青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

すばらしき映画音楽たち

2021-01-25 | 青春・名画劇場
僕は洋楽・洋画が中学生の時から大好きでしたが、元々はロックより映画音楽が好きでした。70年代は、町のレコード屋にも「映画音楽」のコーナーがありました。
 
映画音楽にもいろいろなジャンルがありますが、西部劇特集やアラン・ドロン特集の2枚組LPは、当時特に人気がありました。しかし、ある時気が付いたのです。映画で流れていたのと同じ曲でも、アレンジが違う曲と映画と全く同じ曲があることに。同じものは、「オリジナル・サウンド・トラック」と書かれていました。
 
サウンド・トラック・・・そもそも映画のフィルムは、映像だけではなく、フィルムの隅に音楽やセリフ等の「音」を録音する部分があり、そこをサウンド・トラックと呼びます。そこに使われている=映画で使われているのと同じ=サントラ盤だと学び、それからはサントラばかりを買いました。
 
2枚組の名作映画の曲ばかりを集めたレコードは、選曲も良く値段も安かったけれど、サントラとは違い、どこかのオーケストラが録音したものが多かった。ところが、オリジナルよりも、そっちの方が出来が良い場合も時にはあって、いろんなものを聴くのが楽しかった。
 
映画に、もしセリフと音だけ・・・つまり僕らが日常で耳にする音しか入っていなかったら、全然違うものになる。そこに音楽が入るから、とんでもない代物になるのです。
 
80年代にウォークマンを初めて友達に借りて、それを付けて音楽を聴きながら自転車に乗った時、まるで自分が映画の主人公になったような気分がしました。
 
 
そんな映画に不可欠な音楽が、どんな効果を上げているのか、どうやって作られるのか、そういうことを教えてくれるドキュメンタリーがこの作品です。
 
映画や映画音楽に詳しい人には入門的な内容かも知れませんが、それでもジョン・ウイリアムスが音楽を作り上げて行く過程や、アビィロードスタジオで録音する光景を見るだけでも楽しく価値があると思います。
 
映画音楽について、それほど知識の無い方には、本当に発見の多いドキュメンタリーです。お薦めします。
 

ミル・マスカラスの華麗なる世界!

2021-01-24 | スポーツの話題

今日は仮面貴族を懐かしんでみたいと思います。プロレスに興味の無い人でも、昭和生まれの方なら知っていると思います。千の顔を持つ男・仮面貴族ミル・マスカラスを。

毎年夏休みに来日し、全国の子供ファンを喜ばせたマスカラス・・・。1971年2月19日に初来日。記念すべき初戦を星野勘太郎相手に見事な内容で飾ったミル・マスカラスは、それまでの「正体不明の覆面レスラーは悪役」という定説を打ち破りスーパースターへの階段を上り始めます。

マスカラスは猪木・馬場の所持するインタータッグに挑戦。猪木とのシングルマッチも名勝負となり人気は沸騰し、華麗なる空中殺法と正攻法のファイト、毎試合マスクを変えて登場する「千の顔を持つ男」は、来日の度に人気が上昇してスーパーヒーローとなり仮面貴族と呼ばれるようになりました。新日本プロレスの初代タイガーマスクのような存在だったと思って頂ければ結構です。それまで背広組だけだった試合会場に、子供の姿を見かけるようになりました。

当時のプロレス専門誌「ゴング」が、「ミュージック・ライフ」がクイーンを追いかけ売り出したように、マスカラスを来日前から何年にも渡り追い続け売り出した為、「まだ見ぬ強豪」としてマスカラスは日本のファンに定着しました。そして日本プロレスが「ファンの見たいレスラーを来日させる」という企画を募り、猪木と馬場の2枚看板で黄金時代を築いていた日本プロレスに、マスカラスが初来日することになりました。

そして「ゴング」が、日本でのマスカラスの人気が定着した時に、満を持して発売したのが、僕が秘蔵しているマニア泥酔の1冊、昭和48年1月発売のゴングの増刊号「ミル・マスカラスの華麗なる世界」です。特定のレスラーを1冊丸ごと特集したのはこれが初めてでした。日本のファンが知らない本国メキシコでのスーパースターぶりや、マスカラス本人の全面協力を得たこの本は充実した内容で、あっという間に完売。この後数年に渡って「譲って下さい」のコーナーに入手を求めるファンが投稿を続けていたものです。

