Riyo(里誉)’s クレヨン

世田谷区桜新町のスピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」です☆

魂の役割の衣装

2010-06-30 | フォルテネージュ


その人はね、戦士の質が強いんだ

いつも、何かと戦い続けてる。

熱く激しく生きることが、自分の宿命だと選びとり、
激動あってこその我が命とばかりに、
敢えて、荒波の中に突入してやまない

まるで、動きを止めると死んでしまう鮫みたいなんだ














戦う人にとって、大切なアイテムが、「鎧(よろい)」。

戦士が、社会で自分を生きる舞台は、「戦場」以外にあり得ないから、
「鎧」は、彼が彼であるために、なくてはならないコスチューム

自分はありのままでいる!って言って、むき身の自分をさらしたって、
瞬時に、たくさんの矢で射抜かれて、絶命するだけ

生身の彼は、
それは繊細で、ナイーブで、あどけない少年なんだね、きっと













彼が戦う理由はね、

どうやら、敵を倒すことにはないらしい。

誰かを守るため、
何かを築くため。

彼にしかできない、彼一流の愛の表現なんだ














一度、鎧を着ずに、戦場に出かけたことがあったんだって。

そしたらね、
かつて、パンドラの箱に入っていたネガティブなものが、
いっぺんに彼の中に流れ込んできて、
内と外が対流して、混乱して、

彼は、
ボロボロの姿でその場にうずくまった。

命があるのがやっと、ってところまで、行って、

彼を愛する同士たちが、寄り添い、励まし、傷の手当てをしてくれたって

そんな存在を確かめるための、
できごとだったのかも知れないけどね・・














天女が天女であるためには、「薄絹の羽衣」が必要であるように、














彼にとっての「鎧」は、
敏感な自分を守りつつも
「戦士」という魂の役割を演じるための、

大切な「衣(ころも)」なんだよ

戦士には、「羽衣」でなくて、やっぱり、「甲冑(かっちゅう)」がベストマッチだからさ

それを脱ぐときは、
社会での魂の役割を、ちょっと、おやすみして、鋭気を養うときだけなんだ














でもね、
そんな彼が、最近、初めて「愛の鎧」を身につけたらしい

何ひとつ欠けることのない、完璧な経験をしたとき、
気がついたら、

ひらひらと、柔らかな、
白地にブルーのラインの3本入った、
マザーテレサの白衣をまとっていたんだって














その報告を聞いたとき、
私は、彼の愛の表現方法が、ひとつ豊かになった気がしたんだ

自分を守り、誰かを守り、濃く強く存在することに加えて、

柔軟で、流動的で、自由で、かつダイナミックで、

自分の繊細さを、隠すどころか、
最高級の宝玉として、冠に飾って戴いてる



それこそが、本当の力(ちから)の具現だって、
そんなふうに感じたんだ








 

 



