青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

場末の劇場で ~“悪魔の狂暴パニック”と“ザ・ダーク”

2024-02-28 | 青春・名画劇場

僕の学生時代は、レンタルビデオやレンタルレコードの商売が始まる以前。だから大好きな映画は映画館かテレビで観る、もしくは大学祭での16ミリフィルムの上映会で観ました。1本でも多くの名作を観るには、今のように観たい時に見れる配信も、レンタルも、販売DVDも無かったので、情報誌(Lマガジン)を調べて、ロードショー館だけではなく、2番館や3番館で2本立て、4本立て、果ては5本立てに足を運んだものです。テレビもそうですが、原則こちらの都合で好きな時に観ることは出来ず、映画館での興行日程、テレビの放送日時に僕が合わせないといけない。不便なようですが、今思うと懐かしい時代だし、だからこそ余計に楽しめたのでしょう。

本で紹介される名作映画だけではなく、大好きなジョン・ウェインの作品、皆が知らないマイナー作品などを年間100本以上、劇場及び試写会で片っ端から観ていました。1980年の「13日の日曜日」を皮切りとして、ホラー映画ブームに火がつく前のある日、映画専門誌「スクリーン」の公開映画紹介を見ていると、何とも言えない題名の映画に目が留まりました。「ザ・ダーク」と「悪魔の狂暴パニック」の2本立てです。

観に行ったのは1980年のことだと思います。足を運んだ劇場についてはもう記録が残っていないのですが、大阪・梅田の東映会館の劇場だったような・・・。この2作品は、どちらも専門誌「ロードジョー」には全く載っていない!ここで見逃すと恐らく2度と観ることが出来ない。映画評論家の末席を汚す者としては見逃せない!後に映画&CMプロデューサーとなった映画友達のOと一緒に、楽しみに劇場に足を運びました。ザ・ダークは映画のチラシも作られており、こちらが79年アメリカ公開映画でメイン。もう1本の悪魔の狂暴パニックは76年アメリカ公開の後、日本ではお蔵入りしていた作品でした。

この2本、後に誰に訊いても案の定「知らない」という返事ばかり。ザ・ダークの方は関西ローカルの「サンテレビ」で1度だけ放送されたことがありますが、悪魔の・・の方は二度と目にすることはありませんでした。

ザ・ダークの方は正直言って面白くなかった。ホラーのように宣伝していたのに、変質者の猟奇犯罪かと思いきや、エイリアンの仕業だったという、余りにも唐突な展開の凡作SF映画?でした。

ザ・ダークで半端ない失望感を味わい、トイレ休憩の後にサブの扱いであった悪魔の・・を観たのですが、こちらの方が不気味で面白かった。ブルーサンシャインと呼ばれる麻薬の後遺症が使用数年後に現れ、元ヒッピー達の頭髪が抜け落ちて気が狂って人々を襲うという映画でしたが、払ったお金の元を取り返さないと・・という思いからか、友人Oと「意外と面白かったな~」と鑑賞後に語った記憶があります。

当時、劇場で観た人もほとんどいないであろう2作品が、現在DVDで入手可能であるということが、本日のブログの結論で(笑)流石に驚きます。以前にもDVD化されていましたが、今度は特典が山ほど付いた上にブルーレイ化ですから。カルト作品と言うのはこうやって誕生すると言うか(笑)

友人と2人だけで観たという珍作が、今や値段の高価なカルト作品となり、ブルーレイで観ることが出来る。面白い世の中になったものだと思います。今買わないと、一生観ることが出来ませんよ!


落日の祖国・日本!

