青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

“戦” を身近に感じた “昭和の空港”!

2022-12-31 | 昭和・懐かしい北摂の風景

清水寺が選んだ今年を漢字1文字に例えれば・・は、「戦」でした。ロシアーウクライナの戦争もありましたが、そもそも世界のどこかで戦争が無い年なんて、あるのでしょうか?世界平和は誰かが何か名演説をしたからと、それで実現するものではありません。

平和は与えられるものではない。領土を侵されていても、国民がさらわれても何も対抗出来ず、舐められている国には外交も無理です。日本人も口先だけではなく、国防の在り方を議論すべきです。そういう最も大切な国の存亡、国民の命に直結する問題を放置して、やれLGBTだ、SDGSだと言うのは順番が違う。そう強く思います。

この整備工場は、大阪・池田市に僕が子供の頃ありました。

昭和30年代半ばに撮影された写真ですが、大阪国際空港正面から少し右(北)に行ったところに整備工場がありました。

ここには敗戦時の日本の戦闘機や、朝鮮戦争で破損したアメリカの戦闘機が置いてありました。子供たちは勿論、誰もがそんな戦闘機の姿を見ることが出来たのです。同時に両親から、「もしまた戦争になったら、この辺りは1番に攻撃される」と、自分の住んでいる地域が危険な地域だと教えられました。空港施設は1番に攻撃の標的になるからです。

第二次世界大戦後、戦時中の反動で日本が平和を渇望して左思想が拡がり、とにかく戦争反対を訴え、そういう思想が学校教育にも色濃く反映し、今の日本になったことは理解出来ます。しかし、世界のどこをどの時代を探しても、たった1度の敗戦によって「自分の国がしたことを反省し、全てを悔い改めて、二度と戦争はしない、軍隊も持たない」等と愚かな事を言った国は日本だけです。

本当の意味で自立した上で、アメリカとの同盟関係を維持する。そうでないと、日本は中国(ジャイアン)や反日主義の国(スネ夫)に虐められ、いつもドラえもん(アメリカ)に泣きつく「のび太」のままで終わってしまいます。


昭和の阪急・池田駅前!あの頃は良かった!

2022-12-30 | 昭和・懐かしい北摂の風景

ここは阪急電車・池田駅前です。池田サカエマチ商店街前の踏切を阪急電車が通っています。奥には商店街入口が見えます。昭和51年(1976年)の景色です。

現在と比較して見ると・・

池田駅の高架化は、下り線が昭和58年、上り線が昭和59年でした。高架化以前は当然上の写真のように踏切がありました。昔は道路の両脇に歩道は無く、道幅は現在より広かったのです。写真で見ると、随分昔に比べて現在は綺麗になったものの、廃れたような気がします。

こちらは遮断機は下りていませんが、上の踏切を逆方向から見た同じく昭和51年(1976年)の写真です。この頃は本当に町に活気がありました。

既にスクランブル式交差点が出来上がっています。写真左側には池田駅前のロータリーが覗いています。駅舎はロータリー左奥にありました。

大都市周辺のいわゆるベッドタウンは、現在ではどんどん寂れて来ました。僕が30代になった頃、この辺りには家は高くて買えませんでした。駅前のマンションは「億ション」と呼ばれ、普通のサラリーマンは家が欲しければ、遥か北に向かって能勢町、豊能町(大阪府豊能郡)や、猪名川町(兵庫県河辺郡)まで行かなければなりませんでした。

猪名川町は町の政治が上手く行き、現在開けていますが、能勢町などは元々の地の百姓たちを優遇、サラリーマン中心の新興住宅地を軽んじた政治を行い、今は廃墟が多い。中でも最悪だったのは府民牧場の維持や昔ながらの小さなスーパー等の既得権に拘る余り、イオンなどの大型ショッピングセンター進出等のいろいろな儲け話を全て失ったこと。結果、そこまでして守った牧場は今は無くなっていますし、バスの本数も激減。

平成に入ってからは新興住宅地では町会長が、町会費の積立金数千万を使い込み逃げるという事件も発覚。更にダイオキシン問題が降って湧き全国的に悪名が轟き、リーマンショックによって新興住宅地を買ったサラリーマン達が次々ローンを払えず、マイホームは続々と競売物件となり、町の価値は暴落しました。歯止めが全く効かない悪夢のような町の壊滅は、能勢町の政治腐敗に原因があったのは明らかでした。

既得権にがんじがらめになった田舎には用心が必要ですが、今ではそんな所まで行かなくても、池田周辺で3千万円もあればマンションが十分購入出来ます。バブル崩壊後であっても、昔は土地神話がまかり通っていました。今の若い人たちには、便利の良い都会に、安く良い物件を購入出来る現代に、上手に立ち回って欲しいと願っています。


明治時代の郵便局が、普通に“そこに”あった!