「鎧」という言葉の、その硬くて重い響きとは裏腹に、
パワフルな彼は、それを身につけて、「無条件の愛」を表現してるんだ

そんな在り方もいいよね




何だか、

「愛の戦士キューティーハニー」を、思い出しちゃった














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母でなくてこそ、できること

2010-06-28 | フォルテネージュ


これを言うことが、
どんなニュアンスを持って、あなたに受け取られるか、
ちょっとした賭けのような気分なんだけど、












子どもの頃から、
私は、自分が母になることが、想像できなかったんだ













母としての自分が、
我が子という存在に対して、
何を言って、どう振る舞って、どんな関係を築いていくのか、

一瞬、一瞬が、闇の中を歩くかのごとく思えて、
まったく、ビジョンが浮かばないんだ

自分の中にある、「母」というアーキタイプにアクセスすることは、
途方もなく、不可能に近いように感じられて、しかたないことなんだ













母になりたくないとか、
母になる自信がないとか、
そういう表現では、私の心の真実に反するように思う

母である自分は、自分の存在形態のバリエーションの中にない、くらいに思う・・

「石女(うまずめ)」って言葉を初めて聞いたときの衝撃を今も覚えている。
日本のムラ社会では、存在価値のない、人間のくず扱いされたその種の女性たち。

それが、素直に、私自身のアイデンティティと合致したんだ














だから、私は、未だに「母」になっていない。
たぶん、今世では、これから先もないと思う













「私は母にならない」との思いは、かなり以前から漠然とあって、
夫は、それを承知で私と結婚した

子どもが大好きで、子どもの扱いがとっても上手な彼だから、
自分の子を欲しくないはずはないのだけど、

なぜだか、私と結婚したんだ

ずっと、不思議だったけど、
彼にとって、私が「子ども」なのかも知れない
















でも、私は、子ども嫌いなわけじゃない。

大学と大学院では、「児童学」という分野を学んだし、
教育実習もして、小学校教諭資格も幼稚園教諭資格も持っているし、
家庭教師のアルバイトは大得意だったし、

約20年間、家庭裁判所で、非行臨床に携わって、
毎日のように、やんちゃな少年少女を相手に奮闘していたし、

今も、NPOを通じて、
アフリカの子どもの支援を行っていて、

友達も、独身者は少なくて、皆、子を持つ親だったりする・・

「子ども」って存在とは、縁が切れたことはないって、思っている














女性の役割として、
自ら、子どもを産むことが何より重要だと言うのなら、
私は、女性ではないようだ

でも、感じるのは、

そこんとこで、

世間の常識を越える、何かを、
ものごとの真髄を、
それをしっかり見据えて、決して惑わされるなって、メッセージなんだ


母になることを選択しなかったのは、他の何かを選択するため


時間とお金と心の余裕という、恵まれた環境を活かして、
私の中から、次々に、溢れ出る、人への愛情をエネルギー源にして、

絶対に、しなければならないことを、
私にしか、できないことを、













日本の少子化に拍車をかけたというマイナスを、
取り戻して余りあるプラスの貢献を、
きっと、私は、心から喜んで、自ら進んでやっていくようになるから、

ゆっくりペースに呆れずに、どうか、見守っていて欲しいんだ














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刺激的な彼の穏やかなバースディ

2010-06-26 | フォルテネージュ


結婚するとき、
私は、迷いはまったくなかったんだよね。

私が結婚するのは、この人を置いて、他には、いないって思えた。

彼は、私のわがままを包み込み、
そのまま認めて叶えてくれる、菩薩の優しさを持つ人だったんだ













結婚した当初、
私は、対人恐怖から職場に行くのがつらくなって、

朝、動悸に悩みながら、
本気で、「夫のお腹の中に入りたい」と思ってたよ

24時間、彼に守られながら、
母と胎児のようになれたら、どんなに安らかだろうと想像した

そういう私を、彼は、そのまま認めて、何も言わず、
相当、器用に、日々の仕事と家事をこなし、いつも穏やかで冷静だったな















そして、私は、
彼の一番欲しいものを与えてあげられない自分に、
自己嫌悪を抱いていく時代に入ったんだ

自分の女性性がどこか欠落しているとの思いは、保持するのが苦しかったのか、
自分の内部でバランスを取るかのように、
彼への憎悪なんてのも湧いてきた

まったく同じ仕事をしていた私たちは、
家庭でも対等な関係を維持してきたけれど、

彼は、自分の野心を奮い立たせて、社会に適応していき、
私は、不適応感を増長させて、苦悩を抑圧していたから、

感じ方や考え方や生き方の違いが出てくるのは、しょうがなかったんだね・・















時々、
私は、彼をズタズタに傷つけているという加害感を持ったし、
彼から、ズタズタに傷つけられていると被害感を持った

たぶん、彼も同じだったと思う













そんな経験がありながらも、
二人をつなぎ合わせてくれていたフォルテの存在に助けられて、

私たちは、宿命を感じて、二人一緒に生きてきたんだ














そして、ついに、去年の春、二人で同時に人生の転機を迎えた

今、
それぞれの場所で、それぞれの課題に、全力で取り組んでいて、

お互いに、目の前の自分のことに真剣になることが、
巡りめぐって、お互いを支え合うことにもなっていて、

具体的な出来事の把握やら、直接的な受容的会話やら、
そんな目に見えるものがなくっても、
二人の関係が進化していることが、手に取るように、分かるんだ



















今日は、夫の誕生日
二人でこの日を迎えるのは、今日で22回めになる

今年の私の誕生日に、彼が私にしてくれたように、
私は、彼の好きなチョコレートのデコレーションケーキを前に、

”ハッピー・バースディ”を歌って、祝ったんだ

私がそうされて、めちゃくちゃに嬉しかったから・・

今日、彼がどう感じたかは、
一瞬、潤んだ瞳から、察するしかないけどね

 

 

 

 

 

 

 

私が占星術を学び始めたのと同時期に、
夫は、天体観測に、興味を持ち始めた

そんなことひとつ取っても、互いの間の、呼応し合っているビームが見える

夫は星を見て、
妻は星を読む

私たちは、互いに太陽を水の星座に持ち、
相性の良いスムーズな関係だと思いきや、

アスペクトは90度で、緊張関係にあることを知ったのは、つい2年前のこと

私は、穏やかな人と結婚したと思っていたんだけど、
実は、とっても、刺激的な人と結婚していたんだ!












血縁間の骨肉の争い事を、距離を持って扱う、現実派な彼と、
誰かの個性が最大限に輝くことを助けたいスピリチュアル志向の私、

でも、そういう関係だからこそ、
学び得るものがあるのだと、
今、心から、そう、思える


かに座の支配星は月。
今日は満月、しかも部分月食なんだよね
現在、雲の向こうでは、マクロで神秘な影絵劇が、淡々と着々と進行中さ










 

