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青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

歩くと大変!天橋立鋼索鉄道!

2023-10-21 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

妙見ケーブルと並んで僕の記憶に残っているのは、天橋立のケーブルカー、「天橋立鋼索鉄道」です。

京都丹後鉄道宮豊線の天橋立駅から日本三景の天橋立、笠松公園を経て成相山成相寺へ至る参詣ルートの途中にあるケーブルカー。今、最近の光景をネットで見るとリフトが併設されているのですが、僕の記憶にはリフトは残っていません。

昭和41年(1966年)の夏休みのある日、親父の会社の慰安旅行で貸切バスに乗って、天橋立に。海水浴を楽しんだ翌日の早朝、天橋立ケーブルの線路横を歩いて登り、天橋立の景色を見たのを覚えています。とにかくしんどかった!高知の田舎から出て来た従弟と一緒に登りましたが、田舎育ちの彼の方は楽々登っていくのに、僕はついていくのが精一杯で、往復を歩いた後は疲れてお腹が空いて散々な目にあったという記憶です。

泳ぐのも潜るのも体力面全てにおいて、近所の友達には全く負けたことが無くても、田舎の従弟には完敗。都会の子供がもやしっ子と言われても仕方がない。他の年上の子供たちも、彼には走っても泳いでも敵いませんでした。

何十年も後に自分の子供をここに連れて行った時、同じように歩こうとすると、登る前から「絶対に行かない」と、子供たちは逃げました。(育て方を誤った!)

こんな景色が楽しめるケーブルカーに乗るのは楽しい。のんびりして良いと思います。天橋立と言えば、どうしてもドライブに自動車で行く場所というイメージがあると思うのですが、現地の乗り物も捨てがたいですね。

 


妙見の森ケーブルが消える理由!

2023-10-19 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

いよいよ阪急電鉄子会社の能勢電鉄(兵庫県川西市)で展開する妙見の森ケーブルカーが、12月4日に廃止となります。妙見の森ケーブルは黒川~ケーブル山上間666メートルを結び、標高差223メートル、最急勾配23度、平均勾配20度。定員51人の車両2両が最高速度8.6km/hで往復し、所要時間は約5分です。

子供の頃の遠足や、妙見山に遊びに行った折に何度か乗ったことがありますが、大人になってからは妙見山に行くのは天体観測が多く、自動車を使うようになったので、ケーブルカーからは足が遠のきました。ケーブルカーは夜間は運行していないので。

廃線の理由は利用者が減ったからとマスコミは書いていますが、なぜ利用者が減ったのかについては、まともに言及していないようです。

阪急電車宝塚線を見れば分かりますが、清荒神、売布神社、中山観音、岡町、服部天神などは全て有名神社仏閣のある駅ばかりで、戦前はその参拝者が物凄く多かったのです。妙見山もそう。山体が信仰の対象であり、山頂近くには日蓮宗の関西地区における重要寺院である能勢妙見堂'があります。戦前、神社仏閣に足を運ぶことは、今のように初詣だけではなく年中行事であり、人々の娯楽だったのです。昔の写真を見れば分かりますが、大人は和服やスーツという正装。子供は学生服という姿でみんながお参りしています。

妙見の森ケーブルは、戦後半分以下に急激に落ち込んだ利用客回復の為、ハイキングコースを整備したり、バーベキューテラスや足湯などの施設を作ったり、近年では独身男女の出会いの場を能勢電鉄が主催し、その会場に妙見の森を利用したりとあらゆる手を尽くして来ました。

しかし、そもそもケーブルは戦中に線路を軍に供出し、戦後復旧しますが、建設経費削減のために運行距離が短くなりました。山上まであったケーブルを短くし、そこには代わりにリフトを作りました。現在妙見山に登ろうと思えば、能勢電車・妙見口駅で下車、そこからケーブルの黒川駅まで徒歩20分掛かります。(バスは大幅な運行減で、まず乗ることは出来ませんので歩くしかないのです。)そこからケーブル~リフトを使うという不便さ。

更に戦後の娯楽は、阪急電鉄が宝塚に宝塚歌劇、温泉、遊園地を作り、梅田を阪急の一大アミューズメントパークとして作り上げた為、神社・仏閣巡りから、映画鑑賞やデパートでの買い物、遊園地に移り変わり、妙見山を訪れる人も、妙見の森ケーブルを利用する人も激減し、利用客は減少の一途を辿って回復することが全く無かったのです。周辺の大阪府豊能町・能勢町は昨年過疎指定されましたし、今回の妙見の森ケーブル廃止は寂しいながらも、仕方がなく、むしろ今日までよく続いたと思います。思い出を持つ人たちには、廃線前にもう1度利用して頂きたいですね。

 


アントニオ猪木一周忌:新日旗揚げ・わが町興行!

2023-10-01 | 昭和・思い出は色褪せない

私の子供時代からのヒーローの1人、アントニオ猪木がこの世を去って1年。本当に寂しく思いますが、猪木が引退して、彼の試合が新たに見ることが出来なくなったのは1998年4月4日ですから、それからは25年もの年月が経過しているのです。だから猪木さんが亡くなったことで、実は僕は以前にも増してDVDで猪木の残してくれた名勝負の数々を鑑賞する機会が増えています。

猪木が種を捲いた格闘技の概念は、彼の多くの弟子達により総合格闘技として体現され、徐々にルール整備もされ、観る人々を教育して、今日の総合格闘技の繁栄につながったことは誰にも否定出来ません。ただ僕は今日の総合格闘技を観ることはあっても夢中になっていません。選手が小さいからです。かつてのプロレスラーやボクサーらはヘビー級であり、その存在感だけで強さを感じました。しかし、今の一般人と変わらない体格の選手は、戦う前にトークで吠えまくる。そのスポーツマンらしからぬ言動は好きになれません。昔のプロレスラー達が黙って電話帳を引き裂いたり、リンゴを掴んで粉砕するデモンストレーションの方が心に響きました。

これは1972年(昭和47年)3月に旗揚げした新日本プロレスが、最も観客動員に苦戦していた苦難の時代の興行写真です。



7月24日の「ニュー・サマー・シリーズ」の開幕戦。場所は大阪・豊中市上新田千里インター横広場。千里ニュータウン前での野外試合でした。この時の記録を残していました!左が勝ち選手です。

第一試合 リトル浜田(逆エビ固め)木原伸一
第二試合 魁勝司(背骨折り)藤波辰巳
第三試合 レオン・バクスター(首固め)木戸修
第四試合 サパタ・マルチネス(反則)山本小鉄
第五試合 豊登(逆エビ固め)ディック・ダン 

バトルロイヤル8人参加 藤波(逆エビ固め)浜田

セミファイナル コーア・チキ(反則)ハロルド坂田

メインイベント 猪木・柴田勝久(2-1)ボビー・キャッシュ&エニー・ラスター
①柴田(片エビ固め)ラスター
②キャッシュ(片エビ固め)柴田
③猪木(体固め)キャッシュ

メインは3本で30分弱、観客を魅了していました。地方だからと手を抜いて早く試合を終わらせていたら、次回お客さんは来てくれません。猪木を先頭に、「次は知り合いを連れて来てくれる試合」を心掛けていました。懐かしい写真です。

木原はこの日がデビュー戦。このシリーズからやっと、バトルロイヤルを含めて、初めて8試合が組めるようになりました。有名外人レスラーなど1人も呼べず、「猪木が出場する新しいプロレス」が、唯一の売り物の時代でした。

本当に「闘魂」だけを選手一丸となって見せていた、素晴らしい時代の試合を観戦できたことは、今から思えば幸せなことです!