2024-02-27 | 今を考える
いつもそうですが、本日の記事はあくまでも僕個人の発する、僕の個人的見解です。言論の自由が保障されている日本だからこそ出来る発言です。不愉快に感じる方も当然いらっしゃると思いますので、そういう方はすぐに他のサイトに移動頂ければ幸いです。
 
とても難しい問題なんだけど、今もこの先も日本人は自分で自分の首を絞めて、どんどん日本という国を衰退させて行くと僕は思います。
 
給食を詰まらせて小学1年の男子児童が亡くなりました。ドクターヘリまで使ってもらって、とても残念な結果になりましたが、誰もが受けられるとは限らない扱いを受けることが出来ただけでも幸せだったと思います。亡くなったのは天命としか言いようが無い。万が一その言葉を避けるなら、こんなことで死んでしまう弱い命だった・・・としか言いようがありません。僕の人生で周囲にこういう事故はありませんでしたから。非常にレアなケースだと思います。だからこそニュースで大きく扱われる。
 
しかし世間には早くも、担任教師は、こういう時の処置を知らなかったのか?という声が。教師は医者じゃない!と言うか、日本人は他人を頼り過ぎ!そして期待が裏切られると他責にする。
 
少数派の意見を過度に受け入れ、何でも受け入れる。逆に昔からあったいろいろなことは、〇〇ハラだと叩かれる。人が強くなるために必要なのは保護ではなく、苦しい思いを何度も経験すること。そしてそこで生き残ることだと僕は考える。
 
 
今の世の中は目先のことしか見ない、考えない。とことん議論をし尽さないで、いつの間にか多様化だとか言って楽な方向に流されて行く。結果、数年後、身体的にも精神的にも今より更に弱くなった若者ばかりの国が成立しているのではないでしょうか?
 
いくら昔は口に出して言いにくい風潮だったとしても、今ほどメンタルの弱い人が大勢いなかったし、いろいろと主張なさる少数派のグループの方々が大勢いなかったと僕は考えています。ある意味、ある部分、何者かが創り出していると言うか、弱さを後押ししている気がします。
 
僕は受験地獄と言われた社会で学生時代を過ごしました。「ゆとり」などとは縁もゆかりもありません。スポーツは倒れてからが練習と言われ、水も飲まずに練習しましたが、今振り返ると良い思い出でしかなく、強い精神力を得ることが出来たと先輩方には感謝しています。虐めではなく、愛情で育ててもらったとの実感しかありません。
 
この先の日本に思いを馳せると、外国から入って来た事実上の移民や、日本の土地を買いあさっている近隣諸国の外国人に、話し合いましょうと言っても相手にされず、日本人は我慢を重ね、国は事実上手をこまねいて見ているだけ。日本人以外の人々が日本人より優遇される、外国人憧れの国になっている気がします。
 
その時、僕はもうこの世にいないことが幸せだとさえ感じます。
 

船で行く神戸 ~こんなデートがあった!

2024-02-24 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

京阪神間に「こんなデートコースがあった!」ということで、このカテゴリーに書かせて頂きます。

どこかに出掛ける時、移動方法は勿論大切だけど、同じくらい途中の行程の楽しみ具合もデートの重要ポイント。通り過ぎる景色や風景が素晴らしければ、それだけでワクワクしたものです。だから僕らが若い時は中古車であってもローンで購入し(アルバイト代で支払ったものです)、ドライブ先を厳選し、カーステを取り付けて(当時は自動車にはAMラジオしか標準装備ではありませんでした。)BGMのカセットテープ作成にも力が入りました。

大阪から神戸へデートで行く際、当然電車か車かということになるのですが、「船を使うという手」もあったのです!リッチな船旅気分を味わい、神戸へ船で到着というロマンチックなルートが1992年の夏まであったのです。

それは大阪弁天ふ頭を午後4時半に出航。神戸の中突堤にに立ち寄る、関西汽船の別府航路でした。写真の船がこのデートの舞台「こばると丸」。関西汽船が運航していた客船で、僚船のあいぼり丸と共に、関西汽船が運航した最後の純客船でした。

夕陽を浴びての船旅の出発。暮れ行く六甲の山々のモノトーンな眺めを右に見て、潮風に吹かれる約1時間の船旅はムード一杯。

夕暮れが近づいて来ると、まるで映画の主人公のような気分に。

汽笛が鳴って、到着は港・神戸のど真ん中、ポートタワーのある中突堤なので、これだけで立派なデートコース。停泊中の外国大型船にはキラキラと明かりが点灯され、港のトワイライトは思わずため息が出そうでした。

ポートタワーが迎えてくれる神戸に到着後は、神戸の夜のクラビング(死語!笑)に出発!

