妙見ケーブルと並んで僕の記憶に残っているのは、天橋立のケーブルカー、「天橋立鋼索鉄道」です。
京都丹後鉄道宮豊線の天橋立駅から日本三景の天橋立、笠松公園を経て成相山成相寺へ至る参詣ルートの途中にあるケーブルカー。今、最近の光景をネットで見るとリフトが併設されているのですが、僕の記憶にはリフトは残っていません。
昭和41年(1966年)の夏休みのある日、親父の会社の慰安旅行で貸切バスに乗って、天橋立に。海水浴を楽しんだ翌日の早朝、天橋立ケーブルの線路横を歩いて登り、天橋立の景色を見たのを覚えています。とにかくしんどかった!高知の田舎から出て来た従弟と一緒に登りましたが、田舎育ちの彼の方は楽々登っていくのに、僕はついていくのが精一杯で、往復を歩いた後は疲れてお腹が空いて散々な目にあったという記憶です。
泳ぐのも潜るのも体力面全てにおいて、近所の友達には全く負けたことが無くても、田舎の従弟には完敗。都会の子供がもやしっ子と言われても仕方がない。他の年上の子供たちも、彼には走っても泳いでも敵いませんでした。
何十年も後に自分の子供をここに連れて行った時、同じように歩こうとすると、登る前から「絶対に行かない」と、子供たちは逃げました。(育て方を誤った!)
こんな景色が楽しめるケーブルカーに乗るのは楽しい。のんびりして良いと思います。天橋立と言えば、どうしてもドライブに自動車で行く場所というイメージがあると思うのですが、現地の乗り物も捨てがたいですね。
いよいよ阪急電鉄子会社の能勢電鉄(兵庫県川西市)で展開する妙見の森ケーブルカーが、12月4日に廃止となります。妙見の森ケーブルは黒川~ケーブル山上間666メートルを結び、標高差223メートル、最急勾配23度、平均勾配20度。定員51人の車両2両が最高速度8.6km/hで往復し、所要時間は約5分です。
子供の頃の遠足や、妙見山に遊びに行った折に何度か乗ったことがありますが、大人になってからは妙見山に行くのは天体観測が多く、自動車を使うようになったので、ケーブルカーからは足が遠のきました。ケーブルカーは夜間は運行していないので。
廃線の理由は利用者が減ったからとマスコミは書いていますが、なぜ利用者が減ったのかについては、まともに言及していないようです。
阪急電車宝塚線を見れば分かりますが、清荒神、売布神社、中山観音、岡町、服部天神などは全て有名神社仏閣のある駅ばかりで、戦前はその参拝者が物凄く多かったのです。妙見山もそう。山体が信仰の対象であり、山頂近くには日蓮宗の関西地区における重要寺院である能勢妙見堂'があります。戦前、神社仏閣に足を運ぶことは、今のように初詣だけではなく年中行事であり、人々の娯楽だったのです。昔の写真を見れば分かりますが、大人は和服やスーツという正装。子供は学生服という姿でみんながお参りしています。
妙見の森ケーブルは、戦後半分以下に急激に落ち込んだ利用客回復の為、ハイキングコースを整備したり、バーベキューテラスや足湯などの施設を作ったり、近年では独身男女の出会いの場を能勢電鉄が主催し、その会場に妙見の森を利用したりとあらゆる手を尽くして来ました。
しかし、そもそもケーブルは戦中に線路を軍に供出し、戦後復旧しますが、建設経費削減のために運行距離が短くなりました。山上まであったケーブルを短くし、そこには代わりにリフトを作りました。現在妙見山に登ろうと思えば、能勢電車・妙見口駅で下車、そこからケーブルの黒川駅まで徒歩20分掛かります。(バスは大幅な運行減で、まず乗ることは出来ませんので歩くしかないのです。)そこからケーブル~リフトを使うという不便さ。
更に戦後の娯楽は、阪急電鉄が宝塚に宝塚歌劇、温泉、遊園地を作り、梅田を阪急の一大アミューズメントパークとして作り上げた為、神社・仏閣巡りから、映画鑑賞やデパートでの買い物、遊園地に移り変わり、妙見山を訪れる人も、妙見の森ケーブルを利用する人も激減し、利用客は減少の一途を辿って回復することが全く無かったのです。周辺の大阪府豊能町・能勢町は昨年過疎指定されましたし、今回の妙見の森ケーブル廃止は寂しいながらも、仕方がなく、むしろ今日までよく続いたと思います。思い出を持つ人たちには、廃線前にもう1度利用して頂きたいですね。
僕の両親は高知県より大阪に出て、最初は福島(大阪タワーの近所)、次に庄内を経て豊中に家を買いました。福島時代のことは知りませんが、庄内のことは少し覚えています。アパートの2階に住んでいた時、もうすぐ3歳になろうかという僕が、母の掃除中のバケツをひっくり返してしまい1階を水浸しにしてしまったのです。当時はみんなが子供を大切にした時代。みんなで後始末をして、謝る僕に怒る大人はいませんでした。
