青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

庄内 ~阪急宝塚線・今昔物語

2021-06-30 | 昭和・懐かしい北摂の風景

この写真の場所は知らなくても、この場所を電車で通過した覚えは、阪急宝塚線に乗った人ならあるはずです。大阪梅田駅に向かって庄内駅を出発してすぐの鉄橋です。

撮影した場所は、車窓からも見える線路西側の矢吹産婦人科とササモト歯科の辺りです。この産婦人科は僕の妹が、子供を出産した場所。



撮影現場、白黒は昭和30年代。カラーは数年前のものです。昔はどこの駅と駅の間も、この写真のように線路にまで入って行くのが簡単でした。絶対にやってはいけない、硬貨を線路に置いてプレスなんてことも可能でした。ところが今は、線路への侵入はなかなか出来ないようになっています。

なのに、宝塚線はこの庄内付近での人身事故が、昔から多い。ほとんどが高架になった中、服部~庄内間はそのままだからかも知れませんが、同じように高架になっていない蛍池~石橋間ではそれほど人身事故はありません。土地柄の違いなのかも知れません。

タケモトピアノのCMで知られる、タレントの財津一郎も、僕が生まれた頃はこの辺りに住んでいたそうです。

もう少し庄内駅に近づけば、キリンドー、商店街の中には大きなダイエーのビルも僕が小学校に入った頃にはあり、活気があったことを覚えています。曽根の駅前にダイエーが出来るまでは、この庄内のダイエーに月に1回、家族で買い物に行っていました。ここの本屋が大きくて、ウルトラマンの「怪獣図鑑」のような、ちょっと値の張る本を買ってもらい嬉しかったことは、今も忘れていません。

この本は当時の子供たちの間では、かなり人気のある本でした。友達に貸してあげたりして、なかなか常時手元に置いておくことが出来ませんでした。


小林克也 ~洋楽の旅

2021-06-29 | 本は友達・読書も大切です!

70年代~80年代に洋楽を楽しんだ世代の人であれば、「ベストヒットUSA」や「SONY MUSIC TV」を楽しんだ人は多いと思います。

プロモーションビデオを作るアーティストが増え、それを集めてTV放送する「MTV」の放送が1981年にアメリカでスタート。しかし、それよりも4か月も早い1981年4月に、そのプロモーションビデオを本格的にお茶の間に届け、日本での洋楽ブームに火をつけたのが「ベストヒットUSA」でした。

因みに米MTVの流れをそのままお茶の間に届けた「SONY MUSIC TV」は、1983年の年末に放送スタートでしたが、毎週金曜の夜11時半から2時50分までという長時間放送。この放送時間の長さは、ベータでは録画できるが、VHS標準では録画できない長さで、ベータビデオの宣伝のためでした。

80年代、ベストヒットUSAの顔だったのが、DJ活動50年、80歳を迎えた現在も「ベストヒットUSA」やラジオ番組5本のパーソナリティーを務める小林克也氏でした。ラジオを聴いて独学で身につけた英語力と美声を活かし、数多くの洋楽を紹介しその魅力を伝え、「ベストヒットUSA」では自ら英語でインタビューを行い、海外ミュージシャンのナマの声を引き出しました。

この本では、こうした小林氏の活動の歴史やDJ/VJとしてのありよう、番組でのエピソード、そしてこれまでに出会った海外ミュージシャンたちについてたっぷりと紹介しています。当時のことを懐かしむだけではなく、今改めて知るエピソードが満載の1冊です。洋楽好きの方に、オススメします!


サンタモニカ ~箕面・80年代を象徴する喫茶店~

2021-06-28 | 昭和の喫茶店

大阪は北摂・箕面。新御堂筋の北側突き当り(箕面)と、国道171号線の間にあった喫茶店「サンタモニカ」を懐かしむ人は多いと思います。80年代の好景気の波と共に、この辺りには沢山の素敵なお店が建ち並びました。

真っ白な建物、店内のイスやテーブルや壁も白で統一。駐車場には星条旗、オレンジ色のポロシャツとジーンズをユニフォームにした店員さん。大型プロジェクターで、洋楽ビデオクリップや、フラッシュダンスなどの洋画のビデオを流していました。ゆったり座れる座席が心地よく、午前も夜中も楽しめました。アイスコーヒーとハンバーガーをセットでオーダーしたことが多かったと記憶しています。

自動車を持っていないと行くことが出来なかったお店。だから、カップルがデートで来ているのがほとんど。車とGFもしくはBFがいた人は、絶対にここに足を運んだはずです。

辺りはまだまだ田畑が多く、のんびりした風景の箕面。これは当時の地図です。「みのおキューズモール」がここに出来ることなど誰も想像もしなかった。(笑)突き当りを東西に走る道沿いを東に向かうと、ヒロヤマガタラッセンのシルクスクリーンを販売するお店もありました。書店や喫茶店、レンタルビデオ屋も、この道沿いにはありました。

