何ヶ月か前のこと、
ある知人が、宴の席で、
「私は、目の前で誰かが苦しんでいても、平気で見ていられる人だから。」
と、シリアスな表情で語っていたのを小耳に挟んで、
私は、一瞬ビックリしたの。
その人は、普段、
とても物腰柔らかな社交的な印象だったので、
その発言が、私の聞き間違いではないかと思って、
とっさに、確認できず、戸惑った。
結局、その言葉は、
その後、私の心に深く残ることになったんだ。
そして、その後、
別の、こんな話を聞いた。
セラピストだったある人は、
日頃から、人を助けないことを公言していたのだけど、
さすがに、海で溺れている人を見かけて、とっさに体が動いて助けてしまった、らしいと。
なるほど、
どんなに心で決めていても、
助けるときには、自然と体が動いて、助けちゃうんだね!
そして、
とうとう、私は、自分自身が、
目の前で苦しんでいる人を、
手を差し伸べて欲しいと私に頼むその人を、
じっと、見据えて、助けないという選択をしている場面に出会ったの。
そのとき、私の心にあったのは、
憎悪でも、冷酷でも、なく、
「手を出さず、絶望の渦中にあるその人をただ見守ろう」ということだった。
葛藤はなく、きっぱりと、
そうすることに、一ミリの疑念もなかった。
そしたらね、
それから30分後には、
私は、心の底から、
「ああ、さっき、助けなくて良かった」と思っていたよ。
その人は、自力で立ち直っていき、
別次元の別人となった。
自分の感情の波に呑まれて、
迷い、さまよっている人から、
どうにもならないことをどうにかしようとせず、
あきらめて、自分の方向性を明らかに見る人に、
みるみるうちに、変わっていったんだ
そして、たぶん、私に対して、
嫌悪を感じただろうけれど、
その経験さえも、自分の糧にして、
笑顔で、去っていったんだ
人を助けないことが、助けることになる、場合がある。
人を助けても、実際、全然助けていない、場合がある。
殊更、人を助けようと心がけていなくても、
必要なときには、とっさに反応的に、助けてしまうものなんじゃないかな。
役に立つ自分でいることなんて、
人の期待通り動かなくて人から嫌われることなんて、
どうでもよいと思える宇宙が、
本来の自分がいるにふさわしい、本来の宇宙なんだと思う