青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

昭和の社会見学は小さな夢を見た!

2023-01-31 | 昭和・思い出は色褪せない

前回の社会見学に続き、こちらも社会見学の写真です。こちらは昭和40年代の大阪・池田市のダイハツ工場です。

僕が見たホンダやダイハツの生産ラインはほとんど無人で、人はロボットなどに指令を出す機械の操作をしているだけでした。人間の姿はしていないけど、溶接をしたり、いろんな機械=ロボットが組み立て作業をしていました。上の写真のように車をまるまる塗料につけたり、強い光を当てて乾かしたり、鉄腕アトム等で見る未来の光景のようでした。

カッコイイ車の設計をしたいという友達もいれば、もっと大きな外車に乗りたいという友達もいましたが、みんな将来についての小さくても夢を語っていました。

今はコンビニやスーパーのレジに体験学習に立ち、お金を稼ぐのは大変なんだよと子供に教えます。そんなことは親の背中を見れば良い事で、子供には夢を与えてあげたい。小銭を稼ぐことが大変だなんて言わなくていいし、「君たちはこんな所で働かないように頑張って勉強しろよ」と、大人には言ってもらいたい。

平成に入ってからも、自動車の組み立てラインでは大勢の人が働いていました。タイヤをはめる人、フロントガラスをはめ込む人、大勢の人が自分の手足を使って働いていました。それを見て、「世の中には高級車を買って乗る人もいれば、運転手に運転させる人もいる。逆に、組み立てはしているけど、買うことも出来ない人もいる。僕は買える人になりたいから、今はとりあえず勉強する」と僕の子供が言いました。

子供は身体を鍛えたり、勉強したり、友達をつくって人間関係の築き方やコミュニケーションを学ぶことが大切で、その結果人生の選択肢が増えればOK。勉強を通じて考える力を身に付けることが大切です。そうすれば他人の痛みも分かる人間になる。

ただ、そんなにお金があっても仕方がない、異性と付き合うのは面倒、そういうことを言う人にならないで欲しいというのが僕の個人的な子供への願い。何かを買うことが出来る人がいらないと言うのと、買えない人がいらないというのは違うし、異性にもてて仕方がない人が面倒というのと、1度も交際したこともない人が彼氏や彼女なんて面倒と言うのはかなり違うと思うからです。


昭和の社会見学 ~子供たちは何を学ぶ?

2023-01-30 | 昭和・思い出は色褪せない

僕が小学生だった昭和40年代はじめ。年に1回、数年間「社会見学」がありました。

もう記憶も定かではありませんが、中でも印象に残っているのは警察所、消防署。消防署では火の見やぐらにも上りました。新聞社では今は無くなった職業、「活字」を1文字1文字ピンセットで拾って、新聞の印刷原紙を組んでいく所や輪転機が回る所も見ました。勿論新聞記者の方から取材の話も聞きました。ダイハツや本田のコンピュータ制御された、当時最新の工場も見学しました。面白かったり、ワクワクしたり、社会見学は楽しかった。

写真は第一屋製パン大阪空港工場を、小学生が見学した時のもので、昭和53年(1978年)撮影。社会見学に来た小学生に、食パンの製造ラインの説明を行っている所です。「第一パン」で知られる第一屋製パンは、昭和48年に大阪空港工場を開きました。

今も子供たちに「社会見学」はあるのでしょうか?

今、「社会体験学習」というものが子供たちに行われています。コンビニやスーパーで働く経験を積んだりするものです。受け入れ側の企業の都合も考えず、児童だけが約束の時間の30分から1時間前にやって来て、企業の仕事の邪魔をしたり、先生がそもそも社会経験がありませんので、いろんな迷惑を掛けて来ます。これって必要なのか?と何度も思ったことがあります。

多くの人子供たちが体験するものは、高校生にでもなればアルバイトで経験出来ることばかりです。更に口汚く言えば、誰にでも出来る下々の仕事。子供の時から働きアリになれと教えるような体験が、本当に必要なのでしょうか?

人の命を救う現場、誰かを助ける現場、人の上に立つような収入もやりがいもあるような現場・・子供たちが「いつかこんな仕事をしたい」というものを見せるなら分かるのですが、そうではない体験をさせてどうするのでしょう?自分の子供がコンビニでの仕事を数日体験し、大きくなったらコンビニで働きたい。「いろんなお菓子や食べ物があって、店内整理は勉強よりも面白かった」等と言い出したらどうするのでしょう。

不必要なことは止めるべき・・世の中にはそういうものが多過ぎると思います。


アサヒビールと歩んだ “国鉄・吹田駅”

