Riyo(里誉)’s クレヨン

世田谷区桜新町のスピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」です☆

まわって、まわって、まわって、まわ~る~♪

2010-10-06 | ビオダンサ


スーフィーダンスを踊ったんだ
ビオダンサのヴィヴェンシア(エクササイズ)の中で




知ってるかな?



スーフィーは、ひたすら回り続けるイスラムのダンス
もともとは、神に近づくための宗教儀礼だったんだって  
→ http://www.youtube.com/watch?v=L_Cf-ZxDfZA&feature=related


















踊る前に、今,知りたいことを静かに問い、
宇宙からやってくるエネルギーのベルトを、くるくると、腰に巻き付けていくイメージで回り、
自分で、もう終わりだと思うところまで、回ったとき、

質問の答えがもたらされるかも知れないってことだった















私には、めまいの持病があって、
夜中にぐるぐると世界が回り始めて、救急車で搬送されたこともあったりして、
旋回系の動きには、恐怖があるから、

「ま、ゆっくりゆっくり、動いて、お茶を濁そう」なんて、思った

でも、どん欲だから、ちゃっかり、質問を、心の中でつぶやいたよ

                    
                                 「宇宙の彼方には、何があるの?」
















皆が、くるくると回るところ、
私は、超スローモーションで歩くように自転を始めたんだ

「無理はしない、頑張らなくていい、今の自分を大切に・・」

のように、ゆっくり動いているうちに、
自分を大切にしているうちに、

やっぱり、やってみたくなったんだ

独楽のような、あの、回転を

そう感じたとき、もうすでに、私は、急激に加速し始めてたよ















斜め上にあげた左手を見つめていたから、
手はしっかりとした輪郭で静止して見えてて、
その背景が、バターになる寸前の虎みたいに、とろとろとしていた

「私は回り続ける、
 私にはできる、
 こわくない、
 宇宙が守ってくれるから、安心して、信頼して・・」

そんなことを考えながら、どれくらい回ったかなあ
















気がつくと、
私は、咳き込みながら、ひざまずいて、よつんばいで、過呼吸状態になってた

まだ体には回っている感覚があって、目を開けると、ぐるぐるとしてつらかったから、

フロアに、大の字になって、大地に抱きとめてもらったんだ

















だんだん落ち着いてきてね、呼吸も穏やかになってきてさ、

目を開けたらね、
天井は、上空で、しっかり張りついて落ちてこなかったし、

横を見たとき、
壁はしっかり、そこに立って、倒れ込んでこなかった




「ああ、ちゃんと、世界は止まっているよ。
 私は、いつのまにか、挑んでいて、いつのまにか、やり遂げてたんだ」


そう思ったらね、涙がどんどんあふれてきた


そして、さっき、回り終わった直後、私の頭に、
質問の答えがやってきてたことに気がついたんだ



                                       「勇気・・だよ」













もし、あなたが、怖いのなら、
無理に挑戦なんかしようとしなくていいんだよ

今の自分を大切にしていればいい

だって、そうしていれば、次のことをしたくなるもの

その変化を、外から見たとき、「あなたは挑戦してる」って、見えるかも、ということさ

 

 

 

 

                                     




                     スピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」

                           http://www.forteneige.com/

 

 

                                               






光のご褒美(赤城山ビオダンサ)