この本の大成功により3年後に出したゴング増刊号の「燃える闘魂 アントニオ猪木」と共に、この本はゴング誌の最高傑作と言われています。

来日の度に人気が上がっていくマスカラスでしたが、1977年には更に人気が急上昇します。入場テーマ曲として「スカイ・ハイ」が採用され、プロレスの枠を超える勢いになったのです。もともとは映画「The Man From Hong Kong」(1975年、香港・オーストラリア合作、主演:ジミー・ウォング)の主題歌の映画音楽として作曲された、イギリスのロックバンド、「ジグソー」の「スカイ・ハイ」でしたが、映画もこけ、サントラも売れていませんでした。ところが、ミル・マスカラスの入場テーマ曲に使用されたことで、大ヒットを記録しました。関西の深夜放送「ヤング・リクエスト」では何週間にも渡り1位に居座り、シングル・レコードのジャケットは、映画の写真からマスカラスの写真に変わりました。レスラー、ボクサー、格闘家の入場時にテーマ曲が流される現在のスタイルが定着したのは、彼が最初だったと言っても、過言ではありません。

マスカラスは入場の際、覆面を2枚被っており、オーバーマスクをリング・インと同時に客席に投げ入れた為、その争奪戦は凄まじいものがあり、本物の覆面を手に入れるのはファンの夢でした。TV放送していた日本テレビも、マスカラスのマスクのプレゼントを行い、ファンはこぞってハガキで応募しましたが、当選者の発表は発送をもって・・・で、誰が当たっているのやら、宝クジのようなものでした。しかし3年前、僕の友人が意外な情報をくれました。当時そのプロレス放送のアナウンサーだった○光アナウンサーの子供が、僕の友人の友達で、「彼の家には何枚もマスカラスのマスクがあり、お父さんが持って帰ってくれる」と、自慢していたと!(当時は現在のように覆面は市販されていません。)これが何を意味するのかは、ご想像にお任せしますが、中傷や暴露ではなく、TV局なんてそういうものなんです。(納得いかない方は、クイズ$ミリオネアマスターズのプレゼントの記事参照のこと。)

覆面レスラーは悪役という定説を覆し、華麗なる空中殺法という新しいファイトスタイルを生み出し、ドロップキック17連発の伝説を作ったマスカラス。猪木とのシングルの他にもJ・鶴田との試合やデストロイヤーとの覆面世界一決定戦を通じて、ヒーローとしての姿勢を貫き、ファンを満足させる試合を提供してくれました。

華麗なるコスチューム、試合内容、見事にビルドアップされた身体は忘れられませんが、今でも現役で相変わらず見事な身体を維持しているのには、ただただ驚くばかりです。


「バンド・オン・ザ・ラン」~音楽は1人で聴くものじゃない!

2021-01-23 | 青春の音盤

中学校に入ると共に、音盤を集め始めた僕。紆余曲折があるものの、今日に至るまで洋楽を聴き続けることになるとは、この当時はまだ夢にも思いませんでした。当時洋楽に対する知識は、ビートルズや家で家族が買って来たレコードについてのみ。今のように名盤100というような本もない時代。情報は友人からの話題の中にしかありませんでした。その中でも特に貴重な情報は、やはり年上のお兄さんお姉さんからの情報。つまり友人の兄・姉からの情報が貴重でした。

友達の家に遊びに行くと、その友人は音楽に興味がなくても、部屋に洋楽のLPが置かれてある。僕の子供時代の友人には、お兄さんがいる家が多く、兄弟には1つの部屋というのが普通だったので、友人のものではなく、そのお兄さんのお宝が目に入るのです!見つけるたびに誰のLPとも知らず、ジャケットが気に入れば聴かせてもらったものです。

今思い出しても、僕の1番仲の良かった友人Wは、音楽には全く興味が無い男でした。ところが彼のお兄さんが、後にバンドを組むほどの洋楽好き。友人達との付き合いも多く、レコードの貸し借りをしているようで、いつも行くたびに、いろんなレコードを聴かせてくれました。

「ビートルズが好きやったよな。解散の後のソロは聴いてる?」と、ある日質問されました。ビートルズ関連の購入は母の妹の担当でしたが、中でもポール・マッカートニーが好きな彼女は、「ポール・マッカートニー」「ラム」「ワイルド・ライフ」とポールに付き合ったものの、その後結婚して我が家から出たため、僕はそれ以降を聴いていませんでした。

