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ここは阪急宝塚線・蛍池駅の東口です。1978年まで僕は、西口改札前の小さな売店で、猪木の名勝負の数々を報道した大スポを買っていたのですが、高齢のお婆さんが店を閉めたため、それ以降この東口を使うようになりました。
この写真は昭和54年(1979年)頃と、現在を比較したものです。
僕がジョン・レノンが凶弾に倒れたニュースを知ったのもここです。学校帰りに駅売店をいつものように覗くと、ジョン・レノンの悲報が目に飛び込んで来ました。
駅の売店ではいわゆる夕刊紙だけではなく、スポーツ新聞の早刷りも売られていました。米で開催されているゴルフトーナメント。例えば現地木曜に開催されているマスターズ初日の新聞報道は、当時は土曜の朝刊でした。インターネット等無かった時代は、これが普通でした。しかし駅売店に行けば、金曜午後にはそれが報道された新聞が買えました。この半日の違いが大きかった。
ここで、高3の時に初めて宝くじを100円で1枚買いました。それが10万円当選!次に宝くじを買ったのは、いつだったか覚えていないのですが、第一回の年末ジャンボ1等前後賞込み3000万円が発売された時です。確か、1万300円リターン!
当時の駅ナカで売れる“三種の神器”は、「たばこ、雑誌、新聞」でした。しかし、コンビニが増えるに従って、その需要に変化が現れました。現在は「おにぎり、調理パン、ベーカリー」に変化し、駅ホームの売店も、駅ナカのミニ・コンビニに変わって行ったのです。
昔の駅の売店のおばさんは、数人が1度に新聞や、タバコ、ガムを求めても、暗算で次々とお客を神業で捌いていました。御釣りもあっと言う間で、電車に乗り遅れないよう、ものすごい速さでお客対応をしていました。今はそんな売店はなく、店員は自分のペースで、バーコードでピッピとのんびりお客を捌いています。
電車の中でも、新聞・雑誌を読む人は今ではほとんど目にしません。みんなスマホ。あのスマホへの熱中度は、依存症というか病気としか言いようがないのですが、携帯会社がCMの大スポンサー様ですから、どのマスコミもそうは言いません。
このレコードには思い出があり、今でもそのLPの、雑誌に掲載された1面広告をレコードと一緒に残しています。
昭和52年の夏。ひとりの女の子に恋をして、自分の気持ちを伝えて、ふられてしまってすごく悲しかった。僕の誕生日の少し前で、当時好きだったオリビア・ニュートン・ジョンの、このレコードの発売の少し前のことでした。失恋の痛手を癒そうと(笑)、発売日に買って来て聴いたレコードには、僕には無縁の恋人たちを描いた曲や、ウッ!と来るような失恋の曲が並んでいました(笑)
夏の蒸し暑い空気の中、ステレオから流れてくる澄み切った声。すごく違和感を覚えました。もっと楽しい気分でこのレコードを聴きたかったのに、すごく寂しかった。部屋に差しこむ西日の色が、まるで心を焼いた色のように思えました。頑張って自分の気持ちを変えないといけないと決意した瞬間でした。
そんな悲しい気分を味わいながら思い出のレコードは、「水の中の妖精」の大ヒットや来日コンサートでの大人気と、「グリース」でハリウッドへ進出した彼女のキャリアの頂点の、その狭間に発売されたものなので、意外と聴いていない人も多いかもしれません。
アルバムタイトルでもある、このLPの1曲目のタイトルは、「Making a Good Thing Better」です。聞き覚えはありませんか?
