私の父親は田舎の中学教師をしておりました。
昔は学校にも宿日直があって、父が当直の夕方には母と一緒に北鹿島中学校までお弁当を持って行ったものです。
学校の玄関前には大きなソテツの木があり、今頃の季節には無数の蛍が飛び交っていた実に映像的な記憶が、
還暦を迎えようとしている今でも、私の中で淡い幼い想い出として大切に保管されています。
そんな父は、いつも苦虫を噛み潰したような顔をして、時折不機嫌そうに「フッッ・・・。」と自嘲気味に云うのが常でした。
ところが一端お酒が入ると、頗るつきの上機嫌になり、
「あぁピヨピヨ・・・。」と調子っ外れの歌なんかもおどけて唄ったりしていました。
小1の時に我が家にもテレビが据えつけられました。
新しいものが大好きな父であったことから、比較的近所の中でも早くテレビが鎮座したのでありました。
月光仮面が愉しみな番組でありました。
NHKの柳家金吾楼と水ノ江滝子さんの「ジェスチャー」や
小川宏さんが司会を務める「私の秘密」なんかも大好きでした。
そんな時、確か金曜日の夜、三菱ダイアモンドアワーズとか何とか云って「プロレス中継」があっておりました。
プロレスの試合が始まる前に、何故か三菱の掃除機がリングを掃除しておりましたね。
あの気難しい父がこの番組だけは欠かさずに観ておりました。
父の贔屓のレスラーは当時の日本国の英雄「力道山」でした。
敗戦国日本にとって大柄のガイジンレスラーの反則攻撃を耐えに耐えて、伝家の宝刀「空手チョップ」でなぎ倒す姿は痛快そのものだったのでありましょう。
苦虫を噛み潰したような無口な父が、プロレス中継の間、手に汗をかいて、
時折「よし行けっ・・・・。」とか「ウーン・・・・。」と歯軋りをしながら呟くのが、
妙に臨場感を増幅させ、テレビの中継と相俟って、子供心に面白かったのでした。
力道山は日本相撲協会の力士で関脇まで昇りつめた人だったのですが、突然引退して日本プロレス協会を設立すると、中心レスラーとして、決め技の空手チョップを駆使して
シャープ兄弟やアトミック、白髪鬼プラッシーや四の字固のデストロイヤー、頭突きのボボ・ブラジルなどのガイジンレスラーと闘ったのでした。
彼が育てた弟子のジャイアント馬場やアントニオ猪木はその後日本のプロレス界を背負っていくのです
そんなプロレスブームに、私も近所の子供とよくプロレスごっこをして遊んだものです。
父も軍人を志していた青春を送ったことから、日本のレスラーがアメリカ人相手に大活躍するのは、万感の想いがあったのでありましょう。
力道山は北朝鮮生れで、大村市の百田さんに養子として入籍して、
しばらくは大村に住んでいたことは、あまり知られてはいません。
昭和38年12月にヤクザの喧嘩に巻き込まれて刺されて、
日本の英雄は呆気なく、いとも簡単に死んでしまいました。
その時の父の悲しみようと落胆ぶりは、傍目でも気の毒なくらいでした。
西鉄ライオンズと力道山が父のお気に入りだったからです。
その父も昭和54年に亡くなって、もう32年が経ちました。
力道山の胸像が東京大田区のお寺の彼のお墓の近くに建てられているそうです。
東京に出張の折には一度訪れてみたいと思っています。
父の分までお参りしたいと思うからです。