「 ポールの“バンド・オン・ザ・ラン”ってアルバム、凄く売れたみたいだから、買う気ない? 俺も聴きたいけれど、そっちに手が回らなくてさ。もし良かったら、買って聴かせてよ。」と、先方は何気なく言ったのでしょうが、僕に取っては捨て置けない一言。何しろいつもいろんなレコードを聴かせてもらい、時にはカセットに録音までしてもらっているのです。たまには「御返し」をしないと失礼です。

それで、次のお買い上げはポール・マッカートニー&ウイングスのアルバム「バンド・ン・ザ・ラン」(Band on the Run)となりました。これはビートルズ解散後、ジョージやリンゴ、レノンの後塵を拝していたポールが、全英・全米とも1位という見事な商業的成功を収めたアルバムです。「バンド・オン・ザ・ラン」( Band on the Run )、「ジェット」(Jet)、「ブルーバード」(Bluebird)のA面3曲は、ものすごくインパクトがありました。

それよりもインパクトがあったのが、ジャケットです。僕は洋画マニアのスタートを既に切っていましたが、そこにポールと一緒に写っていたのは、「荒野の七人」にも出ていたジェームズ・コバーン。(左)「ドラキュラ」俳優で、2000年代に入ってからもスター・ウォーズではドゥークー伯爵を、「ロード・オブ・ザ・リング」ではサルマンを演じていたクリストファー・リー(右)でした。

アルバムに収録された曲をモチーフにしたアルバム・ジャケットはとてもカッコよく、やっぱり洋楽はカセットを集めるんじゃなく、アルバムを持ってないと・・・と、思わずアルバム・ジャケットの芸術性に目覚めてしまいました。(笑)

音楽情報は同い年の友達からは、まだこの時期にはほとんど入りません。年上のお兄さんたちとの付き合いを通して、ちょっと背伸びをする。そんなこと教えてくれたのも洋楽でした。

今の若者の多くは、自宅でもステレオではなく、PCやYouTube、iPodやiPhoneのイヤフォンから、音楽を聴いている人が多いと聞きます。僕はこのウォークマンから始まった音楽の1人聴きが、世界中の音楽産業を駄目にしたと考えています。音楽はそもそも一人ではなく、家族や友人など誰かと一緒に聴くものだと僕は思います。だから何年も経った後でも、その音楽と共にいろんな思い出が頭に浮かんでくるのです。それを聴いた時の部屋の情景や、時には匂いや温度まで思い出します。

ダウンロードやストリーミングでは人を介しません。音楽を通じて友達を増やすというようなことも出来ません。価値観の共有が何も出来ないのです。皆さんのご家庭では音楽を聴く環境は、どのようになっていますか?子供にピアノやバイオリンを習わせていなくても構いませんが、人と一緒に音楽を聴くという環境を、子供ができるだけ若いうちに整えてあげることは、とても大切で素敵なことだと僕は信じています。


ナタリー・ドロンさん死去

2021-01-22 | 青春・名画劇場
フランスの女優で、かつてアラン・ドロンの元妻だったこともある「世界一の美女」の一人とも呼ばれたナタリー・ドロンさんが21日、がんのため死去した。79歳。合掌。
 
元夫の伝説的俳優アラン・ドロン(85)との間の息子で、自身も俳優のアントニーさんは、「母はけさ(21日朝)11時、家族と友人にみとられパリで亡くなった」と語った。ナタリーさんはがんを患っていたという。
 
ナタリーさんが国際的に一躍有名になったのは、ドロンと共演した1967年の作品「サムライ」。また、女優ロミー・シュナイダーと長く交際していたアランさんを誘惑した女性としてメディアをにぎわせた。1964年8月、秘密裏に結婚したナタリーさんとドロンは米ロサンゼルスへ移ったが、他の女性とのうわさが絶えない夫とのハリウッド生活にうんざりしたというナタリーさんは、息子を連れて家を出た。夫妻は後に離婚している。
 
 
この頃出演した「個人教授」が、ナタリーの当たり役となり、日本でもヒットして、続編も作られ、主題曲のレコードも大ヒットしました。僕は今も持っています。ナタリー綺麗でした。
 
ドロンは後、女優のミレーユ・ダルクと籍を入れずにパートナーとしていた。また、ドロンと言えば、オードリー・ヘプバーンとも交際がありましたが、それが分かったのはドロンがオードリーの葬儀に参列した時。マフィアとの関係も取沙汰され謎の多い男でした。

「サスペリア~スナッフ」~ホラー映画が変わった!