金曜8時にプロレスを親父とTVで観て、その後数分プロレスごっこをしてもらう。週に1回の楽しみでしたが、これは階下の人から騒々しいと怒られ(笑)、このことで家を買う決心を両親はしたそうです。引越し先のマイホームで最初に僕が言った言葉は、「ここはあばれてもいいの?」。
庄内時代、本当に小さな子供だった僕でも覚えている地名があります。それは「音大通り」。
これは両親が庄内に来た、昭和30年代前半の写真です。1950年代の最後の頃。昭和29年、大阪市東区味原町(現・天王寺味原本町)から庄内町野田堤南側に大阪音楽短期大学が移転し、昭和33年に同地に大阪音楽大学が併設されました。これ以降、庄内では音大通りが作られるなど、音楽を中心とした文化地域を目指した試みがなされて来ました。
因みに音大通りは、現在は「オペラ通り」と名前が変わっています。
これは昭和50年(1975年)、母親が服部で働いていたので、僕が服部の塾に通うことになった頃にかつて住んでいた場所を訪ねた時のもの。現在のくりのみ幼稚園の前から東を撮影した写真です。右の大きな建物が大阪音楽大学第一キャンパス。この道が音大通りで、道の左が野田町。右が庄内幸町となります。
それから50年近く経った現在はこんなに変わっています。当時の面影は跡形もありません。
この音大通りを、僕も両親も全く忘れていた頃に、あるきっかけで思い出しました。そのきっかけが2017年の森友学園騒動。豊中にある国有地を取得して学校を建設した騒動です。その学校がこちら・・
瑞穂の國記念小學校です。開校することなく現在に至っていますが、この場所が音大通りや大阪音楽大学から北にほんのわづかの距離にあるのです。本当に周囲は綺麗になっていて、申し分のない場所に変貌を遂げていました。
庄内は昔は映画館もあり、戸籍を持たない人が多く住んでいるという問題もありましたが、地域を1948年から支え続けた豊南市場は現在も健在。駅周辺は今も昔の佇まいを残しています。現在でも昭和の息吹を感じることが出来るのが庄内、服部の周辺ではないでしょうか。
今日から10月。昨日までは秋の気配を漂わせながらも、暑さは秋と言うより夏の日が続いていました。もうそろそろ季節が完全に移り変わって欲しいものです。こんな狂ったような暑さの夏は、僕も人生で初めて経験しました。この先も毎年こんな夏になるのなら、ちょっと長生きする自信を無くしてしまいそうです。
怪我のせいでこのブログの更新も出来ずにいましたが、まだまだ書き残しておきたい「昭和」が記憶に沢山ありますので、これからも継続して行きたいと思います。
阪急沿線の町並みは、僕が生まれた昭和から令和となって随分変わってしまいました。子供の頃に思い浮かべたSFの中の明るい未来の景色ではなく、綺麗にはなっても人が置き去られた寂しい風景ばかりが増えてしまった気がします。ここ阪急宝塚線・曽根駅は、そんな駅の一つです。
この写真は1967年(昭和42年)の曽根駅前の風景です。舗装もされていない道路。写真左奥を見渡しても、まだダイエーがありません。
こちらはダイエー建設中の写真ですが、撮影は1971年(昭和46年)です。まだオープンする前です。曽根のダイエーはこの翌年の昭和47年(1972年)に「曽根ショッパーズプラザ」として開業しました。
曽根駅前を歩くと分かりますが、駅前から国道176号線に向かって歩くと歩道がとても広い。他の阪急沿線の駅では見られないほどです。駅東側には岡町に至るまで大きな家が並んでいる曽根。さすがはかつて「西の芦屋、東の曽根」とまで呼ばれた町です。曽根駅周辺の住宅については、こちらの記事もご覧下さい。
実は今の駅前ロータリーの辺りには、戦争末期まで関西財界の名士や海軍の高級軍人がよく訪れた、「美食俱楽部」ならぬ、北大路魯山人設計による「大阪星岡茶寮」がありました。(昭和20年6月・豊中空襲で焼失)
こちらはダイエーが完成した後の昭和50年代に入ってからの曽根駅前。1番上の写真と同じ場所からの撮影です。
そして、こちらが現在の曽根。昔に比べて本当に綺麗になりました。いつここに来ても遭遇した渋滞も、駅の高架化で解消されましたが、それ以前に走っている車の台数が激減していますし、ダイエーの向こう側にあるボーリング場等の娯楽施設も閑古鳥が鳴いています。また、駅前の喫茶店も消え去ってしまいました。
住み易い街並みになっても、そこに住む人々が減ってしまっては本末転倒。日本の抱えている大問題が、昔と現在の町並みを比較すれば「百聞は一見に如かず」と言ったところでしょうか。