風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

各駅停車の旅

2009年05月15日 23時58分22秒 | 風竿日記

世の中はBフレッツ光通信の時代、武雄には新幹線も通ることになり、携帯で緊急の用事はOK。ブロードバンドが常識だとか・・・。

メールも便利だし、急ぐときは高速道路で福岡まで1時間で着く。

大阪まで博多駅から「のぞみ」で2時間半、あっという間なんである。

昔は肥前鹿島駅から博多駅まで4時間もかけて行ったものだった。勿論SL列車で・・・・。D-51だったろうか・・・。窓を開けると鼻の穴が真っ黒になったものだ。

                                                  

幼い頃は時間がゆっくり回っていて、道往く人々ものんびりしていた。

国民はみな等しく貧乏であったけれど、たまに「おはぎ」とか作った日には、決まって近所におすそ分けしたものだった。

よく酒屋に父の遣いで走らされたものだ。白菊《東長の二級酒》を四合壜に量り売りだった。そのまま帰りは魚屋さんに寄って冷凍鯨も買わされた。薄皮包装に包んだのを小脇に抱えて家路を急いだが、帰り着く頃には腕が冷たくなっていた。お使い賃なんて貰ったことはなかった。子供は家の手伝いをするのは当たり前のことであった。

クーラーも電気炊飯器も冷蔵庫もない時代であったが、今より何不自由なく暮らしていたように思う。

麦の一杯入ったご飯は、竹篭に入れて鴨居に吊るした。夕涼みにバンコが軒先に並べられ、毎晩将棋大会。近所の人たちは皆仲良し。

家は開けっ放しで、夏の夜はそのまま蚊帳を吊って寝た。時折蛍を捕まえてきては蚊帳の中で航空ショーを開催した。豚の蚊取り線香の懐かしい匂いの記憶と思い出。

眠りにつくまで母が団扇で優しく扇いでくれた。扇風機もなかったが、暑くて眠れなかった記憶はない。

皆一様に貧乏だったが、日本は今よりも心も景色も美しかった。

我が家にテレビが来たのは近所でも早い方だった。「月光仮面」や「てなもんや三度笠」、「三菱ダイアモンドアワープロレス中継」では力道山の空手チョップが炸裂した。近所から「今晩わぁー。テレビを見せてくださぁい!」憎っくきガキ大将も神妙な顔でテレビに見入っていた。

               

それからテレビが広まってから、近所の子供達は来なくなった頃、布団を被って微かな隙間から弟と覗き観た「恐怖のミイラ」、しばらくは一人でトイレに行けなかったものだ。

大きな洗濯板と四角いミツワ洗濯石鹸、紙芝居屋の大きな黒い自転車。拝観料5円の水飴や味付けイカ。舌が真っ赤になった紙のニッキ飴。黄金バットと原色の記憶。暗くなるまで近所の子供皆で遊んだ。

ビー玉にぺチャ《メンコ》、そして線香花火、いつも親指がはみ出していたズックの靴。蝉取り。ラジオ体操。夏の友。アサガオの観察記録。

それらの思い出に浸りたかったら、各駅停車の電車で旅をしてみたらどうだろうか?

せちがらく厳しい時代といわれる現代、自殺者が3万2千人とテレビでニュースキャスターが、「政治が悪い!」とがなり立てていた。

皆が貧乏だったあの頃に旅してみたいものだ。皆が助け合い支えあってゆっくり生きていて、皆が一様に優しかったあの頃に・・・・。

 追伸、ブログの友達山光さまから映画「ALWAYS三丁目の夕日」のテーマ曲へのリンクを教えて頂きました。ここからどうぞ・・・


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15 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
まあなんと (山閑人ママ)
2009-05-16 02:52:59
素晴らしい記憶力。同世代の私
あっという間にあの頃に戻りました。
おっしゃる通りですね(^-^)/
同じ話で友さんと盛り上がった事があります。当時の菓子類がたまにスーパーにあると懐かしくて、ついすずめのたまごとか買って来ます。幸せな時代でしたね。昭和三十年代。

武雄の温泉街もそんな風に変われば懐かしいかもですね。がばいよか(^O^)/
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三丁目の夕日 (山光)
2009-05-16 07:18:35
http://players.music-eclub.com/?action=player&sid[]=127571

この曲をBGMで流したくなりますネ

まじで感動!
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再試行 (山光)
2009-05-16 07:23:50
リンク拒否されたみたいです

こっちは?

http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=127571

今度もダメだったらすみません。
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振り返っては ()
2009-05-16 08:13:54
イントロだけで すぐに引き込まれてしまいますね。

各駅停車と聞いたら猫が浮かんできました。

あれも名曲です。
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山閑人のママさま (風竿)
2009-05-16 09:21:20
皆、水鼻をたれていました。寒かったのでしょうね。冬は湯たんぽを抱いて寝ましたね。私達は貧しくとも心が綺麗だったあの頃を語り継いでいく必要があると思わされます。
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昭和40年代 (はいびー)
2009-05-16 09:31:29
僕が生まれたのは、昭和44年。やっと、家の前の道路が舗装されていく姿をおぼろげながら覚えています。そして、頻繁に夕方になると、停電してました。ロウソクを持ってきたおじちゃんたちがウロウロ。あ~、あの頃に一瞬でいいから、帰ってみたいですね。
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山光さま (風竿)
2009-05-16 09:37:20
いい曲ですね。感動、感じたらすぐ動く!
早速文中にリンクをはらさせて頂きました。
いつもありがとうございます。
そして今夜会えますね。山内町の対策の件は杉原議長と大渡議員に協力を要請、任せろと・・・。市への後援要請書もしたためました。持ってきますね。
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尚さん (風竿)
2009-05-16 09:39:51
600通のラブレターの方とやり取りをしています。素晴らしい方です。僕と同年でした。しかも元銀行員。いいご縁です。
いろいろと心の修行ができそうです。感謝
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はいびーさま (風竿)
2009-05-16 09:44:51
よく停電していたとはその通りですね。急激に電化製品が普及していったせいでしょう。電力の供給が追いつかなかった。昭和39年東京オリンピックが終わると、それからわが国は高度成長へと走り続け、CO2の排出もそれに比例してうなぎ上りになったんですね。
単なるノスタルジア志向でなく、いろいろと最近は考えさせられます。
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ご飯 (タケタク)
2009-05-16 11:03:37
ご貴殿の家も・・鴨居につるしたクチか?。
夏はご飯の臭いをかいで・・食べてた(泣)。
ちょっと ねまった!? 臭いだと・・水で洗って・・臭いを消して食べてた(下痢なし!?)。
まぁ・・みんなが貧乏でも・・恥ずかしさも、多少そりゃあったが・・。
物を欲しがれば、うちは分限者さんじゃない!!との一言で・・諦めさせられた(苦笑)。

ワタクシは・・既に亡くなっておられるが・・厳しさと優しさに満ち溢れていた・・おせっかいな近所のおじさんやおばさんに妙に逢いたいと思うのです・・(泣)。

お礼を言いたい・・・。
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