2021-01-21 | 青春・名画劇場

70年代、大作ホラーとB級ホラーが続々と封切られました。「決して1人では見ないで下さい」というTVのCMのコピーが大当たりした「サスペリア」。このサスペリアは本当に恐かった記憶があり、公開当時劇場で観て以来、僕はDVD化されても1度も観ていません。ジョージ・A・ロメロ監督も「ゾンビ」で、自身が作った元祖の「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を遂にカラーでリメイクして、メジャーデビューを果たしました。また「マニトウ」のように、SFとホラーをミックスしたものも登場。その流れでは後に「スペースバンパイア」なんていう作品もありました。トビー・フーパー監督に大作を撮らせたら、とんでもなく面白くなかった!



70年代のこのようなアイデア勝負の競争の中、もう1つのジャンルが登場したことも見逃せません。ドキュメンタリー、残酷描写の実写というものです。「グレート・ハンティング」は14歳(?)未満は保護者同伴!と指定して、「ライオンが人間を喰い、人間が人間を狩る!あまりの衝撃に世界中が身震いした恐るべきドキュメント!」と謳い上げました。ライオンが人間を食うシーンを売りにしましたが、「え?どこ?どこ?」という間にそこは終了。他にも失われた文化として紹介される、「ペニス切断」シーンのわざとらしさ。「ぼかし」が入るので、真偽の確かめようが無い!この映画、今日ではすべてヤラセと分かっています。

また、イタリア製の「グレートハンティング」が「自然動物園でのライオンの人喰い」のヤラセ映像で話題になっていた頃、もう1本の映画がセンセーションを巻き起こしていました。それが「スナッフ」。「映画撮影中に主演女優が殺された」という凄まじい触れ込みのこの映画は、全米各地で上映反対運動の憂き目に遭い、しかし、それが宣伝効果をもたらして大ヒットしていました。その手法は以下の通り。

当時アメリカではマフィアが撮った本物の殺人映画(=スナッフ・ムービー)が闇で取り引きされているとの噂が流れ、ニューヨーク・タイムズ等でも報道されていました。その記事を見てひらめいたモナーク社の社長アラン・シャックルトンは、ニューヨークの安アパートで4分間の殺人シーンを撮影、倉庫に眠っていた映画の巻末に付け加えたのです。タイトルも元々の映画の題名から、「スナッフ」へと変更。今話題の殺人映画はこれでございと言わんばかりに、スタッフやキャストのクレジットを外して上映。その上シャックルトンが自ら上映反対運動を展開し、話題が話題を呼んで『スナッフ』は大ヒットとなったのです。



日本でも大いに話題になりました。ワイドショーが取り上げ、「週刊読売」までもが、その真偽を議論しました。そして成人指定の映画にすることで公開されました。1時間半ほどの退屈なシーンがあり、そこからが見所。「カット!」の声と共に監督が主演女優(といっても、今までの人とは明らかに別人)に近づき、「いやあ、君のおかげでいい映画ができたよ」とおだてながら、ペッティングを始める。そしていきなりナイフを彼女の背中に突き立てる!ギャッと苦しむ彼女の指をハサミでチョン切り、腹をかっ捌いてはらわたをえぐり出す。はらわたを両手で掴み、狂気の笑顔で血に見とれる監督のアップで『スナッフ』はブチッと終わる。ハッキリ言って、特殊メイクは相当稚拙なもので、誰が見ても作り物であることは一目瞭然でした。しかし日本でもヒットしたのには理由がある。配給会社のジョイパックが試写を一切行わなかったからです。大人のお化け屋敷は、内容だけではなく、その宣伝方法にも趣向を凝らすようになって行きました。

81年に、このドキュメンタリーの流れをくむ作品が公開され、大ヒットしました。「食人族」です。話題になったのは、例の女性の串刺しシーン。その質感から本物の人間にしか見えなかったからです。しかし、タネを明かせば何のことはない。自転車のサドルに腰かけた女性に発砲スチロールの木をくわえさせただけなのです。(改めて見ると、性器のあたりをアップで撮らえた場面でノイズが走る。当初は性器を見せないための処理だと思いましたが、実はサドルを見せないためでした!)こうした巧みな演出が奏功して、本作は世界中で大ヒットを記録するも、本国イタリアでは上映禁止の憂き目に遭ったのです。大亀の甲羅を剥いで解体するシーンが動物愛護団体の逆鱗に触れたためでした。(そっちか!)

さてこの「お化け屋敷」が、80年代に入り、どう変わっていくかを次回はお送りします!