1990年代に入っていつの間にか、新御堂筋沿いの箕面~江坂間にあったキラ星のような素敵な喫茶店&レストランは、1軒ずつ店を閉め始め、現在ではそこにお店があった面影さえも全くないのは、本当に寂しい限りです。

同時に昔は多かったラブホテル(ファッションホテル)も今ではどんどん姿を消しています。男と女が出会い、楽しみ、一緒に過ごす場所が激減し、車にもスポーツにも異性にも興味のないスマホ・ゲーム&ネット族が増加すれば、少子高齢化も当然の流れなのかも知れません。

ラブホテルの多くが、今は素知らぬ顔で、葬祭場になっているのをご存知ですか?何か、罰当たりな・・と思ってしまいます。普通の分譲マンションにして販売しているのも呆れますが・・。知らずにお葬式をあげたり、マンションに住んでいる人が気の毒になります。


すかいらーく ~ファミレスにもお世話になりました

2021-06-27 | 昭和の喫茶店

昭和の(1部平成も入りますが)喫茶店を紹介するシリーズですが、僕が若い時にお世話になったお店と言えば、ファミレスも忘れてはなりません。

まずは「すかいらーく」から。ロイヤルホストやフォルクス等に比べると、食事メニューも軽く、値段もやや安かった「すかいらーく」。それでも、昭和の僕が高校~大学生の当時はセルフサービスでは無かったし、24時間営業だったことが嬉しかった。

大学生時代は自動車で、皆ウロウロしていましたから、夜中に友人とここで会ったりすることも多かった。僕が利用していたすかいらーくは、豊中の走井交差点のすぐ南にありました。現在はマクドナルド空港線走井店に今は変わっています。



何度もいろんな友人と夜中に行った割には、食べた物が記憶に残っていない(笑)大阪ではかなり早い段階で、すかいらーくは「ガスト」に変身し、お店も料理も安くなって、客筋が悪くなったと僕は認識しています。空腹を満たすだけの目的であっても、デートで立ち寄るには不向きになったという意味です。



因みに、このお店に隣接する「餃子の王将・空港線豊中店」は、全国に数多くある「餃子の王将」の中で、ダントツの売上げを誇り、開店以来34年間売上げ全国1位をキープしているお店で、1日2,500人のお客さんが来店、3,000人前の餃子が売れているそうです。


世界格闘技の日 ~猪木・アリ戦から45年!

2021-06-26 | 素晴らしかった興行・イベント
 
今日は「世界格闘技の日」。1976年(昭和51年)6月26日、「格闘技世界一決定戦アントニオ猪木 VS モハメド・アリ」が行われたことにちなんで、2016年(平成28年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録されました。
 
 
あの日は土曜日で、お昼と夜の2度、TV放送がありました。実際には世紀の一戦は、アメリカの視聴者に合わせて午前11時50分にゴングは鳴りました。午後1時から2時30分の放送も実は録画放送だったのですが、僕は生放送だと思っていました。
 
学校のホームルームが終わってからの帰宅では間に合わないので、早退してTVの前に座りました。夜の再放送午後7時半~9時も、勿論観ました。あの時も今も、真剣勝負の迫力は全く色褪せないし、よくぞ実現に漕ぎ着けた試合だと思います。18億円ものファイトマネーをアリの為に用意し、東洋の名も無いプロレスラーが、世界の英雄「ボクシング・ヘビー級・現役世界チャンピオン」アリをリングに上げて試合を行ったことだけでも偉業です。
 
視聴率は昼の部が平均46%、瞬間最高視聴率は54.6%。夜の再放送が平均19%を獲得したのも、今考えても凄い数字です。
 
 
ところが日本人は人のやらないこと、出来ないことをする人を敬うのではなく、やっかみ引きずり下ろすのが大好きな国民性。総合格闘技が広く知れ渡った現在では、「究極の名勝負」とプロからもファンからも称えられる試合ですが、当時は散々マスコミが叩きました。試合開始前まで、ルールが決定しなかった為に、マスコミや観客に対して、ルールが事前に正確に示されなかったこと。期待が大き過ぎたことを差し引いても、マスコミは昔から馬鹿なのが分かります。
 
 
また、当時はボクシングはキング・オブ・スポーツ、プロレスはショーと言われ、取材に当たった記者たちがボクシング担当者ばかりだったのも猪木には不運でした。
 
 
 
しかし、この時猪木がアリと試合を行ったことは、後に猪木が「闘魂外交」と言われましたが、湾岸戦争における、イラクでの日本人・人質解放に成功したり、キューバのカストロと会見を行なったり、北朝鮮とのパイプを作る等、他の日本人には絶対に出来ないことを実現することに繋がったのです。
 
 
歴史というか、人の世のことを正しく評価するには、時間が必要だということを示してくれた、僕にとってのリアルタイムの事例でした。現在のコロナウイルスへの世界の対応、五輪への日本の対応は、果たして将来、どのような評価を下されるのでしょう・・・。