山本藤光の文庫で読む500+α

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荻原浩『明日の記憶』(光文社文庫)

2018-02-27 | 書評「お」の国内著者
荻原浩『明日の記憶』(光文社文庫)

広告代理店営業部長の佐伯は、齢五十にして若年性アルツハイマーと診断された。仕事では重要な案件を抱え、一人娘は結婚を間近に控えていた。銀婚式をすませた妻との穏やかな思い出さえも、病は残酷に奪い去っていく。けれども彼を取り巻くいくつもの深い愛は、失われゆく記憶を、はるか明日に甦らせるだろう!山本周五郎賞受賞の感動長編、待望の文庫化。(「BOOK」データベースより)

◎若年性アルツハイマーの初期症状

荻原浩のデビュー作『オロロ畑でつかまえて』(集英社文庫)を読んだとき、化けるか消滅するかのどちらかだと思いました。その後いくつかの作品を読んでみて、純文学でもなくミステリーでもない中途半端さに失望してしまいました。
 
事実、荻原浩は泣かず飛ばずの時期が、つづいていました。そして『明日の記憶』(光文社文庫)で、大ブレークしました。荻原浩は、軽妙な文章を書くことができる作家です。ところが筆がすぺりすぎるきらいがありました。それはあつかうテーマが軽すぎたからだと思っています。
 
私は『明日の記憶』の初版本を読んだとき、思わず「やったな」と叫んでしまいました。ずっと軽く感じてきた単行本に、どっしりとした重い手ごたえを感じたのです。以下、当時の「読書ノート」を転記してみたいと思います。
 
(引用はじめ)
主人公は、広告代理店の営業部長・佐伯雅行50歳です。娘の梨恵は、結婚を目前に控えています。佐伯は物忘れがひどくなっている自分に気づいています。しかしそれを、単なる加齢によるものと片づけていました。仕事が多忙であり、睡眠不足の日がつづきました。病院へ行き、睡眠薬の処方を依頼します。検査の結果が告げられます。
 
――私の顔と枝実子の顔を見比べて、それから医師は言った。
「おそらく若年性アルツハイマーの初期症状だと思われます」
 頭の上に、空が落ちてきた。(本文P84より)

――アルツハイマーの症状は、しだいに患者本人の苦痛ではなく、介護する人間の苦痛になっていくのだ。/このまま症状が進むと、記憶障害や随伴症状だけでなく行動障害が起きるようになる。たとえば、徘徊。(本文P242より)

読みながら、自分がこんな診断をされたらどうなるかを考えました。恐怖が走りました。地獄の診断。記憶力がどんどん退化し、最後は自分自身まで喪失してしまうのです。

主人公も、恐怖でパニック状態におちいります。当初は医者の誤診と思いこもうとしましたが、しだいに兆候があらわれてきます。仕事にも支障が生ずるようになり、記憶もあいまいになっていきます。

ずっと軽妙な作品ばかり発表してきた荻原浩は、新しい境地を拓いたようです。床に伏す以上に怖い病気。読み終えてからも、恐怖が消え去りませんでした。本書のエンディングは、涙なしには迎えられません。怖いけれども温かい。本書はまぎれもなく、荻原浩の代表作といえます。
(引用おわり。「藤光日誌」2005年5月3日より)

『明日の記憶』は2006年、堤幸彦監督・渡辺謙主演により東映から映画化されています。私はみていませんが、友人たちのあいだでは非常に評価が高かったようです。本書を読んだ主演の渡辺謙が「映画にしたい」、と著者に手紙を書いたとの逸話があります。

◎病気小説の最高峰

山本周五郎賞の選評で『明日の記憶』について、重松清はつぎのように語っています。なるほどと思いますし、読みながら私もダニエル・キース『アルジャノンに花束を』(早川ダニエル・キイス文庫。500+α推薦作)を思い出していました。

――どうしても一点、気になるところがあった。記憶を喪い、言葉を奪われつつある主人公は、しかし、物語の語り手として、最後まで明晰な語り口と豊かな語彙を保っているのだ。本作の場合は「どう語るか」が作品のモチーフに直接つながるのだから、『アルジャーノンに花束を』の二番煎じになることなく、しかしその地平にまで挑んでもらいたかった。(重松清の選評より)

他の選者からも、「性」や「死」にまで切り込むべきだとの意見もありました。病気を小説のテーマにするのは、非常に難しいことです。主人公を「彼」や「彼女」で書いてしまうと、どうしても薄っぺらなものになってしまいます。『アルジャノンに花束を』は、彼(リチャード・ゴードン)の視点で書かれていますが、経過報告という手法で深みをつくっています。
 
「私」という一人称でとことん病気を突き詰めると、重松清の指摘に行き着いてしまいます。荻原浩には、ぜひもう一段高みを目指してもらいたいと思います。飾り気のない淡々とした筆致は、魅力にあふれています。

◎追記(2017.10.27)
荻原浩はついに直木賞を受賞しました。荻原浩の現在は、重松清の選評にあるような気がしています。まだ受賞作は読んでいませんが、それを確かめたくてなりません。
(山本藤光:2010.07.20初稿、2018.02.27改稿)

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