2010-08-30 | ビオダンサ


踊っているときに太陽が見えることって、
土の香りを嗅ぎながら、虫を間近に観察することって、
風と雲の織りなす空気の変化を感じることって、


こんなに、気持ちよいことだったんだね









自分の中の、女性性と男性性が、踊る仲間を通じて、一緒になった気がした

涼やかな木立で、
直視できる程度に光をゆるめてくれた太陽のもと、

聖なる結婚式が、たくさん同時に行われたんだ












赤城では、
連日、宵の口になると、
雷と夕立に見舞われていたらしいんだけど、

私たちが踊ったその日は、奇跡が起こったよ

満月を少し過ぎた月と、
その近くの木星、別名<拡大の星>が、

美しく、光り輝いて、
結婚式のあとの、宴を、見守っていてくれたんだ

ジャンベ(アフリカンドラム)やシンセの神秘的なサウンドと、
邪馬台国の女帝の呪術的歌声、

龍笛、篳篥(ひちりき)、さんしん、ベリーダンス、そして、ワールドワイドな歌の数々・・

炎で焼いた野菜や発酵させた玄米を食べて、スピリットを呷(あお)りながら、
私たちは、静かに、じんわり、呆(ほお)けていった・・













翌朝は、
沐浴した、裸族の原始人にも会ったし、
草原で、たくさんの蝶に囲まれ、追いかけて、ハイジになったし・・










誰ひとりとして、
個性を否定されない、もっと頑張れと言われない、そのままじゃいけないとけなされない、

そんな私たちのつながりは、

山に祈りを捧げて、自分を明らかにして、
この地で踊ることを地球が歓迎してくれたからこそ、

守られて、しっかりと結ばれたと思うんだ












赤城山ビオダンサ、
たくさんの祝福が、足元から、私たちを強く賢く美しくしてくれたよ













そうそう、

虫さん達とのさまざまな競演も、おもしろかったんだ

ノーベル賞物理学者のファインマンが言った、
「宇宙は、虫を自分に止まらせて、そこを掻くことで、楽しんでいる」ってことが、
実感できたって思っちゃった

大丈夫、
自分が<問題>って思っていることなんて、宇宙の退屈しのぎに過ぎないのさ














              スピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」

                          










元型から美の追求へ

2010-06-13 | ビオダンサ


テレビを見ていたら
某人気者の女子アナが、どこか田舎に旅をして、
野原に咲く花々を見ながら、

「自然のままなのに、こんなに美しいなんて・・」って、言ってたんだ














聞いた私は、「え?」って、違和感を感じた。

「自然のままだからこそ、美しいんでしょ!?」

でもさ、
テレビ業界という、形を重んじる世界にいる人は、
人の手を加えてこその美ってのを、毎日毎日、探求しているんだね・・

それに気づいて、私は、おもしろかったんだ












どっちがいいかなんて、言えないよ。
きっと、どちらも、真実。

ありのまま、素(す)のままが美しいってのも、真理だし、
美を追求し尽くして、それを表現するってのも、真理

私のブログのサブタイトルは、
         ナチュラルに、スタイリッシュに、スピリチュアルに

一見、矛盾したこの言葉の羅列には、ちゃんと意味があったんだって、
自分でも、今、気づいたりして・・














<ありのままでいることが大切>って、本当にあちこちで言われるけどさ、
あなたは、自分のありのままが、どんなか、知っている?

たとえば、私は、昨日、
あることを思い出して笑いこけた後、その笑い声の余韻も消えないうちに、
その裏にある自分の思いに気がついて、涙が出て止まらなくなった

笑いたかったのもありのままだし、
泣きたいのもありのままだけど、

自分の深いホンネに気がつくのに、少し、時間がかかったんだ

そう、
ありのままって言われたって、決して、揺るぎない存在感があるわけじゃなくて、
それはそれは、移ろいやすく、不安定なことってある

どっしり、しっかり、安定したものが、<ありのまま>じゃなくていいんだよ















ある映画の中の話なんだけどね、

演劇を志すある青年がいて、その親友が、交通事故で亡くなった。
その青年は、葬儀に出席しながら、号泣したんだけど、

「その拳の握り方はカッコ良くない。」とか、
「今は、少し抑えめに泣いて、もう少し後に嗚咽して泣くんだ。」とか、

自分の中の演出家の声が渦巻いて、ずっと、自分を見ているんだ・・

それが嫌になって、
その青年は、演劇を辞めた・・













私には、
この青年の苦悩が、とっても良く分かるんだ。

表象の美を追求することは、どこか、偽物とか、真実でないこととか、
世間一般に、そう思われている。

見た目に美しいことと、内容に価値があることは、別の次元だって常識があって、

両方が両立することは、稀ってことにしておかないと、
皆の生活意欲が、そがれるから

美人で頭も良くて性格もいい・・なんて人がごろごろいたら、
自分はそうでないと思っている人は、
生きていく自信を喪失するかも知れないから、そんなことは滅多にないことにしようって、

どこか、国家的な機密機関が情報操作しているみたいにさ。。


本当は、そんな人、結構たくさんいるってこと、
「フォルテネージュ」のクライエントさんやビオダンサ仲間を見ていると、よく思うことだよ

















確かに、
表象を美しく創り込んでいくことって、スピリチュアルではないって偏見が存在する。

じゃあ、人からどう見られるかなんて、まったくおかまいなしにすれば、
必ず、スピリチュアルな真実にたどりつけるの??














