たしか4年前に行った時も・・・・大規模なデモをやっていた。
今は黄色なのだが、その時は赤シャツ軍団のデモ、現政権のタクシン派のデモだった。
私達が宿泊しているホテルの真下の通りを、埋め尽くすほどの大隊列を組んで1時間ほど気勢をあげたのだが、みんなお祭り気分ではしゃいでいた。
歓声を送ると笑顔で応えるデモ隊・・・「イ・ヤッホーッ・・・・。」という感じなのだ。
周辺の農村部から500バーツ(約1500円)の日当を目当てに集まってくる「寄せ集め軍団」なのだと聞いた。
なんのことはない利権抗争に民衆が踊らされているだけなのだ。
既得権益を守りたい都市部のインテリ派といわれる前副首相派の黄色シャツ派と、
農村部を支持母体とする現政権の赤シャツ派の闘いの構図は、そのまま、国の成長を享受してきた都市部と、いまだに貧しい地方の農村部との対立のように言われるが、
単なる上層部の利権争いと見た。
しかし、いわばイデオロギーのないデモとも云えることから、まったく身の危険は感じなかった。
というよりかは・・・・・。
元来が敬虔な仏教徒の国、人と会う時の挨拶は言葉に必ず合掌が添えられる。
優しい人々なのだ。
しかも日本人贔屓のお国柄ときているから、タイには10万人もの日本人が住んでいるのだという。
さて、今回の目玉の一つである清水翁との邂逅の話をしようか。
もう時効だから紹介しても良かろうが・・・・。
そんな日本を遠く離れた南の国に、武雄での事業に失敗した清水さんは37年前単身やってきたのだ。
今は亡き、中山安弘さんからのアドバイスだったのだという。
今から再生を期するならば新興国・・・それも東南アジアがいいという的確なアドバイスに勇気をふり絞って決断されたのだという。
その、言葉も文化も習慣も判らない国で清水さんは踏ん張った。
一番はじめのご商売はネズミ捕り器だったそうで、日本から仕入れたら、在庫した分飛ぶように売れたのだと云う。
何でも当時は政府が害獣駆除の観点からネズミを買い上げていたそうで、面白いように売れたという。
持ち前の人脈作りの上手さでタイの日本人社会に溶け込まれ、
やがて重要なキーパーソンとなっていかれるにつれて、建設関連工事業も軌道に乗られ、
何と日本に残してきた3億の借財も全部返済されたのだという。
今にして思えば、東南アジアの中でもタイというのはベストセレクションだったのだと思う。
小乗と大乗の差こそあれ、同じ仏教国
家の庭先には必ずこういった仏様が祭られているのだ。
日本のいわばセレモニー化されたご都合主義の仏教とは違い、タイの人たちは一日中ことあるごとにブッダに祈りを捧げる。
さらに治安は頗る宜しいし、最近はむしろ日本の方が物騒な事件が多発しているくらいだしね。
さらにさらに、タイ人はおしなべて優しいときている。
それにしても、亜熱帯の高温多湿の国で清水さんは踏ん張ったのだ。
清水さんはその昔、ある意味で武雄の伝説の人であった。
日本青年会議所に出向された際に、あの麻生太郎氏が理事長だった頃、あまりの話の大きさに自分もひとホラ吹かれた逸話が残っている。
日本青年会議所といえば、地方の大金持ちのお坊ちゃまが跋扈する世界なのだが、その席で清水さんはすまし顔で一席ぶち上げた・・・・・
「我が家はねえ、武雄駅で降りて4キロほど行った所にあるんだが、その途中、人様の土地は一切通らないで家まで辿りつくのだ・・・・。」
と、堂々と豪語したというんである。
確かに公道を通るから人様の土地は通らなくて済むので間違いではないのだが、
これには麻生コンツェルンの御曹司であった麻生太郎氏も、目をシロクロさせて、一緒に来ていた武雄青年会議所のお付の人に・・・・
「武雄には凄い人がいらっしゃいますね・・・・。」と絶句したという。
豪傑、清水さんも80歳を迎えることとなり、来春には武雄に帰ってくるのだと仰った。
まだ記憶力も凄く、情報通で、お若い清水さんのことだから、黙って余生を送るなんて芸当は出来られないものだと思うが。
武雄も、バンコクの人々のように優しい人ばかりならば良いのだが・・。