離人症性障害っていう疾病があるんだけど、聞いたことある?
普通の人でも、一時的にならば珍しくない感覚で、
私も、寝起きとか,鏡をずっと見続けたときなんか、感じることあるけど、
症状としては、
●自分が自分であるという感覚がせず、他人のように感じる
●自分の行動や身体を傍観者のように眺め、周囲の環境に現実味が感じられない
●その感覚は外界のせいではなく,自分の中で起こっているとの自覚がある
他にも,喜怒哀楽や感動がなくなり,
本人が不適応感を抱くと、うつやパニック症状などを引き起こし,自殺するケースもある・・・、そんな神経症なんだ
でも、ちょっと、待って
この症状自体は、「空(くう)の意識」とか、悟りの境地にも、当てはまることなんじゃない
自分という人格から離れて、観察自我である立ち位置に戻る、
そこは、なんの感激もないし、「自分は人間である」という意識から離れるわけだから、
「空の意識」は離人的だよね
ただ、本人が、苦痛を訴えると、「離人症」になって、
静かに受け容れると、「悟り」になるのかも知れないね
物理にまったく疎い私は、
この前初めて、
電磁波っていうのは、電波、紫外線、可視光線、赤外線、X線、ガンマ線など、波長の違いで呼び分けられていて、
しかも、すべてが、光の速度で走る
ってことを、知ったんだ
その中では,可視光線が唯一人間の目に見えるものであり、
光は,植物をはじめ、生命体に大きな恩恵を与えてくれてる
赤外線なんて、お米やお魚が美味しくなりそうだし、
電波は私たちの生活に欠かせないもので、
X線はレントゲン写真で役に立っている
一見、害悪みたいな紫外線にだって、殺菌消毒作用とかビタミンDの生成促進とか、有効な効果があるんだって
それなのに、それらがまとまったものである「電磁波」って言葉には、
どうして、悪役チックなイメージがつきまとうのかしら・・・?
さて、こうなってくると、
何が健全で何が病理なのか、
何が良いことで、何が悪いことなのか、分からなくなってくる
感情でさえ、
喜びに絶対の価値があり、
悲しみの存在意義は、喜びの価値を高めるという、奉仕的な意味だけだろうかって疑問に思う
たとえば、
今回の大地震で、多くの命が失われたことに対して感じる「悲しみ」は、人間なら誰でも抱く自然な感情であって、
そこから、人とのつながりを目指して尊いものが生まれてくるのも、また確かなんだ
人間の死は悼むべきものとの常識を変えたら悲しみは生まれないかも知れないけど,
そうやってネガティブな感情を見つけるたびに,
それらひとつひとつを避けていったとして,
そしたら,どうなるのだろう?
理想の人生が送れるのかなあ?
私が心に思うのは、
何かをほめて、何かをけなすことに、あまり発展的な意味はなさそうだいということ
だから、
一元論が神聖な素晴らしきものであり,二元論が俗悪で脱出しなければならないことでもないと思うんだ
そうなんです。
「女性に暴力を振るうことに喜びを感じる人がいる」って書いたのですが、
そのあとで、私自身がそういう喜びは「悪」だと思っていることに気づきました。。
犯罪になって悪になる場合もあるし、
状況次第で、それもまたありになる・・
ひとつ縛りが解けました
と不安になり
検索してたら
こちらにヒットしました。
なんかね
救われましたよ、お言葉に。
ありがとうございました。
何年も前に書いたもので、
自分でも何書いたか忘れてたくらいでした。
伝えて下さってありがとうございます。
こちらも救われました(*^-^*)
私は、10代後半のころ、哲学者のニーチェにはまった結果、離人症になりました。
ニーチェの「すべては解釈である」とは、仏教で言う「色即是空」なんですね。
で、あなた様の言う
>>
●自分が自分であるという感覚がせず、他人のように感じる
●自分の行動や身体を傍観者のように眺め、周囲の環境に現実味が感じられない
●その感覚は外界のせいではなく,自分の中で起こっているとの自覚がある
>>
が、リアルに私の身にも起こってしまい、そこから脱出するのに、3年くらいかかりました。
で、今から考えると、
>>
本人が、苦痛を訴えると、「離人症」になって、
静かに受け容れると、「悟り」になるのかも知れないね
>>
本当に、そうだと思います。
今は50過ぎて、それこそ「衆生にまみれて」しまいましたが(苦笑
悟りの3年間の後、戻ってこられたとのこと。
景色は違って見えたでしょうか。。
「衆生にまみれる」、それがしたくて憧れて、私達地球人やってるって時々思います^^
ショーウィンドウの外にいる自分が
確かにいる。という感覚があって。
他の人に話しても
ただの、承認と
夢見る夢子ちゃん扱い
還ってこれるようになるよ。と
適当な回答を貰うも
改善策がないまま
生きてきました。
でも、ひょんなことから「離人症」という言葉をきき
しらべたら、どんぴしゃでした。
なんか、やっと自分のやるべきことに
精進できそうで。
一時期、俗世を捨てたかったので
悟りにも似た感覚でいたことがあり
でも、あれは自分のただの思い込みだったのか。なんだったのか。
あなたの記事で
少しだけ救われたような気がします。
ありがとうございます
ありがとう。
お釈迦様の手足となって働く存在を、
菩薩と言うのだそうです。
今回伝えてくださったことで、
私が少しだけ救われました。
こちらこそ、ありがとうございます。