たとえばね、
郷ひろみは、オンとオフの使い分けに悩んだ結果、
24時間、オンでいること、つまりスターとしての郷ひろみでいることを選んだんだって

同じことは、たぶん、木村拓哉クンにも言えると思う。

あの人は、相当、「格好良さ」を意識的に創り込んできた結果、
今では、それが素と見分けがつかなくなって、同一化している










 

 

あのね、
<ありのまま>が分からなかったらさ、

自分が美しいと思うように、創り込んでいいと思うんだ


素の自分かどうか考えてる間に、
「型」として、「スタイル」として、自分が心から美しいと思うことを、選び続けて身につけて演じていく。


それを徹底的にやれば、
それがあなたの素(す)になるんだ


自分の素が分からないときってのは、
何でも、自分の素にできるチャンスだと思うよ






 

 

 

演じることは誰かを欺くことではないんだ。

自分を見ている自分がいたって悪くない。
むしろ、そのほうが、いいと思う



その視点で、自分の表象に美をもたらすことで、
自分の中の美の可能性にますますアクセスできる

留意すべきとしたら、
「これじゃなきゃ、美しくない!」って束縛から、解放されること

そうすれば、美の可能性は、無限に拡大、膨張して、
あなたは、その世界以外に、身の置き場がなくなるから















昨日紹介した、ビオダンサの元型のワークショップは、
私に、この<意識的な創意>ってのを、教えてくれたよ
















                      スピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」

                                  
                          










世界にひとつだけの元型(アーキタイプ)

2010-06-12 | ビオダンサ

先週末のビオダンサのワークショップは、
「いのちの元型を踊る」ってタイトルだった

ファシリテーターのひとりは、
82歳のマルリーゼ!
ビオダンサ創始者ロランド・トーロに学び、
「この人こそ、ビオダンサそのもの」とも言われるブラジル人女性で、
かつ、ユングの著書の翻訳家でもあるんだ











 

ユング心理学辞典によると、

元型とは、
 「こころの中の遺伝子的に受け継がれた部分であり、本能に結びついたこころの行動を構造化するための型。表象不可能であり、表現形態を通してのみ、明らかになる。」

以下、3ページにわたって説明が続くけど、読んでても、何だかよく分からない・・












たぶん、こういうことだと思うよ。

育児とか、死別とか、人との関係とか、
万人に共通する生活経験を、自分が行動するとき、
「あ、こんな元型が自分の中にあったんだ!」って認識することができるんだ

たとえば、子育てする親は、
「命を守り育てる」って元型とつながって、
そのエネルギーを、行動化して、外に向かって表現する

そのとき、
「元型」という人類に普遍的なエネルギーが、
個人ごとに、完全にオリジナルな自分らしい表れ方をする。

だって、
子を愛おしむ気持ちは親全員に共通するけど、
その表現形態は、実に、無限にあるでしょ?

プラトンのイデア論に共通するよね













さらに、

実際の子育てをしなくても、
ある身体姿勢を取ることで、自分の中の「命を守り育てる」って元型にアクセスすることは可能なんだ。

それが、ビオダンサで言う「元型を踊る」ってこと

どんな身体姿勢かは、
伝統的、文化的集積に基づき,導き出される。
遺跡から出土した偶像や絵画や、その他数々の歴史の遺品が、物語ってくれる。

「命を守り育てる」は、赤ん坊を腕の中に抱くような姿勢だし、
「星となって輝く」は、両手を大きく広げて、大の字になって五方向に身体を伸ばす姿勢














最初ね、
私は、「型」を踊るって聞いて、何か、嫌だったんだ。

画一的に全員が同じ姿勢を取ることに、強制や没個性を感じて、
ビオダンサらしくないって思ってた












 

それに、とても、そんな気持ちになれないとき、
気持ちに反して、何かをしなくてはならないって、つらいよね

自分の心が乱れているときに、
「誰かに何かを与える」っていう元型を表現しようって思えないじゃない?













