015:お祝いのホットケーキ
ちょっと身構えて、恭二は喫茶「むらさき」のドアを開けた。前島たちの姿はない。安堵の息が白く染まった。店内は暖かかった。すでに三人はテーブルについていた。
「ごめん、一番乗りのつもりだったのに」
弁解した恭二に、詩織は隣の椅子を指差した。
「モーニングセット四つお願いします」
勇太が大きな声で注文した。厨房から「はい」という声が響いた。コップが触れ合う音がして、秋山可穂が姿を見せた。喫茶むらさきの一人娘で、四人とは同級生である。
「みんな合格おめでとう。今朝の道新に名前が載っていたね」
「可穂も合格おめでとう」
詩織は笑いながら、受け取ったコップを掲げてみせる。
「無試験だったから、うれしさも半分だな」
勇太がいった。
「母さんがね、今日は合格のお祝いだからサービスするって。お金はいらない」
そのときドアが開いて、大柄な中年の男が入ってきた。
「昭子さん、おはよう。いつものやつ、お願い」
姿の見えない主に向かって声をかけると、男はおもむろに持参してきた新聞を開いた。
「おじさん、地方欄に私たちの名前が出ているの」
可穂は、おじさんと呼んだ宮瀬哲伸の席に水を置いて、照れくさそうに告げた。
「そうか、可穂ちゃんの高校合格発表の日だったのか……えーと、秋山可穂。あった。可穂ちゃん、合格おめでとう」
宮瀬は鼻眼鏡を指先で上げて、厨房に向かって大声を発した。
「誰? あの人?」
理佐は小声で、詩織にたずねる。
「宮瀬建設の社長で、観光協会の会長さんよ」
詩織はさらに声を低くして、理佐に説明した。
「例の評判の悪い建物の責任者でもある」
恭二も声を抑えて、続けた。
「あの博物館の、館長でもあるの」
詩織は内緒話をするように、声をくぐもらせた。厨房から昭子が、ホットケーキを運んできた。
「今日は特別サービス。だからトーストではないの。みんな合格おめでとう」
「ありがとうございます」
「おー、ホットケーキか、楽しみだな」
奥の席から声が上がった。
「あなたはおめでたくないんだから、いつものトーストだよ」
昭子は笑いながら、奥の席に声を放った。
喫茶「むらさき」で、話がまとまった。四人で卒業旅行に、行こうというのである。北海道の二月は、真冬のど真ん中である。春の気配は、みじんも感じられない。
「暖かいところに行きたいね」
詩織のひょんな一言が、みんなの気持ちに火をつけた格好である。
「暖かいところっていうと、沖縄とかグアムになるよ。そんなのムリ」
理佐は自らの提案を否定し、「札幌におじいちゃんとおばあちゃんがいるんだけど、札幌なんてどうかしら。地下街なら暖かいし、泊まり賃がいらない。卒業旅行と説明したら、うちの親は許してくれると思う」といった。
「卒業旅行か。何とか実現したいな」
恭二の言葉を受けて、勇太はつないだ。
「うちは固いから、恭二と二人で卒業旅行に行くということにする。それならオーケーだと思う」
「おれのところは大丈夫だ。四人で行くって、ちゃんとお願いするよ」
恭二の話を聞いて、詩織は考えこんでいる。大きな瞳が、宙を見上げている。上向きの長いまつげが揺れた。
「私は理佐と旅行に行く、っていう。恭二の名前を出すと、反対されそうな気がするの」
「おい、おい。おれはそんなに危険人物かよ」
「そうじゃないけど、思春期の男女って、親の心配の種なんだから」
理佐は深い二重の瞳を詩織に向けて、「私はどうせばれちゃうんだから、正攻法でお願いするわ」といった。いいな、このグループは。恭二はそう思ってから、このカップルは、と頭のなかで訂正を加える。
ちょっと身構えて、恭二は喫茶「むらさき」のドアを開けた。前島たちの姿はない。安堵の息が白く染まった。店内は暖かかった。すでに三人はテーブルについていた。
「ごめん、一番乗りのつもりだったのに」
弁解した恭二に、詩織は隣の椅子を指差した。
「モーニングセット四つお願いします」
勇太が大きな声で注文した。厨房から「はい」という声が響いた。コップが触れ合う音がして、秋山可穂が姿を見せた。喫茶むらさきの一人娘で、四人とは同級生である。
「みんな合格おめでとう。今朝の道新に名前が載っていたね」
「可穂も合格おめでとう」
詩織は笑いながら、受け取ったコップを掲げてみせる。
「無試験だったから、うれしさも半分だな」
勇太がいった。
「母さんがね、今日は合格のお祝いだからサービスするって。お金はいらない」
そのときドアが開いて、大柄な中年の男が入ってきた。
「昭子さん、おはよう。いつものやつ、お願い」
姿の見えない主に向かって声をかけると、男はおもむろに持参してきた新聞を開いた。
「おじさん、地方欄に私たちの名前が出ているの」
可穂は、おじさんと呼んだ宮瀬哲伸の席に水を置いて、照れくさそうに告げた。
「そうか、可穂ちゃんの高校合格発表の日だったのか……えーと、秋山可穂。あった。可穂ちゃん、合格おめでとう」
宮瀬は鼻眼鏡を指先で上げて、厨房に向かって大声を発した。
「誰? あの人?」
理佐は小声で、詩織にたずねる。
「宮瀬建設の社長で、観光協会の会長さんよ」
詩織はさらに声を低くして、理佐に説明した。
「例の評判の悪い建物の責任者でもある」
恭二も声を抑えて、続けた。
「あの博物館の、館長でもあるの」
詩織は内緒話をするように、声をくぐもらせた。厨房から昭子が、ホットケーキを運んできた。
「今日は特別サービス。だからトーストではないの。みんな合格おめでとう」
「ありがとうございます」
「おー、ホットケーキか、楽しみだな」
奥の席から声が上がった。
「あなたはおめでたくないんだから、いつものトーストだよ」
昭子は笑いながら、奥の席に声を放った。
喫茶「むらさき」で、話がまとまった。四人で卒業旅行に、行こうというのである。北海道の二月は、真冬のど真ん中である。春の気配は、みじんも感じられない。
「暖かいところに行きたいね」
詩織のひょんな一言が、みんなの気持ちに火をつけた格好である。
「暖かいところっていうと、沖縄とかグアムになるよ。そんなのムリ」
理佐は自らの提案を否定し、「札幌におじいちゃんとおばあちゃんがいるんだけど、札幌なんてどうかしら。地下街なら暖かいし、泊まり賃がいらない。卒業旅行と説明したら、うちの親は許してくれると思う」といった。
「卒業旅行か。何とか実現したいな」
恭二の言葉を受けて、勇太はつないだ。
「うちは固いから、恭二と二人で卒業旅行に行くということにする。それならオーケーだと思う」
「おれのところは大丈夫だ。四人で行くって、ちゃんとお願いするよ」
恭二の話を聞いて、詩織は考えこんでいる。大きな瞳が、宙を見上げている。上向きの長いまつげが揺れた。
「私は理佐と旅行に行く、っていう。恭二の名前を出すと、反対されそうな気がするの」
「おい、おい。おれはそんなに危険人物かよ」
「そうじゃないけど、思春期の男女って、親の心配の種なんだから」
理佐は深い二重の瞳を詩織に向けて、「私はどうせばれちゃうんだから、正攻法でお願いするわ」といった。いいな、このグループは。恭二はそう思ってから、このカップルは、と頭のなかで訂正を加える。