青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

“ウメ地下” から “ホワイティ”へ

2019-11-29 | 昭和・懐かしい大阪の風景

今年の5月、惜しまれつつ撤去された、梅田・泉の広場。

実は「ウメダ地下センター」という名称を、「ホワイティうめだ」と改称した平成14年(2002年)10月に、改装オープンしていたのを知っていますか?

写真はその時のものです。ちょっと笑えますね。

泉の広場は1970年に完成した、東側の扇町通と新御堂筋の交点(曽根崎東交差点)直下にある広場で、写真のように噴水が設置されていました。災害時の妨げになる事やイベントスペースとして活用するため、本年撤去され、現在は跡地に樹木に見立てた新たなシンボル、「Water Tree」が設置されています。


レッズ ~映画と読書で人物数珠繋ぎ

2019-11-22 | 青春・名画劇場

僕は読書や映画鑑賞が大好きですが、時々興味深く感じる事があります。それは、バラバラに何の脈略もなく読んで来た本の作者や、これまでに見て来た映画などが1本の線で繋がることです。

例えば1953年の11月27日は、ユージン・オニールの命日です。ユージン・オニールはアメリカの劇作家で、彼の作品はブロードウエイでも多数上演されています。また、ノーベル文学賞も受賞している、アメリカを代表する作家です。

彼のことは、僕は最初に映画で知りました。映画「レッズ」で、ジャック・ニコルソンがユージン・オニールを演じていたからです。映画「レッズ」(Reds)は、1981年に製作されたアメリカ映画。1917年に起きたロシア革命と、その革命を記録したアメリカ人ジャーナリスト、ジョン・リードの半生を描いています。ジョン・リードを演じたのは、「俺たちに明日はない」「天国から来たチャンピオン」等に出演、ハリウッドのプレーボーイと呼ばれたウォーレン・ビーティで、この作品では監督も務め1981年度アカデミー賞で最優秀監督賞を受賞しています。

ジョン・リードは、自身の体験をロシア革命のルポルタージュとしてまとめ、「世界を揺るがした10日間」を刊行しました。彼はモスクワでチフスのため死去し、現地で葬儀が行われた後、アメリカ人でありながら、ソ連の英雄として赤の広場にあるクレムリンの壁に埋葬されました。アメリカ人でこの場所に埋葬された人物は、彼とアメリカ共産党書記長だったチャールズ・ラッテンバーグ、世界産業労働組合の指導者ビル・ヘイウッドだけです。

僕は共産主義は嫌いですが、「世界を揺るがした10日間」は読みました。そのジョン・リードとユージン・オニールが友人で、左寄りの思想だったことを思い出しました。アメリカにおいて共産主義と言えば、赤狩りを思い出し、赤狩りと言えば、僕はハリウッドから追放された(後にアカデミー賞名誉賞を受賞し、名誉を回復しました。)チャールズ・チャップリンを思い出します。そこで、また1つの繋がりを思い出しました。ユージン・オニールの2番目の妻との間に生まれた娘ウーナは、喜劇王チャールズ・チャップリンの最後の妻だったのです。

ユージン・オニール~ジャック・ニコルソン~ジョン・リード~ウォーレン・ビーティ~チャールズ・チャップリンと、大物5人の名前が繋がりました。今の若い人たちは、何人を知っているでしょう?

ユージン・オニールはアルコール中毒、自殺未遂、放浪、家庭崩壊、孤独といった自らの経験を元に、アメリカに潜在する悲劇的なビジョンをリアリズムで表現しました。オニールにとって、アメリカの悲劇の源泉は「アメリカン・ドリーム」でした。人間の中にある物質的な欲望を解き放った「アメリカン・ドリーム」を、彼は「たとえ全世界を手に入れても、己の魂を失うならば、何の利益があるだろうか」というマタイ伝の言葉を引用して、痛烈に非難しました。

最後に、これを書いていると音楽が頭の中に流れて来ました。「インターナショナル」です。(笑)社会主義・共産主義を代表する曲で、ソビエト連邦では十月革命(1917年)から第二次世界大戦(1944年)まで国歌になっていましたし、日本でも労働歌として歌われていた曲です。