でもね、分かったよ。

自分の内側の感情が、どんなでも、
いつでも、自分の可能性は、無数にあるんだ

「自分ってダメだ」っていう絶望感に苛まれているときだって、
その人の中には、確実に、
「光を放ち、周囲を照らす」って可能性がある



その可能性につながるためには、ある姿勢を取るという儀式が必要なんだ。

儀式を経て、すぐに表に出てくるかも知れないし、
あるいは、
来るべきときに備えて、ちゃんと力を発揮できるように、存在確認するにとどまるかも知れない

でも、とにかく、儀式は、執り行われる必要がある



どんな時にも、自分の中の可能性をすべて肯定すること、
一時の感情にしがみつかずに、他の無数の可能性を感じること

それが、元型を踊るっていうことなんだ



 

 

 

 

 

 

ある身体姿勢を取ることは、
自分の意志がなければできないことでしょ

圧倒的な感情に対抗するには、意志の力を奮い立たせるしかないんだ

だから、「型」をやるんだよ















私は、それを学んだ。
自分の感情がどうでも、とにかく、型をやってみること。

敢えて、姿勢を取ることで、自分の意志を呼び起こして強化する


すると、
画一的だと思っていた型が、
とても自分らしいオーラを放つんだ

個人個人は、宇宙意志の無数のバリエーションのひとつ

だから、
誰かと一緒なんて、あり得ないんだね












そして、

皆で一緒に歌うことに、一瞬、抵抗があっても、
敢えて、歌ってしまったとき、
皆との計り知れない一体感が生まれるって経験もした

もし、あのとき、

抵抗感があるからって、歌っていなかったら、
それは味わえなかった


感情は、本来、さらさらと流れていくものだから、
「流動促進剤」として、意志の力を利用する

すると、「嫌々ながら無理にする」のではなくて、
「自覚的、意識的に、意志を表現する」って、なるんだ














おまけなんだけどね、

私は、時々、無意識に、
両手を斜め上方にそろえて伸ばして、宇宙の彼方を想像することがあるんだけど、

それは、「無限なるものとつながる」という元型の姿勢だった

私の身体は全部知っているって思ったよ











ただ強くなること、それしかないのさ







                







そうそう、
もうひとりのファシリテーターのアンジェリーナは、
母性とカリスマ性、陽気さと妖気さの両極を備えた、磁力的な女性。

遺跡から出土した土偶のような体型が、宇宙人ぽかったな

               


               
               






自分の可能性を全肯定したい人は、ビオダンサ、やってみない?


 











            スピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」

                       







舞うように行為すること

2010-05-09 | ビオダンサ

朝、髪を洗っていて思ったんだけど、
これをダンスだと思ってすると、どうなるだろう












見せるためのパフォーマンスとしてのダンスではなくて、

神に捧げるための舞というか、
動きそのものに意味を込めるというか、

祈りにも似た感じで、

しぐさを丁寧にしてみるんだ。

手のひらと頭の接触ってだけじゃなくて、
指、腕、体幹、腰、脚が連動していることに注意を払う











 

微細な感覚だけど、分かるよね?













そしたらね、
いつもの、「髪を洗う」という目的のための行為が、

それ自体、目的そのものになった

あぁ、今、ここってこういうことかも知れないって、少し思ったよ













そうしていると、結果的に、
髪は洗えているんだ。

いつもより、数段、仕上がりがしっとりしちゃったりしてさ・・・













プロセス指向心理学のアーニー&エイミー・ミンデル夫妻が、
大地とつながって動く(ダンスする)のを大切にすることも、

ビオダンサのヴィヴェンシア(エクササイズ)が「今、ここ」を表現していることも、


やっぱり、
舞うことで、今に生きるからなんだ


過去や未来へ、さすらいがちな心を、
今にしっかりとどめるために、踊ることは、近道なんだね













「今、ここ」って何だろうって思っているなら、
ビオダンサは、結構、気づきがあるかもよ













さて、次は、「何」を舞ってみようかな














                         スピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」

                                






永遠のハッピースパイラル!

