オイルショックでトイレットペーパーがスーパーから消えた、昭和48年に私の信用金庫人生はスタートした。
アラブ石油輸出機構(OPEC)において、生産調整と販売価格の一方的なつり上げで、原油価格が2倍に高騰した煽りをうけ、物価が上昇、生活必需品の物資が一時的に不足して、日本中が混乱した年である。
今では第一次オイルショックと称される。
それまでの新築住宅は大抵300万といわれていたのが、一挙に倍となり、建築資材も不足がちということになった。
政府はこの混乱を抑えるために、総量規制を敷いたのだが、それでもしばらく混乱は収まらなかったように思う。
鹿島支店に配属された私は、入って二日目から外回りの仕事に就いた。
旭が丘公園の桜は満開で、その下を先輩に連れられて歩いた鮮明な記憶がある。
二日目にして金融の知識もなにも無い中で、渉外活動をさせられたのだから、今にして思えば随分と乱暴なことであった。
とは云っても、当時の渉外担当者の主な仕事は、日駆け集金で、朝から60軒ほどを回って、日掛け積金の通帳に領収判を押して帰ってくるという任務だった。
それでとても仕事をした気持ちになっていたのだから、効率も生産性も何もあったもんじゃなかったんである。
そのうちに慣れてくると、お客様から資金の相談を受けるようになった。
それは新米職員としては妙に嬉しかったものである。
そんなある日・・・・
有明方面を回っていた先輩が、あるお取引先に決算書の提出を求めたが、そこの女性事務員さんから・・・・・
「決算書、決算書ていうけど、あんたの所の決算はちゃんとしてるの?」
と問いかけられて、思わず言葉に詰まったというのである。
当時は現在のディスクロも自己資本規制も無かった時代だから、支店内でもとょっとした議論になった。
「お客様に決算内容の良しあしを問う前に、わが信用金庫の決算内容もちゃんと判っとかんといかんよね。」
入って2,3年生の新米職員同志の他愛もない会話であるが、それから私はおもむろにわが社の決算内容の勉強を始めた記憶がある。
それでも先輩たちから可愛がられ、守られてきた。
走り出した頃の私は、まったくの世間知らずの生意気な男であったが、どこかにちゃんと問題意識は持っていたように思う。
当時は今とは時代が違い牧歌的なものであった。
外回りから帰ってきた先輩の靴が泥で汚れているので、
「大変だったですね。」と声を掛けると・・・、
「ちょっと来い・・・」と駐車場まで連れていかれて、先輩の車のトランクの中を見せてもらうと、有明海のハゼが数匹ビニール袋に横たわっていた。
「今日は大漁やったバイ・・・。」と得意そうな先輩の顔が思い出される。
ソフトボールの大好きだった支店長が赴任されると、支店内は俄かにソフトボールチームと化した。
その支店長さんは、私費で私たちにユニホームまでプレゼントした位である。
そのうちに、先輩のSさんが支店長の目にとまり、
「君はピッチャーの素質があるよ・・・。」と見込まれたのである。
はたして、S先輩は燃えに燃え、朝は7時に支店に出勤して、早朝トレーニングと称して、職員駐車場での投球練習に付き合わされる始末であった。
そんな実にiおおらかな時代であったが、あの頃は理屈抜きで楽しかった。
そして、リレーションシップバンキングなどという言葉はまったく知らなかったのだが、お客様には誠心誠意お仕えしたものだった。
今となっては、すべてお客様から教えられた気がする。
私が走り出した時代はおらかでのんびりした時代であった。しかしねだからこそ、慌てずに信用金庫とは何かということをじっくり教えられた気がする。
できれば後輩たちにも、たまにはおおらかな職場ライフを送ってほしいと思う私は、管理者として失格なのであろうか・・・・。
似たような光景を思い出します。全国転勤族でしたから
各支店には、いろんな上司・同僚・部下・そして女性陣。
こんなにギスギスした、差し迫った時代ではなかったですよね。団塊の世代の歪みを国家戦略の中に織り込んでこなかった為政者のタイマンです。