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フォルテが伝える宇宙の意志

2010-06-24 | フォルテネージュ


フォルテは、毎日、
広大なフォルテ王国の領土の一部を、30分ばかり視察に出かけるんだけどね

いや、
要は、お散歩なんだけどさ・・












私は、お散歩のときのフォルテの姿が、大好きなんだ












だってね、

フォルテは、ずっと、ぐいぐいとリードを引っ張って、
自分の行きたい方向に行くことをあきらめない


今まで、道の右側の草むらを探索していたって、
充分楽しんだら、次の瞬間には、左側の電信柱にロックオンして、

そちらに向かって、匍匐(ほふく)前進みたく、身を低くて、たどり着くための最大限の努力をするんだ


一貫性がないと言われても、
節操がないと見られても、

彼は、自分の欲するところ、奥底からの欲求に従って、ひたすら行動し続ける













自分の欲求をあからさまにすることが、
私の叱責をかうのではないかとか、機嫌を損ねるんじゃないかとか、

そんな無用な心配は一切せずに、

とにかく、
「僕は、あそこに、行きたいんだ!!!」って、主張するのが最優先

私が、
巧みなリード捌(さば)きで、
「そっちはだめ。」とか、「もう、行こう。」とか、彼の意に反して合図すると、

素直に、従ったり、
ちょっと、逡巡した末、諦めたり、
絶対に、譲歩できないと頑張ったり、

そのときどきで、コミュニケーションしてくるんだよ





「欲しいこと」を隠したり、ごまかしたり、相手におもねって我慢したりしない。

その率直な潔さが、「欲望」という言葉の持つエゴイスティックな質感を、
見事なまでに、神聖で清純な宇宙の意志に、変化させてしまうんだ














いつでも、絶対服従とか、お決まりをしない。
そのときの自分の奥底を通じて、宇宙と会話して、
その純粋な意志を再び伝えてきてくれる

彼は、その労を惜しまない、宇宙との媒体なんだ















いつでも、常に、一歩前へと、進もうとするフォルテは、
どんなに歩いても、疲れてギブアップしたことは、これまで一度だってない


長旅では、その道中、ひたすらに進み続けて、
自分の城に戻った後に、泥のようになって眠りこけるんだ









ものすごい生命力と、野心と、大志と、推進力


フォルテの領土視察に随行するたびに、
私も、こんなふうに、自分の欲しいものへの真摯な姿勢を貫きたいって、思う














でもさ、

こんなお散歩のしかたでは、

「犬の飼い主検定」には、絶対に合格できないなぁ・・・














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「目に映るものはすべて自分」を考える。

2010-06-23 | フォルテネージュ


目に映るものはすべて自分だって言うよね

誰かを見て、
その中に、残虐性や、優柔不断さや、嫉妬や憎悪を見てとるとき、

それらは、全部、自分の中にある、自分の姿なのだと・・・













と、するとさ、

キリストが、自分を迫害する、無知な者らを目にしたときも、
キリストの中に、そういう部分があるって、解釈になるね

無知で、愚かで、自分のしていることの意味が分かっていない性質が、
キリストの中にあったのだと・・

確かに、
キリストは、自分が磔になるとき、それが復活を意味すると知らなかったから、
とっても評価水準が高いけど、「無知な部分があった」と言えなくもないかな











イハレアカラ・ヒューレン博士は、
ホオポノポノを説いてあちこち訪問しているから、
行く先々で、いろんな過酷な世界情勢を目にするよね。

そのたびに、彼は、自分の中をクリーニングするんだって。

博士曰く、

「私の中に、その問題を起こしている部分があるのだから、
ひたすら、それを、4つの言葉で、クリーニングし続けるのです。」 














感受性が強く、未来が見通せる人であればあるほど、
多くの事象や、ものごとの襞(ひだ)をキャッチしてる。

他人を見ると、その人の抱えている苦悩や心の闇が分かってしまう人は、

人の闇を感じるとき、

その昔、パンドラの箱に入っていたであろう、黒くて煤けてどろどろしたものが、
どんどんと自分のほうに押し寄せてくる・・・
そんな恐怖に襲われるんだと思う



目に映るものがすべて自分であるならば、
感覚や感受性が豊かで、いろんなことが目に映る人ほど、たくさんの心的側面を持ち、

人の心に鈍感な人ほど、
目に映らないのだから、豊かな内面に乏しいってことになる??















いやいや、それは、どこか、違うよ

「自分」って、結局、「宇宙」なんだから、
すべてを含んで、自分であるってことは、誰にとっても同じなんだ

感受性が鋭い人も自分(=宇宙)の一部だし、鈍い人も自分(=宇宙)の一部。

物理次元で個体に分かれた一存在の顕在意識が、
宇宙の一部に気づいたか、どうか、
その認識を持つか、持たないかの違いがあるだけ。

だからこそ、

この世のネガティブに気づいた個体が、
さらに、自分のダークサイドに悩むなんて、
ちょっとアンフェアっていうか、ナンセンスな気がするんだ

気づかなかった個体の中にも、
それは、確実に、息づいているはずなのだから














ただでさえ、
いろんなことを感じ取る能力は、その個体を消耗させるのに、

そのうえ、
それは、お前が蒔いた、お前の中のものだ、なんて、

誰かに言うってこと自体、宇宙の法則を理解していないよ

もし、あなたが、敏感で繊細な人を目の前にしているのなら、
彼または彼女は、とりもなおさず、あなたの姿であって、その苦悩もあなたのものなんだ














目に映るものはすべて自分

それは真理。

でも、それは他人に対して言うことじゃなく、
あくまで自分に向けてこそ、役に立つことだと思うんだ

結局ね、

「自分」のことを考えていれば、
それはそのまま、「宇宙」のことを考えていることに、なるってこと













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「原人」世代間ギャップ!

2010-06-23 | フォルテネージュ


電車の中での、20代前半くらいの女性二人の会話が聞こえてきちゃったよ













A子 「最近の若い子にはついていけないわぁ

B子 「そうだよね~、思うよ~

A子 「やっぱりさあ、平成生まれの若い子たちって人種が違うんだよね

B子 「そうだね~

A子 「北京原人とジャワ原人ぐらい違うよ

B子 「そっかぁ~ それは大きな違いだねえ。 北京って中国だし、ジャワって・・、どこだっけ・・・?
何たって、漢字とカタカナって、違うよね~

A子 「分かり合えるはずないよね

二人、笑い合う

 

 







ちびまる子ちゃんの、
まる子とたまちゃん、って感じの、キュートな二人だったよ












ジャワは、ジャワ島、インドネシアだよ!って、
教えてあげたかった、クロマニヨン人な里誉なのでした

(って、原人より、進化してるし










 
    

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ビジュアル的に文字を見る

2010-06-21 | フォルテネージュ


ある「詩人」さんが、私に言ってくれたんだ

「里誉って文字は、とくに、形が、里誉さんを表しているね」  って。

詳しく聞いたら、こんな答えが返ってきたよ













  

里っていう字がまず、里誉さんぽい。
まっすぐ立ってる感じ。

そして横からみたら、タイトな感じ。
それに誉の左右の「ハネ」が、里誉の肩のラインと似てるの。

ほとんどシンメトリーなんだけど、誉の上の冠部分が微妙に揺れを
表わしているんだ。

                                  











うわぁ~、なるほど~って思ったよ


確かに、
里っていう文字のシンプルさや
センタリングして立っている感じは、私の憧れの基本姿勢だし、

横から見たときの、物理的薄っぺらさには、自信があるし、

肩は、自分でも、体幹のわりにしっかりしているのを意識しているし、

誉れの上の、冠部分の揺れなんて、
まさに、情報のセンサーをあちこちの方向に伸ばして動かしている、
私そのものだしさ・・・













きゃー、よく見てるなあー 

その繊細でアーティスティックな感性と、
さりげないのに、相当、的確な観察眼に、

驚愕 感動 感激~ なのでごわす














以後、
影響を受けて、

私なりに、ビジュアル的に文字を見るって、ちょっとした試みを続けているんだけど、

うん、やっぱり、発見があるよ














「天使と悪魔」だったら、
悪魔のほうが、経験豊かで、この世の複雑な機微を分かっているみたい とか、

「ふわふわ」って文字は、
ホントに、丸くて、風船みたいで、いかにも、浮いて飛んでいってしまいそう  とか

「方丈記」って、座りが良いながらも、転がる感じが哲学的だなあって、
鴨長明さんって人に、思いを馳せたり とか・・・
















わーお!
おもしろい!














