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その町のシンボルと言える建物が、昔はあちこちにありました。でも、最近は町を代表する建築物が再開発によって、徐々に姿を消しています。どの町の風景も似たような駅前になりつつあるのです。人の行き交う音、人々の声は、余りの暑さだけではなく人口減少によってなりを潜め、蝉の声だけが響いています。
この風景も今は消え去りました。
煉瓦建築のアサヒビール吹田工場です。明治24年に竣工した大阪麦酒会社の吹田村醸造所を源流とし、以後、国鉄吹田駅北側のシンボルであり続けました。撮影は昭和45年(1970年)、大阪万博が同じ吹田市で開催された年です。
吹田には今でも万博のレガシーである太陽の塔が残り、万博跡地は万博公園として憩いの場所になりましたが、このアサヒビール吹田工場を始め、千里丘ミリカプール、エキスポランドの近くにあったMBS毎日放送社屋は姿を消しています。
そして次は、入居者が減り続け、老朽化も進む「千里ニュータウン」の団地群が消えて行くのでしょう。町のシンボルも時代の鏡として、その座を次代に譲り消えて行きます。
梅雨明けの話題はどこへやら・・今の話題は一体この暑さがどうなるか。本当に毎年暑くなります。僕が子供の頃とは大違い!地球温暖化のような大きな問題はさて置いても、地面が見えないこと、どこに行ってもコンクリートとアスファルトで緑も溜池も無くなったことが問題ではないでしょうか。
外に出るのが怖くなるこの暑さ。昔は真夏でも、あちこちにドライブに行ったものです。エアコン付き、カーステレオ付きの自動車が珍しかった時、頑張ってアルバイトで稼いだお金で中古のセリカを買い、思いついたら大阪から金沢まで珈琲を飲みに行ったり、日本海まで海水浴に出掛けたり、南紀白浜まで足を伸ばしたものです。
その時の忘れられないアイテムがこれ!
富士フィルムから発売されたカセットテープで、暑さに強いことが売りでした。ご存知のようにドライブ中は快適でも、喫茶店にでも入り、再び車に乗ろうとした時の車内の暑さは大変なもの。ハンドルを触ってやけどするほど熱かったという経験は、誰しもしたことがあると思います。そんな高温の車内に置いてあるカセットテープ、当然ながら置き場所によってはワカメのように伸びてしまい、テープが駄目になったり、デッキに巻き付いて動かなくなるというハプニングも日常茶飯事。
そういうことを防ぐためにも、割高ながらもこのテープを車では愛用していました。結果、トラブルは皆無でしたから、それなりに優れものだったと思います。メタルテープなどの音質を追求したカセットテープとは違った意味で、本当に思い出深いカセットテープです。
さて、このカセットで最初に録音したアルバムがこれ。
1983年に発売した、ライオネル・リッチーの大ヒットアルバム「オール・ナイト・ロング」でした。前作が良かったので発売日に購入しましたが、売れに売れました。
なぜ今日はこのカセットテープのことを思い出したかと言うと、いよいよ今週パリ五輪が開幕するからです。そう、1984年のロス五輪の閉会式に、ライオネル・リッチーが登場して「オール・ナイト・ロング」を熱唱したことを思い出したからです。「ウィ・アー・ザ・ワールド」が爆発したのは、この翌年1985年の夏のことでした。
そう言えば4年後の2028年の五輪は、3度目のロス五輪ですね。開催されるごとに五輪への興味が薄れて行きますが、1984年のロス五輪は本当に応援にも力が入りました。今年の五輪にはどんなドラマが待ち受けているのでしょう。
僕が東京に住んでいた時、ここで食事をすることが出来て心から「間に合った」と安堵したお店が2軒あります。1軒は蕎麦店「たけや」。リキスポーツパレスの近所にあったお店で、力道山の弟子のアントニオ猪木やジャイアント馬場ら、若いレスラーのたまり場になっていたお店です。(リンクから記事にどうぞ)
そしてもう1軒が今日ご紹介する「レストラン香港」です。どちらも昭和の日本プロレスと切っても切れない関係にあった懐かしいお店で、歴史に埋もれて消えて行く前に、足を運ぶことが出来た喜びを感じました。
1961年7月、渋谷に総合娯楽施設でもあるプロレスの殿堂「リキスポーツパレス」が落成。あの力道山が心血を注いで築いた大きなビルでした。このビルには、「リキレストラン」という高級西洋料理店も入っていました。力道山が亡くなり、リキスポーツパレスが売却され、リキレストランも1967年2月に閉店。このリキレストランは猪木、馬場は勿論、ルー・テーズやカール・ゴッチらも食事を摂った伝説のお店ですが、このお店のシェフだったのが髙梨正信さん。彼はその後、アントニオ猪木が興した新日本プロレスのプロモーターにもなるのですが、今日はプロモーターとしての顔の話は置いておいて・・。
その素晴らしい料理の腕前を買われながらも、髙梨さんは西落合にあった「香港」という中華屋を、名前ごと居抜きで買い取り、元々は町中華なのに、洋食屋をスタートさせます。現在のお店から数百メートル離れた場所で、67年3月に開店。開店当時はラーメンや餃子も出していたそうです。
そして、1976年8月、猪木ーアリ戦の2か月後に新築したのが現在の店舗で、店内にはプロレスファン感涙の写真や貴重なグッズが飾られています。
何も知らない人からすれば、昔ながらの町中によくあるお店。値段も安く、素通りしてしまいそう。ところが1歩中に入ればとんでもないお店なのです。
厨房の紳士がシェフの髙梨さん。
壁に貼られた懐かしいポスターや写真。写真1枚1枚にはとんでもない顔ぶれが写っています。まさに日本のプロレスの歴史。
特に貴重なものが、この上の額の中のもの。左下は1976年6月23日、京王プラザにおいて猪木の提案で「勝者賞金総取りルール」に猪木とアリがサインを入れた合意書のコピー。当事者である猪木とアリが勝手に合意し、これが大問題になり、試合前にアリ帰国かという騒動に。
実物はアリ側が回収して処分したため、本当に貴重な猪木ーアリ戦の舞台裏を示す証拠品で、その下は特別リングサイド10万円のチケット。
右上のブレザーは「IWGP実行委員」の特製ブレザー。これは猪木のマネージャーだった新間氏がIWGPの為に作らせたものながら、IWGP実行委員は実は、坂口副社長、新間専務、大塚営業部長(役職は当時)のたった3人だったのです!
このジャケットは3着しかなかったブレザーの内、大塚営業部長が着用していたもので、髙梨氏に寄贈されたもの。
またこちらは、レストラン香港の再オープンのお祝いに、猪木から贈られたサイン入りのパネルです。写真は1974年12月12日のストロング小林との再戦。
こういうお宝が店内に飾られており、肝心のお料理はリキレストランで力道山が好んだ味そのままの料理!本当にプロレスファンにはたまらないお店なのです。僕はこのお店に足を運ぶことが出来て、本当に幸せでした。
皆さんもぜひ・・・。