しかし、この曲は実は共産主義の為に生まれたわけではなく、ソ連や中国の誕生以前からあった曲だということを、事実として知っておくべきです。そもそもこの詩は誕生した時は、フランスの「ラ・マルセイエーズ」の曲にあわせて歌われていたのです。僕は左思想は基本的に好きではありませんが、「インターナショナル」や、ロシア民謡のメロディは、なぜか大好きです。小さい時に聴いた「パルナス」の曲のせい??(笑)ちなみに映画レッズは、「インターナショナル」をフルコーラス流した、唯一のアメリカ映画です。

 

アランシャペル ~神戸ポートピア・ホテル

2019-11-08 | 昭和の喫茶店

「昭和の喫茶店」シリーズですが、今日の話題は、「フランス料理」についてです。

僕は大学時代に、高級料理店と言われるお店にいくつか足を運びました。就職した後で、誰とどんなお店に行っても緊張しないで済むようにするのが目的でした。そもそもホテル・プラザのレストランでアルバイトをした経験もあり、そこのシェフに「シャリアピン・ステーキ」の作り方を直伝してもらった時は、料理って楽しいと感じました。

最初に行ったフランス料理は1981年の夏。ギャザ阪急の1階にあったお店で、名前は忘れてしまいました。フルコースを初めて食べた感想は、ちまちま料理が出て来て、どのお皿も一口で、全て終わった時に全く満腹感がなく、立ち食いそば屋に直行しました。

次に翌年、江坂にあったフレンチに行った時は、「やっぱりフレンチと言えばエスカルゴでしょう・・」と、緑のスープに置かれたエスカルゴ料理を食べたのですが、食後気分が悪くなって・・・吐きました。😨

そんな時です、友人がフランス料理なら「アラン・シャペル」だと教えてくれたのは。フランス料理界に多大な影響を与えた料理人、アラン・シャペル。フランス郊外リヨンのレストランオーナーで36才の時、史上最年少でミシュラン三ツ星を獲得したフランスを代表する料理人。(1990年に52歳で急逝)1981年にポートピア博覧会開催と同時に開業した、ポートピアホテルの31階にオープンしたのがフランス料理店「アラン・シャペル」でした。当時の皇太子も足を運んだお店で、フランスの本店の管理の元、母国と同じものを出すお店でした。シャペル本人も年に何度か来日していました。

覚えているのは、ワインは分からないのでシャンパンを注文したこと。何十種類ものチーズの乗ったプレートから2種のチーズを選ばされたものの、カビが生えているものやら臭いものばかりで閉口したこと。デザートが多かったこと。うなぎのパイがコースに含まれていたこと。そして、勘定が2人で13万円したことです。当時のアルバイト代を一食に「清水の舞台から飛び降りる気持ち」で注ぎ込みました。(笑)正直、お店の雰囲気に物凄く緊張しました。上の写真をご覧下さい。この雰囲気に加えて、周囲は大人ばかり。大学生には場違いでした。(笑)

フィンガーボウルを知らずに、「これは何ですか?」と質問もしました。知ったかぶりは絶対にバレると思い、いろんな質問をお店でして、1つ1つに親切に答えてもらえた所に、良いお店だという印象を持ちました。でも、味は・・・美味しいとは思いませんでした。

その後本場フランスで三ツ星や二ツ星のお店も行きましたが、フランス料理を美味しいと心から思ったことは、残念ながらまだ1度もありません。(笑)料理は人それぞれ好き好きですよね。


日本の秋は、世界でも素晴らしい!

2019-11-01 | ぶらり散歩

日本にいると分からないのですが、日本の秋はとても素晴らしい。

勿論北米でも、秋の景色は素晴らしい所はありますが、日本は日本中どこに行っても秋を満喫できます!

この写真はカリフォルニアで僕が撮ったものです。



綺麗な色に染まった木ではありますが、ほんの僅かな木だけが色づき、他は変わらない。そういう景色があちこちで見えます。秋はそんな感じです。日本の紅葉の名所のような所は、なかなか身近なところにはありません。

日本の秋が素晴らしいということが、お分かり頂けるでしょうか?