青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

偽義経冥界歌 ~劇団☆新感線

2021-02-28 | 素晴らしかった興行・イベント

僕は、いろんなコンサートやイベントに足を運んでいますが、生田斗真の舞台も観劇したことがあります。2019年3月21日、大阪フェスティバルホールで、劇団☆新感線興行・いのうえ歌舞伎「偽義経冥界歌」を楽しみました。超満員、女性だらけの観客にまず驚きました。



殺陣も見応えがあり、とても面白かった!正直に言うと、その時まで生田斗真を知らなかったのですが、なかなかの運動神経の持ち主と見ました。余りにも観客が女性ばかりなので、どうしてこんなに人気があるのか?と思っていたら、ジャニーズ事務所の俳優だと聞いて驚きました。ジャニーズの人が、歌舞伎?と。

その彼が同年の秋ドラ「俺の話は長い」に出ているのを見て、まるで別人!もう1度驚きました。あまりにも普通の(れっきとした)俳優さんだったからです。

「偽義経冥界歌」がとても面白く迫力もあったので、その後劇団☆新感線に興味を持ち、「髑髏城の七人」をDVDで何種類か(同じストーリーを役者を変えて演っているので)観ましたが、かなりハマりました。(笑)舞台って、なかなか面白い。僕の観劇なんて、古くは「梅田コマ劇場」で観た西郷輝彦の「どてらい男」に始まり、田村正和の「乾いて候」くらいでしたので、劇団☆新感線の舞台は新鮮な驚きでした。舞台装置は素晴らしいし、アクションは派手だし、演技も当然なかなかのもので、ストーリーは面白い。また機会があれば、ぜひ見に行きたいと思っています。

ただ、フェスティバルホールに行って1つだけ注文がありました。各フロアに男女のトイレがあるのですが、観客の90%以上が女性ばかりで男性客なんてほとんどいないのに、トイレはそのまま。だから写真のように女性は長い行列が出来ているのに、男性トイレは誰も入っていない。男は1階だけにして、後の男性トイレは全て女性に開放すれば良いのにと思いました。



興行を打つ方は、こういう点も考慮して集まったお客をもっと大切にすべきだと思いました。1万円を超えるチケットを買い求めてくれるファンは大切にしないとね。


心斎橋 ソニータワー・ビル

2021-02-27 | 昭和・懐かしい大阪の風景

ロケット広場の記事を書いて思い出しましたが、僕にとっては難波よりも北、つまり「戎橋通り」や「心斎橋通り」の辺りまでは、足を運ぶエリアでした。

アメリカ村や難波には縁が少ないけれど、グリコのネオンで有名な道頓堀川より北までは、僕の活動範囲でした。そこを超えると、昔は何か生理的に受け付けない雰囲気だったし、その後は外国人が多過ぎて、更に足が遠のきました。コロナ感染が流行する直前などは、日本とは思えないくらい外国人が多かった。「こんなにインバウンドに頼って次々と店を出して大丈夫か?」と思っていたら・・・。



そんなミナミにはあっても、キタには無かったのが、「ソニータワー・ビル」でした。1976年に完成したソニーのエレクトロニクス製品ショールームであり、輸入雑貨店「ソニー・プラザ」としても有名でした。シースルーの速いエレベータで御堂筋と長堀通りを見下ろす、豪華な未来を感じるビルでした。僕らと年代の変わらない東ちづるが、芸能界に入る以前にここに勤めていました。



それがいつの間にか消えていた・・・😨

僕がミナミにほとんど行かないので、気が付かないうちに2004年に閉鎖。

今は違うビルが建っています。上の写真の左はソニータワー・ビルで、右は現在の姿です。ソニータワーが、ソニーという世界的なブランド名を持っているにも関わらず、こんなに早く消えてしまうとは全く思いもしませんでした。


北野劇場 物語(2)

2021-02-26 | 昭和の映画館

梅田コマ劇場の右隣。ナビオの場所に、梅田映画館の中心がありました。それが北野劇場、スカラ座、梅田劇場。スカラ座はエレベーターで上がりました。エレベーターを出た所は、今のように明るくありませんでした。暗くて、古い建物、いかにも昭和を感じる場所でした。