そう言えば、
その昔、つんく♂が、「シャ乱Q」や「モーニング娘。」のネーミングを考えるとき、

カタカナと漢字とアルファベット(記号)を混ぜたかったと言っていたけど、

確かに、文字だけ見てると、
そのインパクトは、大きいなあって、改めて思う













またひとつ、違う感性の扉が開いたみたいで、嬉しいな














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クロゼットは四次元ポケット

2010-06-20 | フォルテネージュ


「あなたの可能性は無限にある。」
「あなたは何にでもなりたいものになれる。」

こういうことは、あちこちで、よ~~~く聞くけどさ、

思想と実践とでは、また違ったモードチェンジが必要な気がする














大学生の頃、知り合って間もない先輩から、
「なんか、今日、元気なくて、里誉らしくないよ!」って言われたことがあってね、

私は、この人から「元気な人」って見られているんだ・・って認識した

何か、決めつけられて、嫌な感じも、あったけど、
そう見えているなら、それが自分らしさなのかも・・とも思った
















社会の中で、
人は、他人のことを、
「この人はこんな人!」って、分析、解釈、定義して、他と識別するようにできているんだ。

「この人は、赤ちゃんみたいに純真な人」
「この人は、いつも笑顔が素敵な人」
「この人は、無邪気で、ひょうきんで、天然な人」
「この人は、冷静に客観的に状況を見定める人」


そのとき、表れている特徴を切り取って、その人をアイデンティファイする。

どこでも、誰でも、やっていること














言っておくけど、悪いことじゃないんだよ。

だって、そのほうが、安心なんだ

目の前でカメレオンのようにコロコロと人格が変わっていったら、
妖怪と 対峙しているみたいで、
いつ、敵となって、襲ってくるかも分からないし、

そうなると、常に戦闘モードを解除できないじゃん!


周囲は、「こういう人」ってラベリングして、
ラベリングされた人も、「自分は今こんな人やってます。」って看板あげて、役割演じて、

そういうのが、社会ってヤツのお決まりだと思うし、
社会性とか人間性とかって言うんだよ、きっと











ただ、もし、

「人は何にでもなれる」を信じるのであれば、

毎日、ちょっとずつでも、
まず、自分に、新鮮なまなざしを、注ぎ続けたいと思うんだ

今は、どんな感じかな?って、
さりげなく、センサーを働かせたいんだ


そして、
選び取ったものが、いつもと同じ「お気に入りの定番服」でもいいし、
かなり、奥から、引っ張り出してきた「お姉ちゃんのお古」でもいいし、
まったく、新品ピカピカが、出てきたら、それはかなりエキサイティング


過去の、特定の状況での、限定された自分を、いつもいつも握りしめて、
そういうふうに、自分じゃない「布キレ」を自分そのものだと、信じて生きることが、

どれだけ、苦痛であることか、
体験してきたんだったら、もうそれは処分しちゃおうよ


大事なのは、
自分の衣装は、どんなときも、自分が選び取って着ているって自覚

そして、もっと大事なのは、
その衣装は、自分の核とは、まったく別モノだって認識することだと思う













そうやって、
「自分は何にでもなれる」大作戦を繰り広げていると、

人は、自分にしていることを、他の人にもすることになるから、

いつも笑顔がステキって感じてるあの人が、

たまたま、今日は笑顔をまとっていなかったとしても、
妖怪七変化していようとも、

「あなたは、笑顔であって欲しい!」って言う代わりに、
「おっ、今日は、またレパートリー、広がっちゃってるじゃん!」って思えてくる

その人の衣(ころも)の美しさを、心から、愛でることになる



おまけに、
よく見てみると、

その可能性の広がり方には、
必ず、その人らしさが表れているっていう、エスプリもあるって言ったら、どう?












 

皆、同じく、無限の可能性を持っているけど、
その無限の方向性は、皆、違っている・・・って、なんてパラドキシカル!














だから、私は、「違和感」を歓迎したいし、
自分に、誰かに、「おっ!」って、発見を、たくさんしたい

そのとき、たとえ、それが、
痛そうだったり、非常識だったり、ジコチューに見えたりしたとしても、

その後の展開を見ると、
ものすごい、劇的な演出だったりするのを、一度、知ってしまうと、

宇宙は完璧って感覚が味わうのが、病みつきになっちまう















そんなわけで、
今のフォルテは、ちょっと、アンニュイモード
ため息なんか、ついちゃっている・・

きっと、この後のお散歩に備えて、
エネルギーチャージしているのさ

ホント、
お散歩直前の彼ときたら、
心臓、大丈夫!?って思うほどの、はじけっぷりなんだよ















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超越はいつもバラ色をもたらすか?

2010-06-17 | フォルテネージュ

 

