青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

王監督退任・不世出の野球人 ~情熱は消えることなく・・・

2008-09-24 | スポーツの話題

僕の世代は多くの人が、巨人ファン。いや、ON(王・長嶋)のファンだったと思います。漫画と言えば「巨人の星」「侍・ジャイアンツ」など、多くが巨人軍を舞台にしたものばかり。野球帽と言えば巨人軍のものしか売っていませんでした。記憶の長嶋、記録の王などと言われますが、二人共間違いなく我々の世代のヒーローでした。その一方の雄、王監督がプロ野球界に入って半世紀が経った50年目の今日、遂に長きキャリアにピリオドを打ちました。これまで本当に「ありがとう」。

甲子園球場には何度も王・長嶋を観戦に行きました。甲子園の阪神側スタンドでは、いくら僕でも巨人の応援は出来ませんでした。(笑)命がいくらあっても足りません。1番お気に入りの観戦場所はジャイアンツのレフト側外野応援席でした。焼きそばを食べながら観戦したものです。ナイターは結構冷える時もありました。V9時代にも観戦には行っています。

でも王さんと個人的に会ったのは、1度だけ。神戸オリエンタルホテルがホークスの宿泊場所になっていたのですが、そこに偶然仕事で缶詰になっている時、会えたらいいなと思っていた王監督に会うと言う念願が叶いました。勿論サインも頂きました!

プロ野球・福岡ソフトバンクホークスの王貞治監督(68)が23日、ユニホームを脱ぐことを決意した。王貞治という不世出の野球人が、プロのユニホームに初めて袖を通して今季が50年目。野球界を牽引し続けた『世界の王』が、長きキャリアにピリオドを打った。(その内19年間が監督)前身のダイエー時代の95年に監督に就任して14年。巨人の監督時代を含めると19年間の監督生活にも終止符を打った。「14年間、私は幸せでした」。1時間に及ぶ会見で、歩んできた野球人生を振り返った。

「ユニホームを着て戦いながら、グラウンドで死ねたらいい。いくつまででも(監督を)できると思っていた。でも、手術をしてから、体重も減った。足下もおぼつかないといえば、語弊がありますが、自分の足ではない感じもしました…」

WBCで世界の頂点に立った2006年。胃がんが発覚し、胃の全摘出手術を受けた。85キロだった体重は15キロ以上減った。先月14日のロッテ戦(千葉マリン)では体調不良でベンチ入りができなかった。酷暑の試合前は監督室で横になり、体力を温存したときもあり「現場の最前線で『突撃』という立場の人間がこれでは、士気に影響する」。

グラウンドには、立ち続けたい。しかし「選手というのは、監督を見ているもの」。体調不良を押し隠していても、ちょっとしたしぐさで、気づかれる…。陣頭指揮に耐えるだけの体力に、自信が持てなくなった。さらに今月に入って、3勝14敗と失速したのも決断のひとつの要因になった。

今月20日の試合前、球団側に、正式に辞意を申し入れた。孫オーナーの慰留にも「私は頑固。わがままを受け入れてもらい、ありがたい」。この日の試合前、戦線離脱中の斉藤、小久保、川崎も呼び、全選手、スタッフの前で、今季限りで監督を辞する決意を伝えた。

「ひとつの道に、どっぷりつかって、68歳になっても、ときめかせてもらえて、幸せでした」

巨人監督時代は日本一になれず、ダイエーの監督就任直後も低迷。2年目の1996年、遠征中の移動バスに生卵をぶつけられた。『名選手、名監督ならず』-。しかし、球界の“通説”に、王監督は立ち向かった。小久保、松中を一流打者に育て、城島、井口をメジャーへ羽ばたかせた。かつての主将・秋山に2軍監督を経験させ、昨季からは、ヘッド格として帝王学を伝授。王イズムの継承態勢も万全だ。

来年3月に開催が迫った第2回WBC。「日本球界で必要とされ、求められるのなら、進んで協力すべきと思う」と“総監督的立場”での尽力を惜しまないことも改めて表明した。ユニホームは、いったん脱ぐ。しかし、野球への情熱は、決して、王の心から消えることは、あり得ない。

■ 阪神・星野仙一シニアディレクターの話
「今までずっと王貞治という看板を背負ってこられた方だから、体力面に不安を感じた2年間はつらいシーズンだったと思う。北京五輪で負けて日本に帰ってきた時に、電話で励まされたことは一生忘れません。今はゆっくりと体を休めてください」

