五日が過ぎました・・・ ~恥ずべき人々へ

2011-03-17 02:03:00 | 独り言&拾いもの


 3月11日、夜勤を終え帰宅したのが13時過ぎ・・・そのときニワトリさんはロフトタイプのベッドで寝ていたのですが、「ぐらっぐらっ」と横揺れを感じて眼が覚めました。つい最近も地震があったせいか、「また地震か・・・ま、そのうち収まるだろう」と、たかをくくってそのまま横になっていたのですが、揺れはなかなか収まらず、「ごごっ」という音と共に先ほどの倍以上の大きな横揺れとなり、さすがのニワトリさんもガバっと半身起き上がりました。
 心臓が早鐘のように鳴り始めています。揺れが大きくなった瞬間、足元にいたネコが鉄砲玉の勢いでベッドと壁の隙間に潜りこみました。
 ベッドは船のように「ゆさゆさ」揺れ、天井まで作りつけになっている本棚から本やDVD&CDが、手前にせり出してきてはボロボロと棚から落ちていきます。「うちは震度7に耐えられる耐震設計だし、一階の天井の梁は通常の倍も入っている。絶対大丈夫だ、落ち着け」と自分に言い聞かせるのですが、揺れはいよいよ強くなるばかり。ありとあらゆる神様に祈りました。
 揺れが収まると、1Fのリビングに降りてテレビをつけました。震源地は三陸沖で宮城県では震度7を記録したことに続いて、津波が来るので直ちに避難するよう繰り返し伝えています。到達時刻は15時。あと10分しかありません。ニワトリさんはテレビに釘付けになってしまったのですが、ふと窓から外を見ると、近所の人々が次々通りに出てきて、お互いの無事を確認しながら先ほどの地震について「怖かったね~」と語っています。自分も出ようかと思ったとき、巨大な津波が押し寄せて来ました。「これは大変なことになったぞ!」

 津波に襲われる町の映像は、現実のものとは思えなかったのですが、足が震えました。貿易センタービルが倒壊した「9.11」事件を目の当たりにしたときと同じくらいのショックを覚えました。
 (共にテレビを通してだけれど)リアルタイムに目撃してしまうなんて・・・しばし茫然自失の状態だったのですが、「こうしてはいられない」と我に帰ると、服を着替え父に置手紙を残してグループホームと事業所に向かいました。殆どのスタッフが利用者さんたちとバス+乗用車2台に乗りこんでスキーに行っていたからです。グループホームからも5人が参加していて、自分は今朝ほど「楽しんできてね~」と彼らを送り出したばかりです。グループホームは何の変わりもありませんでした。
 鉄道が全て止まり、高速道路も通行止めになりました。電話も殆ど繋がりません。そんな中、特別支援学校に通う利用者たちを自宅に送り届け、予定時刻に解散場所までお迎えに来るであろう家族のため現場に待機し、一段落すると事務所で仮眠を取りつつバスを待ちました。全員が無事帰宅し、自分も自宅に戻ったのは翌12日の朝2時でした。

 ここまでは普通の話です。土曜日、バスに長時間乗っていたスタッフに代わって自分が支援についたのですが、眼の不自由な利用者さんと買い物に行き、その方が好きなカップ麺と缶詰が売り切れていたときに異変に気づくべきでした。その日の帰りにはバイクのガソリンを入れたのですが、そのときも「ずいぶん混んでいるな」と思っただけでした。そのスタンドは他のスタンドよりかなり安くていつも混んでいたから、それ以上考えが及びませんでした。
 そして月曜日・・・夜勤に入った自分は、スーパーやドラッグストアから食パン、牛乳、米、納豆、豆腐といった常備食品やレトルト食品、電池、トイレットペーパー、ガスボンベなどが棚から姿を消したことを知りました。ガソリンスタンドにも長蛇の列が出来ていましたが、たちまち完売して閉店。これはいったい・・・!

 外国人は「これだけの災害が起きたのに、どうして日本人は落ち着いていられるのだろう」と感心しているそうですが、特定の品物や食料品を買い占めに行った人々や、在庫がなくなってから、ガソリンスタンドやドラッグストアの前で長い列を作った人々を目撃して、なんて浅はかで身勝手なんだ、と腹を立てていました。放射能が東京に降ってくる、と慌てふためいた人々にも!
 ちなみに、私が所属している知的しょうがい者のグループホームでは、トイレットペーパーをかなり使います。停電に備えて懐中電灯用の電池も充分確保しておきたいし、送迎用のガソリンも切らすわけにいきません。でも、それらを手に入れるために、四方八方捜し回って体力を消耗させるような間抜けなことだけはやめよう、とスタッフ間で話し合いました。最悪でも、来週になれば手に入るだろうし・・・無ければ無いで考えればいい。そして今日までに、トイレットペーパー16個、単一電池6個、ガスボンベ1本を並ぶことなくノータイムで手に入れることができ、運良くガソリンも補給できました。

 余震も多く、直下型地震にも怯える毎日です。計画停電が起きたときの準備だけでも疲労します。放射性物質が降ってくるかもしれない不安もあります。作業所や学校の時短により勤務時間はさらに長くなりました。でも、ここ東京は被災地ではありません。誰も死んでいないし(正確には何人か亡くなっていますが)、自宅が無くなったわけじゃない。多少の不便があっても交通機関は動いているし、電気やガスも食料も確保している。あせる必要はどこにもない筈。
 被災地の悲惨な現状を考えてください。被災地に物資を送るために復旧作業に従事している人々のことを考えてください。原子炉廃棄を惜しんで海水注入を早く決断できなかったためにこれほどの大惨事になったのだと東電を非難するのもいいけれど、現実問題として被爆しながら事態を好転させようと懸命に働いている原子力発電所の作業員のことを考えてください。そして政府は、誰かが現地に入って陣頭指揮してください。自分が首相だったら、福島に行きます。そこで倒れても構いません。首相の代わりなんて幾らでもいるからです。でも被災者はもちろん、救助にあたる自治体の人々や原発の作業員そして自衛隊員は断じて消耗品ではありません。

 今日の東京地方は、強風が吹き荒れました。現地でも風が強く吹いて、放射性物質が拡散しながら遠くへ遠くへ運ばれてくれたでしょうか? 発電所の半径30キロ以内で身動きできない人のために、そうなってくれたことを祈ります。
 昨日でしたか、関東でも放射性物質が確認されて大騒ぎになりましたが、乱暴な言い方をすれば、地元に降るより東京に降ってしかるべきです。昔から原子力発電には反対の立場ですが、原子力発電所の電気を使っているのは東京に住んでいる我々なのだから、多少の危険にさらされたところで文句は言えない筈。原子力から作られた電気は使うけれど原子力から生じる危険は一切お断りというのは、最も恥ずべき態度でしょう。

 最後に、最低限の物資も届かず生命の危機にさらされている被災地の人々のことを考えてください。それこそ、原爆投下直後の広島&長崎や大空襲で焼け野原となった東京と同じ姿となってしまった町のことを考えてください。テレビ画面には決して映らないけれど、おびただしい数の犠牲者がそこらじゅうに横たわっていることを想像してください。どうか、被災地の人々が明日を迎えられますように・・・。