その男の子はね、
勇敢なおとなになりたかったんだ。

ネイティブアメリカンの子が、ビジョンクエストに出かけるように、

強くたくましい男性になるためには、
ちょっと、冒険が必要だって、知ってたその子は、

何かに挑戦しようと思った

そうすることで、ホンモノの勇者になれるって信じたんだ















だから、それを思いついた

だって、よく、ハリウッド映画なんかで、
主人公のヒーローがやっているし、

きっと、間一髪の連続で、神様が助けてくれて、
無事にやりきることができるって思ったんだ













でもね、
その場所に行ってみるたびに、

ものすごく、こわいんだ

だって、甲羅の硬い、水牛より大きい奴らが、ビュンビュン、突進してくるし、
そいつらったら、鋭く高い鳴き声を立てるし、

何列にもなって
大移動の波が続いているし、

そこに近づくと、心臓がバクバクして、
超えなきゃって思うたびに、からだじゅうに力が入って、おそろしくて、身がすくむんだ












ゼブラ柄の模様のあるゾーンであれば、
一端、そいつらの流れが止まるからさ、

安心して、向こう岸までたどり着けるのは、分かっている

でも、

それじゃ、意味がないんだ

そんなこと、近所のおばさんも、裏のおじいちゃんも、うちのママだって、
平気で、やれている

それができても、勇者のしるしには、ならないんだ















だから、
ゼブラゾーン以外の場所で、
こちらの岸をスタートして、
押し寄せる、鉄のかたまりの流れの合間を縫って、あちら岸までたどり着く

それをしなければ勇者じゃないって、そう思い続けて、何ヶ月もが過ぎていった













絶対に、挑戦しなければならないって思い込んで、
でも、どうしてもできないってことが、続いて、

だから、あるときね、

男の子は、思い切って、パパに相談してみたんだ。

「パパ、国道246号線を、横断歩道じゃないところで、わたりきるには、どうしたらいいの?」

 

 

 

 

 

 

男の子は、自分が考えていたことが、
勇者の印をもらえるどころか、
100%の確率で、命を落とすことになる、愚かで無意味な行為だって教えられた

それを知って、
男の子は、ずっと信じてたことの価値がわらわらと崩れて、
ちょっと放心状態になったけどね、

すぐに、こんなふうに考えた


あぁ、
身もすくむようなあの恐怖は、
そんなことしちゃいけないってことを僕に教えてくれていたんだね

だから、
もう、そんなことに、挑戦しなくてたって、いいんだ・・

ううん、
ホンモノの勇者になるためには、絶対、しちゃいけないことだったんだ










 

 

そして、男の子は、心の底から、安心できたんだ














自分でエッジって決めたこと、超えなきゃいけないって思っていることってさ、

ちゃんと、よく、吟味してみても、いいのかも知れないよ

あなたにとって、
本当に、それを超えることが必要なのか、どうか・・






 

 


恐怖はマインドが作り出す幻想・・・
多くの場合は、そうだけど、

でも、どうしてもぬぐえない恐怖の声が訴えることは、何なのか?

もしかしたら、
ホンモノの危険を示唆していないかどうか?
別の方法で、大志を実現できないのかどうか?

考えてみても、無駄には、ならないと思うんだ













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トラウマのコペルニクス的転回

2010-06-16 | フォルテネージュ


私はね、

昔、してしまったあることに対して、
まったく、罪悪感を抱かなかったことに、罪悪感を抱いていたんだ


だから、自分のことを、とっても冷酷非道な人間だと思っていた。

普通の人は、そんなことをしたら、
後悔したり、苦悩したりするんだろうけど、

私の場合、全然、悪いと思わなくて、
そんな悪魔的な自分が嫌いだったんだ

(具体的に書けなくてごめんね、でも、犯罪じゃないから、念のため。)














それがさ、

実は、罪悪感を抱くべきことどころか、
おおいに祝福すべきできごとだったことが、分かったんだ

私の魂はそれを知っていたから、
だから、罪悪感が湧いてこなかった。

そのできごとは、そうなるべくして、起こったこと。
それが、誰も傷つけないために、最善の選択だったんだっていう見解が、

マジシャンの悟りと閃光とともに、私に訪れた

その瞬間の、私の興奮ったら














こういうのを、
コペルニクス的転回って言うんだね

パラダイムがまるで違う。

動いていると思っていた天に、何とか、ペースを合わせようと、
上ばかり見て、走り回ってきたのが、

実は、地上にしっかり足をつけて、踏みしめて立っているだけで良かった・・・

そんな感覚に包まれた














目の前で、東京タワーが消えるような、すごいイリュージョンを見たようだよ

わーい、おもしろすぎる













これまで、自分の歴史の中で、
かなり、トラウマチックな色彩のあるものだったから、

それが、実は、

自分の本来の価値を示していた神聖な儀式だったなんて、
心から実感してもらえるのは、世の中で、いったい、何人いるだろう












え?

どうしたら、そんなマジックが里誉に起こったのかって?














どんなときも、

真実を見たい、
ものごとの真髄を見たいって、思い続けてきたからかな












 

抽象度の高い、うすぼんやりとしたニュアンスだと思うけど、

そんなミラクルが起こる可能性だけでも、あなたに伝えたかったんだ





何?
トラウマがリソースになることくらい、とっくに、知ってるって?

そうだね・・
確かに、珍しくないことなんだけど、
でも、起こるたびに、その感動は、新鮮であり続けるよね
















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固有名詞の持つスペシャルな感覚

2010-06-15 | フォルテネージュ


高校生のときね、
憧れの演劇部の先輩から、イベントの打ち合わせのために、

「じゃあ、駅前の『檸檬』って喫茶店に夜8時に来て」

って言われて、
ものすごく、ドキドキしたのを、覚えている














何が、ドキドキしたかってさ、
もちろん、憧れの人と夜に外で会うってシチュエーションそのものもそうだけど、
私が、びくんと感じたのは、『檸檬』って言葉を聞いたときなんだ


・・・いや、檸檬でもオレンジでもいいんだけど、


言いたいのは、固有名詞って、一瞬のうちにマジックをかけるってこと

私の心は、
先輩と、特別な場所で会うんだって思いで、ときめき最高潮だった・・













たとえば、あなたの大好きな人が、
「Topsのチョコレートケーキが食べたい!」って言ったら、
あなたは、何としてでも、Topsに行くぞ って、パッションが湧いてくるでしょ?

「ケーキなら、何でもいいよ~」って言われるのとは、
あなたの獲得意欲の温度が、違ってくるじゃない?