■ 長嶋茂雄・元巨人監督の話
「ダイエー、ソフトバンクで14年間、本当にお疲れさまでした。大病を患った後も、多くのファンや野球界のために指揮をとり続けた情熱には頭が下がります。今のパ・リーグの盛り上がりも、王監督の努力があったからこそと思います。個人的には2000年の日本選手権(日本シリーズ)に、お互い監督として戦えたのがとてもいい思い出になっています。王監督がユニホームを着ていない野球界は寂しく思え、非常に残念ではありますが、しばらくはゆっくりしてください」

 

王監督の主な一問一答

23日、福岡市内のホテルで開かれた退任記者会見でプロ野球ソフトバンク・王貞治監督(68)は寂しさをにじませながら輝かしい半生を振り返った。福岡に根付いて14年、駆け付けたファンから「お疲れさまでした」と大きな声が飛んだ。

――病気をしてから
「体力に自信はあったが、面はゆい、じれったいという思いで過ごしてきた2年間だった」

――体調面は
「グラウンドでユニホームを着て死んでもいいという思いがあったが、手術してから体重も減ったし、自分の足ではないような思いをすることがあった」

――昨季終了後、今年が「最後の年のつもり」と選手に伝えた
「監督生命を懸けて、と話したことで、かえってプレッシャーをかけてしまった。一番の反省点」

――チームは5位
「結果責任は当然ある。流れを変える大きな動きが必要と感じた。(チームが)生まれ変わるためにも、監督交代が必要だと」

――不本意な成績で退任
「最後を飾って、ということは、自分自身思っていなかった。すべて丸くいけば最高だが、なかなかそうもいかない」

――ここまで振り返って
「プロ野球に入って50年。本当にいい人生を歩ませてもらった。心をときめかせて、やらせてもらったのは幸せだった」

――退任を決意するまで
「激しい気持ちの揺れ動きはあった。正式に表明でき、ほっとしている」

――監督復帰は
「現時点では考えていない。東京に家はあるが、福岡は自由に動ける拠点にしたいと思っている」

――今後の野球界とのかかわりについて
「必要とされることがあり求められたら、進んで協力すべきだと思っている」

――辞意を表明した今の気持ちは?
「選手を辞めるときも葛藤がありました。自分の中で辞めるときではないか、まだやれるという気持ちの中で引退を表明したのが40歳のときでした。今回、すごく似た心境でした。気持ちの激しい揺れがありましたが、正式に表明できたことにはホッとしたという気持ちもあります。これからは前に突き進むだけ、ですから。

元気なときはいつまでも(監督業を)できると体力に自信を持っていましたが、(2006年に)手術をしてからは体重も減りましたし、足も自分のものではないような感覚を持ったときもありました。"監督"とは現場で最前線に立って先頭を切っていかないといけないものだと思っています。試合を重ねていくうちに(現在の自分では)指揮に影響するという想いが強くなりました」。

――ファンの皆さまへメッセージを
「私は14年間でしたが、ホークスが福岡にやってきて20年。弱かった時代も、強くなってからも、優勝から遠ざかっているときでも、本当にファンの皆さんが常に熱烈な応援をしていただきました。九州唯一の球団だからでしょうか、その距離をものすごく近く感じていました。熱意が直に伝わってくる感じがしていました。その熱意に支えられて戦ってこられたと思っています。この14年間、私は本当に幸せでした。これからもそのようなファンに支えられて戦っていく若い選手たちも本当に幸せだと思います。これからの大いなる可能性のあるホークスを、ファンの皆さんと一緒に見守っていきたいと思っています。また、第2の故郷でもある福岡、私の野球人生の中でも大きな割合を占めるホークスを想う気持ちはますます強くなると思います。何かできることがあれば100パーセント力を出し切りたいと思っています」。


上田馬之助の意外なエピソード

2008-09-10 | スポーツの話題

このサインは、悪役レスラーとして1時代を築いた、上田馬之助さんからもらったもの。日本プロレス時代のもので、僕がまだ小学生。親切にサインをしてくれました。「まだら狼」なんて言われる何年も前のことです。

