僕は大阪に生まれ育ち、横浜~東京で1時代を過ごし、再び大阪に住んでいます。東京よりも京都・神戸にも至近距離の大阪が大好きです。その僕の心の中の大阪と言えば、梅田です。今でも、大阪と言えばミナミ、道頓堀や通天閣を全国の人々はイメージされるようですが、僕の愛する大阪はキタと呼ばれる「梅田界隈」で、その中でも頭の中に常に浮かぶのは、この写真の光景です。
大阪・梅田のど真ん中、阪急によって作られたこの街は、阪急百貨店を中心とした1大アミューズメント・パーク、娯楽の街と呼ぶに相応しいと僕は思います。この写真は昭和52年(1977年)8月のものですが、それ以前の60年代もほとんどこの景色と変わりません。初めて梅田に出て、この景色を見た時に、「都会」という言葉を肌で感じたのを覚えています。この景色は1980年に大きく変わります。
写真中央の阪急交通社や梅田東宝会館が、老朽化によって取り壊され、その後にナビオ阪急が建ったからです。
この後、80年代には国鉄ガード下に「エスト1番街」、「阪急イングス」「松竹会館」が続々オープンしますが、逆に「梅田スポーツガーデン」が消えて行きました。「阪急プラザ劇場」も、1984年5月に閉館しています。
これは、この界隈の1989年の地図です。ナビオ阪急はまだHEPと呼ばれていませんし、「阪急ファイブ」も「梅田コマ劇場」も残っています。OS劇場、梅田グランド、百又ビルの三番街シネマ、うめだ花月も健在です。現在のシネコンとは違う、大劇場が最後の頑張りを見せていました。
この地図の東側は「阪急東通り」や大人の行く風俗店街になり、西側には百貨店や新聞社が並び、南側は「北新地」と「中之島」を経て、淀屋橋や本町に続く大阪のオフィス街となります。ミナミは大阪の中心から離れた「花街」が生き残った場所です。
1枚目の写真は、この写真の中央部分に当たり、右手前は東洋一と言われた「そねざき警察署」、左の大きな建物は「阪急百貨店」。これは昭和35年(1960年)の写真です。1枚目の写真をもう1度見て頂ければお分かりいただけますが、60年代から70年代の終わりまで、僕の心の大阪~梅田東宝会館の付近、大阪のど真ん中の景色は、いつも変わらず同じだったのです。
80年代にナビオ阪急が出来て、少しずつ景色が変わり始め、現在の梅田はJR大阪駅が建て直され、大きなビルが立ち並び、ホテルや商業施設も増えました。現在はマルビルの解体工事が進められていますが、来年の大阪万博を境に、大阪はもっと変わって行くと思います。