思うに、

プライベートな場面で、人との距離を縮める方法として、
固有名詞を登場させるってのは、特別な感覚を呼び起こすんだ

好きな映画の名前、
今、読んでる本の題名、
今日観てきたお芝居のタイトル、
愛用してる香水の名前  ・・・・etc



こういうことを話題にするって、みんな、自然にやっていることだけど、
たとえ、相手が、その内容を知らなかったり、興味がなかったりしても、

あなたが、固有名詞を発したという事実だけは、
強く、相手の心に響くはず

そして、あなたとの距離が以前より近づいたことを、うっすらと意識する


最終的には、
最も大事な固有名詞を、敬称なしで呼び合うようになれば、
隙間のない親密感がしっかりと確立するってこと、

誰でも経験してるよね













反対にね、

人と距離を置きたいときは、一切、固有名詞を使わないこと

「あ、何の本、読んでるの?」って聞かれても、
「小説。」って答えれば、

相手は、きっと、あなたをひとりにしてくれる

ただし、相手があなたにとっても接近したいときは、がっかりさせるかも知れないね













場所の名前でも、モノの名前でも、
固有名詞には、絶対に、命が通っていて、

それを
プライベートな関係の中で使うことで、人は、エネルギーを感じるんだと思う













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ヴィーナスハンドの魔女

2010-06-14 | 紹介(レビュー)

 

ふと思い立って、フルボディのエステを受けたんだ

彼女に予約を入れようと思っていたら、
偶然、(いや必然に) 彼女のほうから、メールが入った



彼女は、

私の友達であり、
お気に入りのエステティシャンでもあり、
独立・起業の先輩でもあり、
美のアドバイザーでもあるんだ













5年近くの付き合いになるけど、
私たち二人の間には、確実なご縁があるって感じている

習いたてのタロットリーディングの結果に、
飛び上がらんばかりに歓喜してくれたのも、彼女が最初だったし、

アストロロジーを学んでいる最中に
グッドタイミングで相談をもちかけてくれたこともあったっけ













私が、彼女のことを大好きなのはね、

まるでスプリンクラーのように、
絶えず、周囲にハッピーをまき散らしていることなんだ

祝福のスポットライトで周りを照らしているって言ってもいいかな


こまめにメールを入れてくれて、
そのやり取りも、いつも、迅速かつ丁寧だし、

自分が納得したコスメアイテムは、ふんだんに、サンプルを届けてくれて、
率直な感想が言えるし、

誕生日には、忘れずにメッセージ&プレゼント


私のサロン開設当時、本当に気遣ってくれて、何人もクライエントさんを紹介してくれたし、
HPや広報について、親身になって相談に乗ってくれた


彼女のブログは、美の情報だけでなく、
政治、エンターテイメント、グルメ、趣味・・など、
おとなな女性にふさわしい、凛とした世界であふれているよ












そして、

自身は、顔立ちも美しく、髪や肌ともに、つやつやな、いい女なんだけど、
中身は、24時間闘える、企業戦士の質を持っているところが、

また、ギャップがあって、おもしろいんだよね


「私は、一介のエステティシャンじゃ終わらないわよ~」って、
瞳の中に炎がメラメラしててさ、

彼女が、矢沢永吉ファンであるのも、納得できるのさ














スピリチュアル大好きな私に対して、
彼女は、マテリアルガール、現実主義なんだ

過去世とか、スピリットとかの話題には半信半疑で、

「そんなことより、私は、女性の顔をいかにリフトアップさせるかに興味ある。」なんて、言ったりする

でも、趣味も志向も違うのに、私たちは、お互い惹かれているんだよね。
不思議だけど・・













そんな彼女に、全身をマッサージ&パックしてもらったんだ。

背中、脚、腕、デコルテ、フェイシャル・・
サロンの最高メニューによる、極上のお姫さま気分を味わっちゃった




驚いたのはね、
彼女、しっかり、私のカラダと会話していたんだ。

「里誉さんの腕が、疲れてるからもっと癒して欲しいって言って、私の手を離してくれない。」
・・・なんて、言われちゃった













それからね、

私の脚をマッサージしながら、
彼女、「ああ~、なんて、私は幸せなんだろう!」って、言ってくれたの

普通、逆だよね。
してもらっている私が、言うんでしょ?

もちろん、
そのハッピーエネルギーが、私のカラダを通じて、私の感情に到達したとき、

私の意識には、至福の小さな天使たちが無数に舞い降りてきたよ

「いやん、私も、超、幸せだよ~~ 」って、自然に湧いてきた














充分、彼女、スピリチュアルなんだよね














別れ際には、二人とも、卵形のハッピーオーラに包まれて、
ハグハグしながら、笑顔でバイバイ

「里誉さんみたいな人には、この仕事してなかったら会えなかった!」って、
何度も、言ってくれるのが、嬉しいんだよね

そして、
翌々日には、最新フットケアアイテムの情報をくれたりするところが、
もう、離れられないよ













エステサロン「ルピナス」は、
東急田園都市線「桜新町駅」徒歩7分、

ヴィーナスハンドを持つカリスマエステティシャンの、隠れ家的プライベートサロンです

エステは、エステティシャンで選ばなきゃね





 






私の肌は、まだまだ、全身スベスベだよん












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元型から美の追求へ

2010-06-13 | ビオダンサ


テレビを見ていたら
某人気者の女子アナが、どこか田舎に旅をして、
野原に咲く花々を見ながら、

「自然のままなのに、こんなに美しいなんて・・」って、言ってたんだ














聞いた私は、「え?」って、違和感を感じた。

「自然のままだからこそ、美しいんでしょ!?」

でもさ、
テレビ業界という、形を重んじる世界にいる人は、
人の手を加えてこその美ってのを、毎日毎日、探求しているんだね・・

それに気づいて、私は、おもしろかったんだ












どっちがいいかなんて、言えないよ。
きっと、どちらも、真実。

ありのまま、素(す)のままが美しいってのも、真理だし、
美を追求し尽くして、それを表現するってのも、真理

私のブログのサブタイトルは、
         ナチュラルに、スタイリッシュに、スピリチュアルに

一見、矛盾したこの言葉の羅列には、ちゃんと意味があったんだって、
自分でも、今、気づいたりして・・














<ありのままでいることが大切>って、本当にあちこちで言われるけどさ、
あなたは、自分のありのままが、どんなか、知っている?

