を殺したかという疑惑などがストーリーを強引に押し進めて行く展開には、読者を引きずり込む力が認められる。それでいて、どこかにふと寂しい風の吹き抜ける気配もある。(黒井千次:芥川賞選評)

 3人の選考委員は言葉を合わせたように、「力作」「腕力」「力量」と「力」こぶを評価しています。奥泉光が大きく変貌したのは、前記のとおり『「吾輩は猫である」殺人事件』を上梓してからです。奥泉光は自作について、つぎのように語っています。

――僕には人をびっくりさせたい、面白がらせたいという非常に素朴な欲望がありまして、それで書いているところもあるんです。でも、最後はプロの技で、さすがはプロと言われるようになりたいな、と思う気持ちもあるんですけどね。(『小説家への道』マガジンハウス1997年)

 この思いをみごとに開花させたのが、『シューマンの指』(講談社文庫)です。近年の奥泉作品を的確に言い表している文章を紹介します。

――奥泉さんの小説はミステリー仕立ての純文学、とでもいいましょうか……。ただし、いわゆるミステリー、推理小説と大きく違うのは、きっちりとした答えを出さないこと。何度でも冒頭にもどらされてしまうくらい、ことは錯綜しています。(女性文学会編『たとえば純文学はこんなふうに書く』同文書院より)

『シューマンの指』(講談社文庫)でも奥泉光は、明確なエンディングを回避しています。夏目漱石、三島由紀夫、古井由吉、中上健次の文体をなぞっていた作品と決別して、奥泉光はこの作品で新たなる文体も確立したのかもしれません。

◎エンディングに度肝を抜かれる

CDを聞きながら、原稿を書いています。もちろんCDは、シューマンです。ずっと以前に購入したCDつき週刊誌「シューマン」には、「ピアノ協奏曲イ短調・トロイメライ・交響曲第3番ライン」が収録されています。いつもはジャズを聴きながら原稿を書くのですが、本日はそんなわけにはゆきません。

『シューマンの指』は、音楽ミステリーというジャンルにくくるべきでしょう。しかも主役は天才音楽家のシューマンと、8歳にして完璧にそれを弾きこなした天才ピアニスト・永嶺修人です。
本書を読むにあたって、シューマンに関する予備知識が必要です。なにしろ本書では、シューマンと永嶺修人は重ねて描かれているのですから。

――シューマンと言えば、ほとんど多重人格者。脳内におのれの分身キャラクターを作り出し、彼らを遊ばせることで作曲する。やがて狂気に駆られ、ライン川で入水自殺を試みるが未遂に終わり、精神科病院へ。ベートーヴェンへのコンプレックスに悩まされたり、指を痛めてピアノを満足に弾けなくなったりもした。
(「読売新聞」2010.7.26、評者:片山杜秀)

 本書の入口として、片山杜秀の書評の一部を引用させてもらいました。片山杜秀は文庫の解説も担当しています。大学の准教授であり音楽評論家を解説に起用している点からも、『シューマンの指』は単なる文芸作品とは一線を画していることが理解できます。

 本書の語り手・私(里橋優)のもとに、30余年前にシューマンを愛した音楽仲間・鹿内堅一郎から一通の手紙が届きます。手紙はドイツで投函されたもので、「永嶺修人がピアノを弾いていた」とありました。

永嶺修人は高校3年のときに、大切な指を欠損しているはずです。ピアノなど弾けるはずはありません。手紙を受け取った「私」の回想シーンがつづきます。

里橋優(語り手の私)、鹿内堅一郎(手紙の差出人)、永嶺修人の3人は、高校時代に「ダヴィッド同盟」という音楽グループを結成していました。「私」(里橋優)と鹿内堅一郎は、美貌の天才に対して強い尊敬と憧憬をもって接しつづけていました。しかし永嶺修人は独善的であり、「私」は生涯に3回しか彼の演奏を聴いていません。

 そのうちの1度は夜の高校で偶然耳にしたものです。その夜、敷地内で殺人事件が起こります。居合わせた「私」も、事件に巻きこまれます。犯人は見つかりません。

 指を失っているはずの永嶺修人は、なぜ30年後にピアノを弾いているのでしょうか。高校の敷地内での殺人事件の真犯人は誰なのでしょうか。「私」の長い回想シーンは、永嶺修人の妹の手紙で途切れます。

『シューマンの指』は、サンドイッチ状の2通の手紙にはさまれた、過去の回想という構図になっています。エンディングには、きっと度肝をぬかれると思います。してやったりの奥泉光の笑顔が浮かびます。大成功だよ、この作品は。そんなメッセージを、作者に届けたくなったほどでした。

 最後に伊坂幸太郎のインタビュー記事に、おもしろいエピソードがありましたので紹介します。伊坂幸太郎が『オーデュポンの祈り』で、新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した日の2次会でのことです。

――当時、奥泉さんは『鳥類学者のファンタジア』(集英社文庫)という作品を連載していらしたので、その話題にもなったんです。/「小説の中で主人公がチャーリー・パーカーにまで会っちゃうんですか。すごいですね」僕がそう言うと、「そりゃそうだよ。何でもできるんだからね、小説は。書けば、そうなるんだから」奥泉さんはとても嬉しそうに、おっしゃったんですよね。(木村俊介『物語論』講談社現代新書の伊坂幸太郎インタビュー記事P230)

 奥泉光の高笑いが聞こえてきました。私は奥泉光の推薦作(1著者1作品に泣く泣く絞り込む無謀でバカげた決めごと)の書棚から、そっと『「吾輩は猫である」殺人事件』(新潮文庫)をはずし、『シューマンの指』(講談社文庫)をおさめました。
(山本藤光:2012.11.26初稿、2018.02.09改稿)


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