2022-12-28 | 昭和・懐かしい北摂の風景

これまでに自分の目で見た、最も古い建物って何でしょう?法隆寺?(笑)

歴史的建造物は別にして、近所の風景にも結構古いものがありました。

この写真は吹田市・高浜町にあった、かつての郵便局を撮影したもので昭和50年頃(1975年)の写真です。

この建物は明治時代の建物で、それが昭和50年頃まで残っていたことに驚きます。この当時は局の看板は既に無く、もう使われていませんでした。それでもこんな建物が、普通に町中に残っていたことに驚きます。

ついでに言うと、写真右奥の民家は何と草葺です。この当時は草葺の家も、時々見かけたものでした。歴史というか風景というものは、変わる時は一瞬なのですが、普段は結構長い間そこに同じ姿を見せ続けているものだと思います。


梅田のド真ん中~昭和・平成・令和

2022-12-27 | 昭和・懐かしい大阪の風景

梅田の真ん中の景色が、昭和・平成・令和でどう変わって来たかが良く分かる光景がここにあります。

梅田東小学校をご存知ですか?明治8年に創立の梅田東小学校の裏通りの、昭和40年頃(1965年)の写真です。

この道路を写真奥に進むと、阪急梅田駅のちょうど正面に着くので、抜け道として利用したり、写真にあるように路上駐車の場所としても使われていました。(勿論駐禁!)

梅田東小学校は児童数減少によって、平成元年に曽根崎小学校と統合、大阪北小学校と称し、曽根崎小学校の校地に移転しました。

この平成時代の写真の時は、大阪市の生涯学習の場「梅田東学習ルーム」となっていました。

そして現在はこういう風景になっています。令和の現在の光景は、昭和~平成の時とは全く同じ場所とは思えません。

上は昭和の時代の梅田の地図です。現在の「飛天」の前にはスケートリンクもある、梅田スポーツガーデンがありました。映画館もシネコンではなく、大きな単館の劇場が現在のナビオの場所に立ち並んでいました。

これからも大都市の盛り場は、形を変えていろんな姿を見せてくれるでしょう。しかし、地方や都市周辺の町の景色は寂れる一方で、朽ち果てて行くだけという場所も増えて来ると思います。もっと人が増え、ルールやマナーが守られる明るい社会に発展して行くことを願って止みません。

 


様変わりした通勤風景!

2022-12-26 | 日記
僕もこの「押し屋」のバイトをしたことがありますが、昔はこんな仕事が楽な駅はありませんでした。どこの駅もこの数十倍の通勤客で溢れていました。
 
 
乗れないお客様を押し込むので「押し屋」と、当時僕らはこのバイトのことを呼んでいました。変な人、文句を言う人も多いので、結構気を使ったものです。僕は柔道部員だったので、他の仲間と一緒に朝練の気分でこのアルバイトをしていました。終わるとそのまま大学に行きましたが、バイト代以外に、通学交通費が安くなるメリットもありました。
 
今は明らかに通勤客が、昔に比べて減少しているし(コロナ禍に関係なく)、最も感じるのは女性が多くなった事です。昔はおっさんばかりだったのに、今は働く女性が本当に増えたと思います。逆に会社に行く一般的なスーツを着ている男性が少なくなりました。
 
そして、車内で新聞を読む大人、漫画週刊誌を読む学生は絶滅。読書をする人たちも絶滅危惧種となりました。みんながスマホをいじり、ホームを歩く際もそれを止めない光景は不気味です。スマホをいじりながら、何の疑問も持たずに通勤している大人たちが多過ぎて怖い!