たとえば、私は、昨日、
あることを思い出して笑いこけた後、その笑い声の余韻も消えないうちに、
その裏にある自分の思いに気がついて、涙が出て止まらなくなった

笑いたかったのもありのままだし、
泣きたいのもありのままだけど、

自分の深いホンネに気がつくのに、少し、時間がかかったんだ

そう、
ありのままって言われたって、決して、揺るぎない存在感があるわけじゃなくて、
それはそれは、移ろいやすく、不安定なことってある

どっしり、しっかり、安定したものが、<ありのまま>じゃなくていいんだよ















ある映画の中の話なんだけどね、

演劇を志すある青年がいて、その親友が、交通事故で亡くなった。
その青年は、葬儀に出席しながら、号泣したんだけど、

「その拳の握り方はカッコ良くない。」とか、
「今は、少し抑えめに泣いて、もう少し後に嗚咽して泣くんだ。」とか、

自分の中の演出家の声が渦巻いて、ずっと、自分を見ているんだ・・

それが嫌になって、
その青年は、演劇を辞めた・・













私には、
この青年の苦悩が、とっても良く分かるんだ。

表象の美を追求することは、どこか、偽物とか、真実でないこととか、
世間一般に、そう思われている。

見た目に美しいことと、内容に価値があることは、別の次元だって常識があって、

両方が両立することは、稀ってことにしておかないと、
皆の生活意欲が、そがれるから

美人で頭も良くて性格もいい・・なんて人がごろごろいたら、
自分はそうでないと思っている人は、
生きていく自信を喪失するかも知れないから、そんなことは滅多にないことにしようって、

どこか、国家的な機密機関が情報操作しているみたいにさ。。


本当は、そんな人、結構たくさんいるってこと、
「フォルテネージュ」のクライエントさんやビオダンサ仲間を見ていると、よく思うことだよ

















確かに、
表象を美しく創り込んでいくことって、スピリチュアルではないって偏見が存在する。

じゃあ、人からどう見られるかなんて、まったくおかまいなしにすれば、
必ず、スピリチュアルな真実にたどりつけるの??














たとえばね、
郷ひろみは、オンとオフの使い分けに悩んだ結果、
24時間、オンでいること、つまりスターとしての郷ひろみでいることを選んだんだって

同じことは、たぶん、木村拓哉クンにも言えると思う。

あの人は、相当、「格好良さ」を意識的に創り込んできた結果、
今では、それが素と見分けがつかなくなって、同一化している










 

 

あのね、
<ありのまま>が分からなかったらさ、

自分が美しいと思うように、創り込んでいいと思うんだ


素の自分かどうか考えてる間に、
「型」として、「スタイル」として、自分が心から美しいと思うことを、選び続けて身につけて演じていく。


それを徹底的にやれば、
それがあなたの素(す)になるんだ


自分の素が分からないときってのは、
何でも、自分の素にできるチャンスだと思うよ






 

 

 

演じることは誰かを欺くことではないんだ。

自分を見ている自分がいたって悪くない。
むしろ、そのほうが、いいと思う



その視点で、自分の表象に美をもたらすことで、
自分の中の美の可能性にますますアクセスできる

留意すべきとしたら、
「これじゃなきゃ、美しくない!」って束縛から、解放されること

そうすれば、美の可能性は、無限に拡大、膨張して、
あなたは、その世界以外に、身の置き場がなくなるから















昨日紹介した、ビオダンサの元型のワークショップは、
私に、この<意識的な創意>ってのを、教えてくれたよ
















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世界にひとつだけの元型(アーキタイプ)

2010-06-12 | ビオダンサ

先週末のビオダンサのワークショップは、
「いのちの元型を踊る」ってタイトルだった

ファシリテーターのひとりは、
82歳のマルリーゼ!
ビオダンサ創始者ロランド・トーロに学び、
「この人こそ、ビオダンサそのもの」とも言われるブラジル人女性で、
かつ、ユングの著書の翻訳家でもあるんだ











 

ユング心理学辞典によると、

元型とは、
 「こころの中の遺伝子的に受け継がれた部分であり、本能に結びついたこころの行動を構造化するための型。表象不可能であり、表現形態を通してのみ、明らかになる。」

以下、3ページにわたって説明が続くけど、読んでても、何だかよく分からない・・












たぶん、こういうことだと思うよ。

育児とか、死別とか、人との関係とか、
万人に共通する生活経験を、自分が行動するとき、
「あ、こんな元型が自分の中にあったんだ!」って認識することができるんだ

たとえば、子育てする親は、
「命を守り育てる」って元型とつながって、
そのエネルギーを、行動化して、外に向かって表現する

そのとき、
「元型」という人類に普遍的なエネルギーが、
個人ごとに、完全にオリジナルな自分らしい表れ方をする。

だって、
子を愛おしむ気持ちは親全員に共通するけど、
その表現形態は、実に、無限にあるでしょ?

プラトンのイデア論に共通するよね













さらに、

実際の子育てをしなくても、
ある身体姿勢を取ることで、自分の中の「命を守り育てる」って元型にアクセスすることは可能なんだ。

それが、ビオダンサで言う「元型を踊る」ってこと

どんな身体姿勢かは、
伝統的、文化的集積に基づき,導き出される。
遺跡から出土した偶像や絵画や、その他数々の歴史の遺品が、物語ってくれる。

「命を守り育てる」は、赤ん坊を腕の中に抱くような姿勢だし、
「星となって輝く」は、両手を大きく広げて、大の字になって五方向に身体を伸ばす姿勢














最初ね、
私は、「型」を踊るって聞いて、何か、嫌だったんだ。

画一的に全員が同じ姿勢を取ることに、強制や没個性を感じて、
ビオダンサらしくないって思ってた












 

それに、とても、そんな気持ちになれないとき、
気持ちに反して、何かをしなくてはならないって、つらいよね

自分の心が乱れているときに、
「誰かに何かを与える」っていう元型を表現しようって思えないじゃない?













