世の中はBフレッツ光通信の時代、武雄には新幹線も通ることになり、携帯で緊急の用事はOK。ブロードバンドが常識だとか・・・。
メールも便利だし、急ぐときは高速道路で福岡まで1時間で着く。
大阪まで博多駅から「のぞみ」で2時間半、あっという間なんである。
昔は肥前鹿島駅から博多駅まで4時間もかけて行ったものだった。勿論SL列車で・・・・。D-51だったろうか・・・。窓を開けると鼻の穴が真っ黒になったものだ。
幼い頃は時間がゆっくり回っていて、道往く人々ものんびりしていた。
国民はみな等しく貧乏であったけれど、たまに「おはぎ」とか作った日には、決まって近所におすそ分けしたものだった。
よく酒屋に父の遣いで走らされたものだ。白菊《東長の二級酒》を四合壜に量り売りだった。そのまま帰りは魚屋さんに寄って冷凍鯨も買わされた。薄皮包装に包んだのを小脇に抱えて家路を急いだが、帰り着く頃には腕が冷たくなっていた。お使い賃なんて貰ったことはなかった。子供は家の手伝いをするのは当たり前のことであった。
クーラーも電気炊飯器も冷蔵庫もない時代であったが、今より何不自由なく暮らしていたように思う。
麦の一杯入ったご飯は、竹篭に入れて鴨居に吊るした。夕涼みにバンコが軒先に並べられ、毎晩将棋大会。近所の人たちは皆仲良し。
家は開けっ放しで、夏の夜はそのまま蚊帳を吊って寝た。時折蛍を捕まえてきては蚊帳の中で航空ショーを開催した。豚の蚊取り線香の懐かしい匂いの記憶と思い出。
眠りにつくまで母が団扇で優しく扇いでくれた。扇風機もなかったが、暑くて眠れなかった記憶はない。
皆一様に貧乏だったが、日本は今よりも心も景色も美しかった。
我が家にテレビが来たのは近所でも早い方だった。「月光仮面」や「てなもんや三度笠」、「三菱ダイアモンドアワープロレス中継」では力道山の空手チョップが炸裂した。近所から「今晩わぁー。テレビを見せてくださぁい!」憎っくきガキ大将も神妙な顔でテレビに見入っていた。
それからテレビが広まってから、近所の子供達は来なくなった頃、布団を被って微かな隙間から弟と覗き観た「恐怖のミイラ」、しばらくは一人でトイレに行けなかったものだ。
大きな洗濯板と四角いミツワ洗濯石鹸、紙芝居屋の大きな黒い自転車。拝観料5円の水飴や味付けイカ。舌が真っ赤になった紙のニッキ飴。黄金バットと原色の記憶。暗くなるまで近所の子供皆で遊んだ。
ビー玉にぺチャ《メンコ》、そして線香花火、いつも親指がはみ出していたズックの靴。蝉取り。ラジオ体操。夏の友。アサガオの観察記録。
それらの思い出に浸りたかったら、各駅停車の電車で旅をしてみたらどうだろうか?
せちがらく厳しい時代といわれる現代、自殺者が3万2千人とテレビでニュースキャスターが、「政治が悪い!」とがなり立てていた。
皆が貧乏だったあの頃に旅してみたいものだ。皆が助け合い支えあってゆっくり生きていて、皆が一様に優しかったあの頃に・・・・。
追伸、ブログの友達山光さまから映画「ALWAYS三丁目の夕日」のテーマ曲へのリンクを教えて頂きました。ここからどうぞ・・・
とても懐かしくて、温かい子供時代の思い出、、素敵だな~って楽しく読ませて頂きました(^_^)v私の子供時代は、昭和のもっと後なのですが、、山の中だったので、雰囲気が似ているようなところがあるな~って懐かしく拝見しました♪
3丁目の夕日が浮かんできます!良い映画だったな~!あんなに感動できた映画ってなかなかお目にかかれないよなって思います!音楽いいですね~。。そうそうこの曲って聞き惚れました(^o^)
私は続3丁目の夕日のラストに流れたこの曲が大好きで、自分のブログに貼り付けたことがあります♪
BUMP OF CHICKEN - 花の名(Hana no na)です!
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=6m51dE7Zf5k
因みに我が家は祖父がそうけを作っておりましたので『そうけや』と呼ばれておりました。五十メートル先の小さい店が『ようかんや』その前が『のうぐや』ちょっと線路を超えた店が『きゅーてんや』中学校そばの鶏肉やさんが『かしわや』と呼んでいましたね。今は昔。ようかんやに 五円を一枚持って10個のすずめのたまごを買いに行ってた幼い思い出がありますよ。ようかんはありませんです。はい。私の知らない昔にようかんを作ってたんでしょうね。何でも屋さんでした。
きゅーてんやなんて何でそんな呼び名なのか?です。知ってます?
宮野町のさせぼやは楽しみ満載でしたね(^-^)/
夏場の楽しみは温泉祭り。あちこちに櫓が立ってそれは賑やかでした。締めは桜山の花火でした。 本当に思い出せばよき時代でしたね。
昔の子供は近所からも育てられていたのでした。いつも夕日が沈むまで遊びまわっていたものです。
不自由ばかりだった筈なのに、すべてが満ち足りていました。ただしいつもお腹がすいていましたね。
夏はご飯の臭いをかいで・・食べてた(泣)。
ちょっと ねまった!? 臭いだと・・水で洗って・・臭いを消して食べてた(下痢なし!?)。
まぁ・・みんなが貧乏でも・・恥ずかしさも、多少そりゃあったが・・。
物を欲しがれば、うちは分限者さんじゃない!!との一言で・・諦めさせられた(苦笑)。
ワタクシは・・既に亡くなっておられるが・・厳しさと優しさに満ち溢れていた・・おせっかいな近所のおじさんやおばさんに妙に逢いたいと思うのです・・(泣)。
お礼を言いたい・・・。
単なるノスタルジア志向でなく、いろいろと最近は考えさせられます。
いろいろと心の修行ができそうです。感謝
早速文中にリンクをはらさせて頂きました。
いつもありがとうございます。
そして今夜会えますね。山内町の対策の件は杉原議長と大渡議員に協力を要請、任せろと・・・。市への後援要請書もしたためました。持ってきますね。
各駅停車と聞いたら猫が浮かんできました。
あれも名曲です。
こっちは?
http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=127571
今度もダメだったらすみません。
この曲をBGMで流したくなりますネ
まじで感動!
あっという間にあの頃に戻りました。
おっしゃる通りですね(^-^)/
同じ話で友さんと盛り上がった事があります。当時の菓子類がたまにスーパーにあると懐かしくて、ついすずめのたまごとか買って来ます。幸せな時代でしたね。昭和三十年代。
武雄の温泉街もそんな風に変われば懐かしいかもですね。がばいよか(^O^)/