2010-03-19 | ビオダンサ

昨日の夜、
携帯のメールフォルダを見ていて気づいたんだけど、

受信したメールのタイトル、5件連続して、
「ありがとう」という言葉が含まれていたんだ




           今日はありがとうございます
           ありがとうございます☆
           ありがとうございます☆
           Re:ありがとうございます
           ありがとうがいっぱいです。






何だか、とっても嬉しくなっちゃって、
みんなからのメールを何度も読み返した私






Re:とかもあるし、
なにも、
私が一方的に何かエラそうなことをしたわけじゃなくて、
私のほうこそ、受け取ったものがたくさんあって、


ホント、感謝と感謝の相乗効果みたいな











お風呂に入りながら、
「はぁ~  ハッピーだなあ  私って幸せだなあ~  」って、
にんまりしながら、ひとしきりひとりごと


まるで、音さのように、
私のカラダから、喜びの波動が、360°放射されている感じがした

お風呂場が、どんどん、
ベビーピンク色の空気で満たされていくのを、眺めながら、またうっとり









 

思いっきり、幸福感に浸って、
お風呂から上がったんだけど、

そのとき、
「さあ、この幸せを流そう」って感覚が来た








このハッピーは本当に極上だけど、いつまでも、反芻したりしない。
このハッピーを手放しても、
また、新しいハッピーがやって来るから。

っていうか、
むしろ、手放すことで、新しくやって来るスペースが生まれるんだ


そんな感じがして、
心地よく、気持ちをゼロに戻した










「本当に幸せな人生とは、喜びが長続きするものじゃなくて、
たくさんの喜びが、次から次へとやってくるものなんだ。」

つい先日、ビオダンサで教わったこと







その言葉通り、
私には、おとといも、昨日も、今日も、ハッピーがやってきているよ
もちろん、
イタイこととか、ヤなこととかも、ないわけではないさ。


「こんな嬉しいこと、次、いつ来るか分からない・・」って不安になるけど、
もし、何もなくっても、「無事が何より」だし、
ヤなことあっても、流れると思えば・・ね



感情は流れるのが自然。
じっくり愛でたら、さっとサヨナラして、さあ、安心して、次を待とう







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私の人を想う気持ち

2010-03-15 | ビオダンサ

ある素敵な女性から、
「里誉さんの深く人を想う気持ちに触れさせてもらって癒されました。」
という言葉をいただいて、
ちょっと,驚いちゃったんだ



それって,私が彼女に対して思っていたことと同じだったから。
きっと,引き寄せが働いたんだね











言われて気づいたんだけど,
そっか,私って,人を想う気持ちが深いんだ。

もちろん,ポジティブ,ネガティブ,両方体験するんだけど・・

素敵だと思うと,まず、素直に魅了される
恋愛感情ではないから,相手は男女問わずだよ。











でも、
いいなって思っていることを,そのまま,相手に伝えることは,
あまり,してこなかったかな

誤解されるんじゃないかとか,
何かを強制することになるんじゃないかとか,
非常識なんじゃないかと思う気持ちがあって,

伝えたいのに,伝えてこなかったと思う。

普通の社会生活ではあまりすべきことではないと考えていたかも・・










でもね,
先日のビオダンサのクラスで,
「ビオは,あなたが大好きですって気持ちから始まる。」という言葉を聞いて,
視界が明るくなった気持ちがした。


「あぁ,それでいいんだよね。」って









私はずっとそれをしたかったんだ。
思う存分にね

ただ,
あなたが大好きだって,あなたのこんなところが素敵だって,伝えたい

そして,
伝えた相手に,何も期待しないし,自由も束縛しない。








ずっと抑圧されてた自分が、反乱を起こして、
今,お仕事としてせざるを得ない形になったんだと思うけど,

クライエントさんに対してだけじゃなくて,
普通の生活の中でも,
それをしちゃいけないってことはないんだよね









私の人を想う気持ちの深さは、
私が私らしくいるための条件だ。

そして,自分で落とし前をつけていかなきゃいけないこと。

期待や誤解や社会常識とうまく折り合いをつけて,
自分のやりたいと感じることを、
やり続けていきたいなって思うよ











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光の偉業 

2010-02-20 | ビオダンサ

人は亡くなるときに、
自分がこの世に遺したいものに、
もう一度、息吹きを吹き込むのかも知れないね












ちょうど、
マイケル・ジャクソンが、
”Heal the world ”というメッセージに、輝きを与えて、逝ったように