92年8月にさんふらわあ こがねの就航により、こばると丸とあいぼり丸の引退により、関西汽船の大型船は全てフェリー化され、このデートコースは終わりを迎えましたが、乗船券は何と驚きの「400円」という格安のルートだったことをご存知の方は、どれだけいるのでしょう?

大阪・梅田から神戸・三宮まで阪急電車で230円(特急29分)、国鉄(JR)なら380円(新快速24分)だったことと比べても、本当に経験しないのが「大損」のデートコースでした。

 


大阪の“チンチン電車” ~阪神国道線

2024-02-22 | 昭和・懐かしい大阪の風景

僕が子供の頃は、大阪の梅田から大阪駅駅前周辺では普通にチンチン電車を見ることが出来ましたし、そもそも阪急電車の大阪梅田駅も、現在とは違う場所にありました。同級生でも記憶が無い人もいますが、知らないのか忘れたのか・・。

この写真は国道2号線(西淀川区)を走る、昭和50年(1975年)3月の「阪神国道線」の阪神電車です。

国道線は、かつて大阪市福島区の野田駅から神戸市葺合区(現・中央区)の東神戸駅までを結んでいた阪神電気鉄道運営の路面電車です。国道2号線を路面電車が走っていたなんて、今の若い人は知らないと思います。

この日僕は写真上部真ん中に看板が見える、打ちっぱなし(練習場)とミニコースが併設されていた「佃ゴルフセンター」に行きました。このゴルフセンターも遥か昔に消えてしまいましたが。

これがその時のスコアカードです。

阪神国道線は昭和2年に営業を開始、昭和50年5月6日に甲子園線、北大阪線と同時に営業廃止となりました。僕が知っている70年代には、1時間に1本程度の運行になっていたと記憶しています。

このゴルフを楽しんだ、わずか2か月後に阪神国道線は姿を消しました。路線廃止に伴い、その沿線の町並みが急激に変わって行ったことの方に、当時の僕は驚きました。

 


神戸・垂水 ~明石海峡大橋で激変した景色!

2024-02-18 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

海と山が接近していて、小さな洋館が多い街。外国人たちがこの街の自然に心魅かれ、移り住んだことを物語っています。もう半世紀近く前になる学生時代、神戸・塩屋~垂水~舞子を歩いた時のことを思い出します。ウエザー・リポートという名物喫茶店のことについては、これまでに何度も触れていますが、今回はそれ以外のことを・・。

国道2号線を西へ進むと松林の舞子公園が今も昔もあります。あちこちにあるベンチではアベックが仲睦まじく語らっている姿が見えました。

ここで最も印象に残るのが、海べりに立つ「六角堂」。本当は八角形なのですが、遠くから見ると六角形に見えるのでこの名が付きました。正式名称は「移情閣」。孫文が亡命した時に招いた館として有名。この写真は昭和60年(1985年)のもの。現在は・・・

明石海峡大橋の建設によって、こんなにも風景が変わりました。しかし、夕暮れ時の形容し難い美しい移情閣の姿は、今も変わりません。

滝の茶屋駅から垂水駅までの間の住宅街。福田川から2号線に出て西に向かうと古い洋館がありました。それがこの写真の日本一洒落た垂水警察署でした。大正4年に四本氏の別荘として建てられたもので、当時の富豪の生活を物語るような風格のある建物は、昭和61年(1986年)まで警察署として使われていました。現在は篠山市にある「お菓子の里・丹波」に移築されています。

左は塩屋異人館倶楽部という本格的なフランス料理のお店で、「ウェザーリポート」より「もうひとつ上等」なデートコースの定番でした。昭和初期の異人館の建物をそのまま利用しており、僕が最後に行った1986年頃、海を見ながらの食事は最高でした。コースは確か4,500円からでしたが、格式ばらないお店で、コーヒー350円だけでも利用出来ました。

右はシーサイドクラブパレス塩屋で、こちらもフランス料理のお店。海に面したテラスが異国情緒たっぷり。潮風を頬に受けながらお茶を飲んだものです。夜は船の灯りを眺めながら、ちょっと気取ったコース料理を楽しみました。コースが5,000円くらいだったと記憶しています。残念ながら、どちらも今はありません。