お気に入りの歌
1人聴いてみるの
オリビアは寂しい心
なぐさめてくれるから・・・・
杏里(作詞・作曲 / 尾崎亜美)の「オリビアを聴きながら」のオリビアは、まさにオリビア・ニュートン=ジョンのことで、その後に続く歌詞はこうです。
Making good things better
いいえ済んだこと
時を重ねただけ・・・
ハイ、英語の部分は、実はこのレコードがネタ元かも知れません。オリビアの歌の方の“Making a Good Thing Better”は、「二人の恋の、ちょっとした素敵なことを、もっと素敵なものに変えて行きましょう」という意味ですが、杏里の歌の方は「よいことを、より良いことにしましょう」という意味で、前者の“a good thing”と後者の“good things”では、意味が違います。ほんの小さな・・と思える英語の違いでも、意味は大きく違うという見本ですね。
このキャップ型の「帯」の付いたレコードは初回盤。今ではCDさえ、入手するのは難しくなったようです。
みんなが1度は行ったことがあると思います。「日本橋」。ただし大阪の「日本橋」です。読みは「にっぽんばし」。
あなたが行ったのは、どんな顔の「日本橋」ですか?僕も知らない昔は、日本橋は「古本屋の街」でした。その後、「電気屋が立ち並ぶ街」として、君臨しました。お店の人が「最近のお客さんは値切りもしない。商いが面白くない」と嘆いたほど、バブルの頃は、みんなが言い値で買っていくほどの盛況でした。
その後、Windows95が発売になってから、「パソコンの街」「ゲーム・ソフトの街」に移行し始め、オーディオ店がどんどん無くなって行き、今では「サブカルチャーの街」となって、東の秋葉原のように、フィギュアやカードのお店、メイド喫茶、地下アイドルの店、外国人向けの簡易宿が立ち並ぶ街になりました。
インバウンド客が多い頃は、日本人よりも外国人の方が歩いている人は多かったほどです。とても嫌な雰囲気でした。今は閑散としていて、少ない買い物客を呼び込むコスプレ姿の女の子や、ガラの悪い男がタバコを吸いながら街角に立っている姿を目にします。
絶滅危惧種となった高級オーディオの店や、中古レコード屋を求めて僕が行く現在の日本橋が、カラー写真の方です。白黒は「電気の街」だった頃の、平成元年の日本橋です。黄色い枠で囲んでいる部分が、同じ場所の名残を伝えてくれています。随分街並みが寂れてしまったことがお分かりだと思います。
人通りや車の数が、同じ日曜日なのに全く違います。
自動車に乗って家族連れで家電を買いに来る人々、オーディオを買いに来ている学生同士の連れ、そういう人がほとんどいない。1人でスマホを見ながら歩いているか、肌を露出した女子と腕を組んで歩く日本人ではないカップル、酒気を帯びた人・・・僕も余程の買い物が無い限り、日本橋にまで足を運ぶことはなくなりました。
大きな映画館が閉館となり、ミニ・シアター(シネコン)ばかりになりましたが、本当に採算が取れているのでしょうか?映画が小さな予算で作られる、規模の小さなモノになり、大物スターと言われる俳優がいなくなり、大きなスクリーンを持つまさに映画館という建物が無くなって行く・・・。古い映画館は懐かしい「味」がありました。
現在の梅田・キデイランドがあった場所は阪急プラザ劇場で、これは、その館内の写真です。分かり辛いのですが、座席は強い傾斜の雛壇式で、とても観易い劇場でした。「スター・ウォーズ」「グリース」「野生の証明」「チャタレイ夫人の恋人」等を観ました。
青春時代には、関西初の神戸のドライブ・イン・シアターにも行きましたし、大阪万博公園のドライブ・イン・シアター(スター・ダスト)で映画を観るのが大好きでした。大学祭で、小さな教室で上映される映画も好きでした。でも大きな映画館で間もなく封切られる映画の前売り券を買い、公開を心待ちにしている日々は本当に楽しかった。映画のパンフレットだって、いつも少ない小遣いから買ったものです。映画館を梯子して、チラシ集めにも奔走しました。切符売り場のおばちゃんには、お世話になりました。劇場前に貼っている「スチール写真」や「ポスター」を貰ったことも、懐かしい思い出です。
デートと言えば、映画館!いろんな映画を観に行きました。古い梅田の映画館に、友人と70年代の映画を観に行きました。80年からはリニューアルオープンが次々に始まり、新しくなった映画館に足を運びました。
面白いものを掲載しておきます。これは1981年当時の、全国の主な映画館での興行スケジュールです。僕にとっては懐かしい映画館の名前がズラリと並んでいます。(本当に懐かしいのは、友人とチラシを集めたり、無いお金をかき集めて観に行った1970年代なのですが・・)今はもう無い映画館が沢山あります。皆さんはこの映画館のリストを見て、思い出されることがありますか?