どの窓口に行っても、「映画のチラシを下さい」と言うと、親切にくれました。映画のチラシ収集がブームになる前。中学1年の時。1975年。そのすぐ後に「少年マガジン」が巻頭特集で映画のチラシを紹介して、ブームに火が付きました。

館内に置いているチラシを全部持って帰って売るような輩が出て来て、チラシを貰う為に映画館を梯子しても、貰えないことが多くなったそうです。そうですと言うのは、僕らは定期的に映画を観ていたし、ブーム前から顔見知りだったので、いつ行ってもチラシを変わらず貰うことが出来ました。

僕はレタリングを小学校5~6年で習い、そもそも書道をしていたので、映画のチラシの映画のタイトルの書体やデザインがすごく好きになりました。1枚の表裏で、「観たい!」と思わせる凄さに魅せられました。

「ロンゲストヤード」「アラン・ドロンのゾロ」「タワーリング・インフェルノ」のチラシなんかが、1975年のお気に入りでしたが、「エマニエル夫人」のチラシは目のやり場に困ったのを、今も覚えています。ただし、好みでは無かった。(笑)



満員の映画館で席を取り、2回観てから帰る。(笑)当時は入れ替え制ではないので、気に入れば映画は何度でも観ることが出来ました。パンフレットも結構買いました。でも、パンフレットを2冊買うお金で、映画がもう1本観れましたので、余程気に入った映画で無ければ、すぐに買わなくなりました。

前売りを買って、その半券とチラシを集めていました。1枚1枚に思い入れがありました。本気で映画会社で働きたいと思った時期もありました。

映画にまつわる話をすると、キリが無いですね。


北野劇場 物語(1)~昭和の梅田・ど真ん中

2021-02-25 | 昭和の映画館

この場所が、1980年10月24日にナビオ阪急になり、現在は「HEP NAVIO」と呼ばれている場所です。僕は中学1年の春休み、1976年の3月、かの悪名高き「グレートハンティング」を、ここで観ました。そして、それが僕の初の「自腹を切って」の鑑賞だった・・かも知れません。(よく覚えていないので)また、中学3年の6月に、ここで「史上最大の作戦」のリバイバルを観たことも、よく覚えています。

大劇場で、リバイバルが当たり前にあった時代でした。

僕が知っている、大阪「北野劇場」の最古の写真は、下の写真です。



大阪に出て来た母親が、ここでアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」を、僕が生まれる前に観た!と。調べてみると、1960年(昭和35年)のことです。

僕は、この北野劇場と並んで建っていたスカラ座や梅田劇場に、中学1年から映画のチラシを貰いに通っていたので、ナビオが建つ以前の風景の方が、今でも記憶に残っています。


十三・北予備校 ~楽しかった受験戦争

2021-02-24 | 昭和・懐かしい大阪の風景

最近では大阪は十三(じゅうそう)と言えば、新型コロナウイルス患者の専門病院となった「大阪市立十三市民病院」が有名ですが、僕の青春時代の十三と言えば、大阪のナンバーワン公立高校である北野高校や、大阪北予備校がある街として有名でした。

受験戦争と言われた時代を僕は過ごしましたが、今思い返せば楽しかった。その頃の友人達とは今も親密な付き合いがあり、「戦友」の有難みをいつも感じています。苦しい時代を共に過ごすと言うか、同じ釜の飯を食べた者同士にか分からない価値のある何かを共有出来ることは、人生の宝物の1つです。

「大阪北予備校」が、いつも電車の窓から見えたのが懐かしい。

と同時に、ラブホテル街や映画館もある歓楽街として広く認知されており、松田優作の遺作となった「ブラックレイン」のロケ地の1つでもありました。

梅田を臨んで線路の右側には、車窓から映画の「看板」が、淀川を渡る前に見えたものです。今も忘れないのは、来日公演が無くなったポール・マッカートニー&WINGSの「ロックショウ」(1981年)の看板。

中止したコンサートのお詫びにと、日本公開版は、他の国よりも数曲多いバージョンが公開されました。

今日の写真は1980年代初頭の十三。懐かしんで頂ければ幸いです。