でもね、分かったよ。

自分の内側の感情が、どんなでも、
いつでも、自分の可能性は、無数にあるんだ

「自分ってダメだ」っていう絶望感に苛まれているときだって、
その人の中には、確実に、
「光を放ち、周囲を照らす」って可能性がある



その可能性につながるためには、ある姿勢を取るという儀式が必要なんだ。

儀式を経て、すぐに表に出てくるかも知れないし、
あるいは、
来るべきときに備えて、ちゃんと力を発揮できるように、存在確認するにとどまるかも知れない

でも、とにかく、儀式は、執り行われる必要がある



どんな時にも、自分の中の可能性をすべて肯定すること、
一時の感情にしがみつかずに、他の無数の可能性を感じること

それが、元型を踊るっていうことなんだ



 

 

 

 

 

 

ある身体姿勢を取ることは、
自分の意志がなければできないことでしょ

圧倒的な感情に対抗するには、意志の力を奮い立たせるしかないんだ

だから、「型」をやるんだよ















私は、それを学んだ。
自分の感情がどうでも、とにかく、型をやってみること。

敢えて、姿勢を取ることで、自分の意志を呼び起こして強化する


すると、
画一的だと思っていた型が、
とても自分らしいオーラを放つんだ

個人個人は、宇宙意志の無数のバリエーションのひとつ

だから、
誰かと一緒なんて、あり得ないんだね












そして、

皆で一緒に歌うことに、一瞬、抵抗があっても、
敢えて、歌ってしまったとき、
皆との計り知れない一体感が生まれるって経験もした

もし、あのとき、

抵抗感があるからって、歌っていなかったら、
それは味わえなかった


感情は、本来、さらさらと流れていくものだから、
「流動促進剤」として、意志の力を利用する

すると、「嫌々ながら無理にする」のではなくて、
「自覚的、意識的に、意志を表現する」って、なるんだ














おまけなんだけどね、

私は、時々、無意識に、
両手を斜め上方にそろえて伸ばして、宇宙の彼方を想像することがあるんだけど、

それは、「無限なるものとつながる」という元型の姿勢だった

私の身体は全部知っているって思ったよ











ただ強くなること、それしかないのさ







                







そうそう、
もうひとりのファシリテーターのアンジェリーナは、
母性とカリスマ性、陽気さと妖気さの両極を備えた、磁力的な女性。

遺跡から出土した土偶のような体型が、宇宙人ぽかったな

               


               
               






自分の可能性を全肯定したい人は、ビオダンサ、やってみない?


 











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無力で無価値のイリュージョン

2010-06-08 | フォルテネージュ


「私は何もできない」っていう、無力感に捕捉されることがある


痛みに耐えている人を目の前にするとき、
もの凄い諍いを見せつけられたとき、
どうしたらこの苦しみから逃れられるか教えて欲しいって懇願されたとき、

私は、凍りついたように、カラダが動かなくて、
言葉も何も出てこなくって、

余計なことを言って墓穴を掘る



裁判所ってところで、何回も経験したのを、思い出したよ.

今まで忘れてたのは、
見たくなくて、封印していたせいかも知れない














無力感は発展すると、
無価値感になるんだ

何も行動できなかった自分には、価値がない。

何かを人にお願いする価値も、
何かを人から受け取る価値も、
何かを人に与える価値も、

自分には備わっていないから、

だから、
求めちゃいけない
愛されない
欲しい物を与えてもらえない

って、思うようになる














そうなると、悪循環の極み。
停滞して、凝固して、よどんで、止まるしかなくなるんだ

命が流れなくなる













だから、こんなの、間違っているんだ
ものすごく、リアルに見える幻想。

その幻想と自分が同一化すると、他の視点があることなんか、思いもつかなくなる。
近視眼的な見方って、こういうことさ














「ひとりひとりが特別」、「みんなが価値がある」ってよく言われるでしょ。

でも、
「特別」って概念をつくると、「特別じゃない」って概念がおのずと立ち現れ、
「価値がある」って概念をつくると、「価値がない」って概念がおのずと立ち現れる。

だからさ、違うんだ

「特別」とか、「価値がある」とかって、
「命」って言葉の派生語だと思えばいいんだよ。

「命」が宿るものは、「特別」で「価値がある」
ただ、命があるだけで、条件は満たされる
















小児脳性まひというハンディキャップを持ったある男の子が、
「僕は、世界一の役立たずになる!」って、言ったんだ。


人の役に立ってなんぼのこの世の中で、
そんなこと、まったく、意に介さずに、

彼自身、人の世話になる一生を送ることを承知で、明るくそう宣言したんだよ



そのメッセージの奥には、
「不足している人なんてこの世にひとりもいない。
だから他人に奉仕するとか考えなくて良い。本当はみんなが充分満たされているんだから。」
って真理がある。

役立たずが、堂々と存在できる世界がホンモノなんだ

彼自身の、
身体レベルでのハンデってのは、魂には、まったくもって無関係、
それどころか、卓越したオリジナリティーとして、息づいているじゃない?














一見して、
どんなに、死にかけたように見えても、
どんなに、か細く、弱々しく、意気消沈したように見えても、

その人の中には、
命を慈しみ、人から受け取り、人に与え、
不要なモノを手放し、意志を強く押し出す、

そんなエネルギーが必ず内在しているから、

表面上は不可視な、人の奥の奥にある、そんな可能性にアクセスするんだ

他人にも、自分にも、同じようにそうする













そんな考え方の集合体が、きっと、この世を変えていく

誰も、人の役に立とうとか思わない、他人にもそれを期待しない世の中になったとき、

命そのものが、奔放に、狂喜乱舞して、
オリジナルな花々が咲き誇る光景がそこかしこに見られるはず










この世に、絶対に不可能なことがあるとすれば、
無価値な人間をたったひとりでも探すことだと思うよ

(このブログの正体は、実は里誉の里誉自身へのエールだって、知ってた?)












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