2023-01-29 | 昭和・懐かしい北摂の風景

大阪府吹田市を代表する駅と言えば、「東海道本線のJR吹田駅」と言いたい所ですが、約39万人の人口を抱える吹田市で、最も乗降客の多い駅はここではありません。それは、北大阪急行の「江坂駅」で、こちらは2番目に乗降客の多い駅です。

この写真は昭和40年代後半(1970年代前半)の、まだ「国鉄」と呼ばれていた時代の吹田駅で、駅前再開発以前の国鉄吹田駅中央口駅舎です。僕が子供の頃はこういう景色が当たり前でした。

小さな駅舎が人で満ち溢れ、信号のない駅前の横断歩道は、いつも人とタクシーが入り乱れていました。

この国鉄吹田駅南側の再開発計画は、1970年の大阪万博の前年、昭和44年秋に定まりました。そして、そこから10年を経て、1979年(昭和54年)の8月1日に現在の中央口駅舎が使用開始となったのです。更に2カ月後の10月、駅周辺の再開発が完成、駅ビルを含む商業施設「吹田さんくす」が開業となります。

阪急電車・千里線にも吹田駅があり、吹田市役所にはそちらの方が遥かに近い。JR吹田駅は目の前のアサヒビール吹田工場(アサヒビール発祥の地)との関係が深く、昭和59年(1984年)までは、工場まで国鉄の専用線が続いていて、貨物輸送が直接行われていたのです。

こういう写真を見ると、本当に昭和は遠くになってしまいました。


百又ビルでの奇蹟!~三番街シネマ

2023-01-28 | 昭和の映画館

イースクエア茶屋町・・・僕には「百又ビル」と言わないと分かりません。(笑)

このビルの4・5・6階に三番街シネマがありました。1975年に「シネマ1」がオープン。2階席もあった大きなハコでした。そして「シネマ2」1977年には「シネマ3」がオープンし、僕らは三番街シネマという正式名称では呼ばず、「百又」もしくは「シネマ・ワンツースリー」と呼んだものです。下の写真は看板が真っ白ですが、ここに「百又」と書かれていました。

映画のチラシブームの真っ只中にオープン。よく窓口にチラシだけを貰いに行ったものです。オープン当初はナビオ阪急が出来る前の北野劇場やOS劇場等の大きな単館の映画館に慣れていたので、1つのビルに3つもあるスクリーンも小さな映画館は、同じ料金を払うなら損・・なんて思ったものでした。

おまけにボーリング場やビリヤード、ゲームセンターもある百又ビル。映画を観てたらボーリングの音が聞こえて来てうるさいという、まことしやかな噂まで流れていました。

しかし、僕はここで沢山映画を観ました「007私を愛したスパイ」「マイウエイ」「人間の証明」「アーバンカウボーイ」や「カリギュラ」なんていうものまで。

「13日の金曜日」「プロ野球を10倍楽しむ方法」「13日の金曜日パート3」は3D映画でした。「プロジェクトA」「黄昏」「ヤア!ブロードストリート」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」・・・

「トップガン」「ハバナ」「ハスラー2」「パリ、テキサス」「ジュラシック・パーク」、いろんな映画を楽しみました。(写真はシネマ1)ここは、小さなエレベーターがちょこんとあっただけなので、6階まで歩いて上る下りるなんて普通でした。地下には「ザ・バーボンハウス」というライブハウスもありましたね。ここのステージでドラムを叩いたこともありました。しかし、80年代後半からは仕事が忙しくなり、徐々に映画館に行くことが難しくなりました。

ここで1番僕の記憶に残っていることは・・・1階入り口の右側のテナントには、現在は百又ビル時代からのパチンコ屋が入っています。その前は実はマクドナルドでした。問題はその前。80年代初頭は喫茶店「百番館」でした。マッチの頭が赤ではなく、黒いマッチ。当時の僕はタバコを吸っていましたので、記念にマッチを持って帰りました。

紀伊国屋書店~グランドビルの「ダイガレコード」、曽根崎警察横の旭屋書店本店を回り、「ビッグピンク」に寄ってから、東通り方面に向かって梅田界隈の中古レコード店「LPコーナー」や「ダン」「リバーサイド」と歩き回って、疲れて入ったのが「百番館」。

遠目にもウエイトレスさんが凄く綺麗で見とれていると、その女性がオーダーを取りに来てくれたのですが、これが何と何年も前に僕が憧れたマドンナ!ここでアルバイトをしていたのです。偶然の再会に疲れは吹っ飛ぶし、その日の戦利品が色褪せてしまい、ただただ彼女の美しさに雷に打たれたようにドキドキしたのを今でも覚えています。アルバイトの邪魔をしてはいけないと遠慮しましたが、短い時間に交わした久しぶりの挨拶のような会話が嬉しかった。「どうしてお前が、あんな美人と知り合いなの?」と、友人に訊かれましたが、心から「一緒に勉強してた仲だから」と自慢しました!(笑)

