Riyo(里誉)’s クレヨン

世田谷区桜新町のスピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」です☆

愛に生きるんだもん。

2010-09-02 | フォルテネージュ

人は皆、人から愛されたいって思っているよね
愛なんて、いらないって言う人、いるかなあ

たとえ、そういう人がいても、愛を受け取らないのは、絶対、不可能だよね。

だってさ、

「私は、愛なんて、要りません。」って言っているAさんに、
Bさんが愛を与えなかったとして、
BさんはAさんの言葉を尊重していることになるから、

それって、りっぱな、愛ではないかしら・・・ 
<パラドックス愛>って、ヤツ・・・

そのうちに、
愛なんか要らないって言ってたAさんも、ずっとそのままじゃ、いられなくなる

そう、
人は変わるものだよね











<嫌い>という感情と、愛は、両立できないのかなあ

嫌いな人を愛するってことは、不可能なの?

じゃあ、愛に生きようとすると、
誰でも彼でも好きにならなきゃいけないってことになるけど、そうなのかな??



たとえ、
嫌いだと感じる人にでも、愛を送ることはできるよね

その人の存在を思う一瞬の優しさがあれば、
あとの多くの瞬間、憎悪にかられていたとしても、

「うーーー、ま、彼も、ありかな・・」みたいなところで、愛は成立するんだよ

自分にだけは必ず分かるその感覚。
嫌いな人に、一瞬でいいから、柔らかなまなざしを送れるかどうか











愛に生きる人はね、

相手が、失敗しても、ぶざまでも、迷ってても、弱くても、ずるくても、
何度も、何度も、何度も、許してあげて、
チャンスをあげ続けるんだって

ずっと、見ててあげるの

そうだよね、それが、人を愛でるってことだなあって思うよ
その人が、その人であることを、鑑賞するって感じがするの。

自分と同じ考え方でなくても、
自分の忠告を聞かなくても、
自分とはまったく違ったことを選択しても、
自分としては、「それは絶対、間違ってるよ!!!」って叫びたくっても、

相手の選択を、そのまま大事にして、見ててあげることって、
おおらかで深いことだよね













「こっちにしよう!」って手を取って連れて行くことだって、するよ

それは、その人が同意したらね。

どこまで、誘いをかけるかは、微妙な判断かも知れないけどさ

その人が、信念を持って、違う方向へ行こうとしてるなら、
それを力ずくで変えても、その人の課題が持ち越しになるだけだものね











閉じている人、
嫌いな人、
自分と違う人、

こういう人たちが、私の<愛に生きる姿勢>を強くしてくれるんだよね、きっと













           スピリチュアルカウンセリグサロン「フォルテネージュ」