大相撲から日本プロレスに入門。ダブル・リストロックを得意技とし、当時の上田の試合には派手さがなかったため、観客が眠ってしまう事がしばしばあり、そのために眠狂四郎というあだ名をつけられていました。しかし日本プロレス崩壊後、前髪を金色に染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身(後に髪全部を染め、「金狼」と呼ばれるようになる)、ヒールとして凶悪ファイトに徹するようになり、日本マットでは初の本格日本人ヒールとして注目を集めました。

1977年1月に新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成して北米タッグ王座を獲得し、一躍トップヒールとなった。その後、シンとは仲間割れもあったが、長く悪の名コンビとして日本マットを血で染め続けた。

1996年3月に東北自動車道で、西濃運輸との不慮の交通事故に遭遇。フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられ、普通の人なら即死だっただろうと言われる大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていた事に加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていた事で一命を取り留めた。本人は車が衝突した瞬間以降の事は覚えていないらしい。

その事故により脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされた。1998年4月16日に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っている。

常に竹刀を片手にし、レスラー人生を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。また、高いプロ意識の持ち主であったことが言動の随所に表れている。

1.ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。

2.場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老婆を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。

3.徹底したヒールキャラを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。しかし、現在行っている施設慰問は現役当時から続けているもので、訪問先では「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。

4.茅ヶ崎のダウン症の子供たち向けに焼き物を作ることを通して、コミュニケーション能力を教えている施設の遠足会には「荷物持ちのおじちゃん」として参加。川原でのバーベキュー等でも活躍。

5.引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞き「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若いやつが死ななきゃならないんだ」と号泣した。

6.交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために今尚、来場時にはトレードマークの金髪に染めている。

7.深夜、会場からの出待ちをしていた中学生に、隠し撮りをされたことがあった。気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けた。

8.日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようとしていた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていた。ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。

上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」と語っている。上田は「証拠となるメモも残っている」と語っており、これが事実なら定説が覆ることになるが、今となっては馬場を含め当時の関係者の多くが亡くなっていて事実関係を検証するのは困難であり、真相は藪の中というのが現状である。

いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、その後日本プロレスは崩壊し「全日本プロレス」と「新日本プロレス」が誕生した。馬場は、この事件についてその後一切語っていない。

上田は引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語り、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。

山本小鉄は「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。また1992年に大熊元司が没した際、上田に不信感を持つ馬場は、大熊の訃報すら上田に伝えなかったため、「祝儀不祝儀の付き合いも断つのか」と涙ながらに激怒した。


今、そこにある危機!

2008-09-01 | ぶらり散歩

地下鉄に乗っていて、ぜひ皆さんに見て頂きたいポスターを見つけました。

最近「誰でもよかった・・・」等とふざけたことを言って、実行する殺人事件が急増しています。“同時性の法則”などと言うマスコミもいますが、人真似をする馬鹿が多いのです。もう1つは、それだけ病んでいる人々が多いということです。しかしこのような犯罪は、犯罪者がいつ、どこで、誰を狙うかが分からず、被害者になる危険性を持つ一般の人々は非常に不利です。僕も人混みの中では勿論、本屋にいつ時間も短くしていますし、挙動不審の人を見れば、電車の車両を例え座れなくなろうと移動するようにしています。

でも、このポスター・・・。「STOP暴力」「キレたとか、ムカついたなんて、理由にはならない」と、とてもいいポスターではあると思いますが、どの程度犯罪に対して抑止力を持つでしょう。このポスターを見て、その通りだと思ったら、ぜひ自分の身の周りの人に、そういう人がいないかどうかを見て、もし気になる人がいたら、ぜひ早目の対応を、個人の出来る範囲で行っていくしかないと思います。

今ご紹介したポスターは、東京の地下鉄ですが、西、つまり大阪ではもっと強烈なポスターが駅のホームに貼っています。

「逃げるな。」大きな○が入っています。そして「悪と真正面から向き合おう」と書いています。東京より強烈!これは実は、大阪府警の警察官募集のポスターなのです。昔と勧誘のキャッチコピーが、えらく変わったものです。自分達の社会を自分達で守る為に、「逃げるな。」です。

どちらのポスターがどうではなく、こういうポスターが日本中に貼られなければならないという現実から、決して目を背けてはならないと自戒しました。皆さんも、帰宅時間は早目にする。明るい道を通る。1番危険なのは自宅にいる時である(最近自宅や自宅から連れ去られ殺されるケースが多い!)ことを忘れずに、危機管理を真剣に考えて下さい。