今でもタワレコやジュンク堂に行く際、このビルの前を通ると、この日の奇蹟の再会のことを思い出します。もう30年以上も昔の事ですが、若い時の恋心は今も色褪せません。

そんな思い出の映画館や喫茶店があった場所も、近隣の多くのシネコンにお客を奪われ、2007年9月24日に閉館。最後の上映作品は、シネマ1~「もののけ姫」、シネマ2~「お葬式」、シネマ3~「サタデー・ナイト・フィーバー」でした。

そして、翌2008年6月13日にはこのビルが「百又ビル」から「イースクエア茶屋町」に改名し飲食店舗ビルとしてリニューアルオープンした・・というのは世間の記録で、この日、青春の百又ビルが消えたというのが、僕の自分史における公式記録です。

この地図は1980年代はじめの梅田の地図です。懐かしい名前がいくつも載っていますよ。


学校が出来るまで!~子供がどんどん増えた時代

2023-01-27 | 昭和・懐かしい北摂の風景

僕が子供の頃は、子供がどんどん増えて行く時代で、小学校・中学校は10クラスありましたし、入学から卒業までの間に、生徒・クラスメート達が何百人かいなくなる事件もありました。子供の増加で学校がどんどん建設され、増えて行く時代だったので、自宅から近い新設校に転校するわけです。だから、卒業アルバムには載っていない仲の良い友達がいた・・ということが起きる。

今のように廃校・統合が普通になるのと逆の現象が起きていました。「またまた学校が増えた」というニュースを若い時に聞き、今は「また学校が無くなった」という話を聞く。世の中って、ほんの短い間に一気に変わるものだと実感します。

ここは阪急・宝塚線の石橋駅(現・石橋阪大前駅)と蛍池駅の中間にあった「前池」です。前池を知らなくても、「カルピス池」と聞けば分かる人が、僕以上の年齢の人には多くいます。(笑)そう、カルピスの大きな看板があるから、カルピス池と本当に呼ばれていたのです。

この池は寛文7年(1667年)に築造された、「ため池」でした。写真手前には阪急宝塚線の線路が見えます。写真は昭和40年(1965年)頃のものです。

大阪の北摂地域には「ため池」が本当に多く、昭和40年代後半から50年代には次々と埋め立てられ、小学校、中学校、公園、マンションに姿を変えて行きました。今ではここは昔は池で、ゲンゴロウも獲れたと言っても、冗談としか思えないほど町の景色が変わりました。

上は昭和46年の写真で、カルピス池(前池)を埋め立てている所です。

そして、そこに石橋南小学校を建設しました。昭和47年(1972年)に学校は完成しました。広いグランドに南向きの校庭。完成した時は、綺麗で羨ましく思ったものです。僕が学んだ小学校は創立100周年を迎える学校で、僕が入学した時には木造校舎。そこから徐々に鉄筋校舎に建替えが進み、卒業前には渡り廊下で校舎間をつないだり、増築・改築の繰り返しで落ち着きが無く、入学時と卒業時では別の学校のようでした。

平成16年(2004年)の光景です。周囲の環境も随分変わりました。

学校は小学校から大学までどんどん増え、今はどんどん無くなる時代です。Fクラスではなく知名度も難易度も高い大学でさえ、歴史に幕を下ろした所も少なくありません。

最近聞くのは教育の中身とは全く関係の無い、「統合による新設校の名前をどうするか?問題」。名付け親になりたい政治家か誰かが、新しい学校名をごり押しして住民運動で反対されたり、学校を巡る名前問題があちこちで起きているようです。

学校がどんどん減り、学校が生徒の取り合いをしている。一方少子高齢化問題は益々待ったなし。このままでは日本は移民政策を取らざるを得なくなる。恐らく治安も悪くなって行くでしょう。ところが待機児童問題やら、保育園等の不足が取り上げられる。言ってはいけないのかも知れませんが、子供を持つ親の貧富の問題、収入格差の問題としか思えません。そういう肝心な点を明確にして解決を図らないと、何の解決も出来ないと思うのですが・・・。

少なくとも僕の世代、僕の先輩・友人達は結婚し、子育てをしながらマイホームを買い、子供を塾や習い事に行かせたりしながら大学卒業まで育てました。授業料無料でもなく、今のように国や自治体の手厚い子育て支援などありませんでした。少子高齢化は問題ですが、そのためにお金を援助しないといけないというのは、ちょっと違うと思います。何かにつけて子供一人当たり何万円というバラマキ政策を聞くたびに、「?」が頭に浮かびます。