スピリチュアリティをアカデミックに探求する日本トランスパーソナル学会。
椿は、その会員の皆様にお送りしておりますニュースレターの編集を担当しています。
最新号(Vol.19 No.3)には、ビオダンサのファシリテーター内田佳子さんや、
バラ十字会日本支部長の本庄敦さんにもご寄稿いただきました。
さて、ここでは、その号に掲載しました、私のコラムを転載します。
「買い物依存症の意味」
いきなりのカミングアウトですが、私には、買い物依存症だった過去があります。
まあ、診断を受けたわけではありませんので、正確には「依存傾向」でしょうか。
元々、着道楽で、洋服やアクセサリーなどが大好きなのですが、買いに買いまくっていたそのピーク時は、クレジットカード決済額は1年間で★00万円に達しました。
当時、公務員として働いており、自分で自由になるお金のすべてを買い物に費やしていました。
たとえば、こんな生活です。
お気に入りのファッション雑誌を、発売日の午前零時にコンビニでいち早く入手し、最新アイテムをチェック、欲しいターゲットを決めます。
そして、同日の日中には、仕事の合間を縫って、ショップに電話をしてお取り置きを願い出ます。
ときには、人気アイテムの入荷日、仕事を休み、開店前から並んで、お目当てをゲットしたこともあります。
狙った獲物は必ず手に入れる、物凄い執念で欲望を行動に移していました。
買ったものは、1,2回着て気に入らなくなると、すぐにネットオークションに出して売り、また新しい物を買っていました。
そして、買っても買っても、欲しい物がなくなることは決してなく、満たされない心で、 “Somebody! Help me!”と叫びながら、街やデパートをさまよい続けておりました。
いま、振り返ってみると、私にとってあの時代は、ちょっと視点を変えれば、ある種の成功体験でもありました。
強迫的な精神状態ではあったものの、私の研究心や感性は日々磨かれ、最大限の行動力でもって、思いを現実にしていたわけです。
なんと、素晴らしい自己実現ではありませんか!
そんな、都合の良いリフレーミングもさることながら、今だから分かることなのですが、私はさらに大切な気づきを得ています。
それは、「買い物依存」を「情熱の表現」としてとらえ、「私は情熱的である」と再定義することです。
はい、随分と勝手な言い方なのは承知です(笑)。
そして、これは普遍的客観的な真実ではありません。
「私はいつも情熱的だ」とか、「誰よりも情熱的だ」と言っているのではないのです。
きわめて主観的な意見です。
でも、当時の私を思うとき、「私は情熱的である」とすることで、あの苦しい日々は私の中で腑に落ち、格段に救われた思いがするのです。
すべてはこの気づきさえあればいいと思えるほど、視界が開け、出来事には意味があると実感するのです。
人は誰でも、自分を知りたいもの。「私って○○な人だから~」と、断定して納得したいのです。
だって、自分の中から湧き上がる確信とともに、「私は○○である!」と肯定するとき、胸のすく思いがするではありませんか!
本来、何者でもない私たちは、「私は○○である」と定義することで、逆説的に、自分たちの正体を知っていくのだと思います。
「何者でもないからこそ何にでもなれる」とは、こういうことなのだと感じます。
結局、私の買い物依存の症状は、目に見えない存在からの得も言われぬ導きにより、「美しい音楽を聴くこと」で急速に収まっていきました。
「私は美しいものが大好きだ」ということもまた、その当時、私が自分を宣言して心が安定したひとつの枠組、だったと思います。
そして、美しい音楽を、またもや情熱的に、ダウンロードし、レンタルし、購入していきました。
こちらのほうは、健康的に楽しむことができ、その趣味は今でも続いています。