文字どおり、
自分の命をかけて、
自分の生きた証に、閃光をまとわせるんだ












それとも、
その命が光に返っていくのとシンクロして、
命の分身のほうも、次元上昇するのかな












肉体を去って、まったき光になるとき、
その人は、自由と喜びにあふれた、完璧な存在に戻るから、

時空を超えて、
その人が過去に創ったものにも光が届いて、
本質がより純化されてパワフルになって、

多くの人の心にダイレクトに響くようになるんじゃないかな












ユトリロやカフカのように、
亡くなった後に絶賛されるということが起こるのも、
彼らが最後の思いを込めて、ものすごい魅力の粉を降らせるからかも知れないね


文化や世相のニューウェーブまでも起こすような魔法をかけることだって、
あるのかも知れないなと思う












3日前、ビオダンサの創始者ロランド・トーロ氏が亡くなった。
90歳近い、大往生だったとのこと。












1960年代、クーデターと劣悪な経済状況で、混迷の中にあった南米チリ。
その荒廃した環境のなか、
医学、人類学、心理学、生物学を研究し、
何よりもまず命を大切にすることを中心にした教育理論を打ち立て、
その伝達のツールとして、
ビオダンサという教育システムを創った人。












いつも、「Unity!Unity!Unity!」と言い続けていて、
情熱と愛から構成されているような、
そんなおじいちゃまだったらしい

命あるものすべてを慈しみ、
今、食べた物に向けて、即興で愛の詩を語るんだって

あるビオダンセーロは、
彼について、「その功績は、ノーベル平和賞を3,4個もらってもおかしくない」と熱弁をふるってたよ










私は、
彼に会ったことはないけれど、
亡くなる直前のタイミングでビオダンサに出会い、
これこそ、人間に必要なものだと思うほどの感激をもらい、

たくさんの、素敵な人々と出会った

それが、
ロランド・マジックだと思うし、
彼の逝去を仲間と共に悼むことの貴重さを直感してる。













彼が生涯をかけて世界中に広めたビオダンサは、
これで、ますます、輝きを増した

これから、私は、
その真髄を知っていくことがますます楽しみなんだ

あぁ、そうか!
ビオダンサで言う、「今、ここに、精一杯生きる(ヴィヴェンシア)」って、
死を見据えることが前提なのだと、
ロランドが教えてくれているのかも知れないな









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ビオダンサにアクセス

2010-02-08 | ビオダンサ

またもや、運命的に出逢ってしまった。。
                  「ビオダンサ(Biodanza)」 
スペイン語で「生命のダンス」という意味。

1960年代、南米チリで、医療人類学者ロランド・トーロ・アラネーダによって生み出されたダンスエクササイズです
















運動に縁のない私だけど、
やっぱり、カラダを動かしたくて、
これまで、
ヨガやピラティスをしてみたり、JOBAをしてみたり、
フラを習おうかとか思ったりしたけれど、
でも、
これに出逢うのを待っていたんだと思うほど、
強烈なインパクトを持って、飛び込んできた













振り付けはなく、
インストラクターの指導のもとで、テーマに沿って自分自身のダンスを踊る。

音楽に合わせて自由に体を動かすことは、
まさに、
今、ここ、を生きることそのもの

コミュニケーションのレベルは、
自分一人で、
ペアになって、
グループで、
全員で と、さまざまあるところが、
ホント、現実生活の縮図的要素を強めている














踊っていると、
生きている実感や、未来を創造する力、自分や他の人への愛おしさといったエネルギーが、
自然と湧き上がってくる












自分の意志で、
自分らしく、
カラダで表現する・・・・
気がつくと、
頭の中の声が止まって、
純白になっている自分がいて、
まさに、動的瞑想の体験と分かる













日常が優しくても、トゲトゲしていても、超ハッピーでも、落ち込んでいても、葛藤していても、
全部、OKを出してあげられる空間があって、
それを、
自分一人じゃなくて、
皆と一緒の中ですることに意味があるのだと思う。

人が勇気をもらうのは、人によってという場合が、圧倒的に多い。
人とつながっているという感覚は、
私にとっては、何物にも代えがたく、
そのときのために、
孤独を味わう時間も必要なのだと感じる













それに、
笑いたかったら笑って踊っていいし、
泣きたかったら泣いて踊っていいし、
シンとした心ならそれはそれでいいし、
参加したくなかったら、休んでていいなんて、
そんなダンス、
他にないでしょ

             









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