青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

追悼・世間と闘ったアントニオ猪木!~昭和の終焉

2022-10-02 | 昭和・思い出は色褪せない

「アントニオ猪木が亡くなったね」・・何年振りかに聞く声、久しぶりの声、いつもの友人の声、沢山の電話とメールが僕の元に届いた昨日から今朝。僕は猪木さんの親戚でも無ければ関係者でもないのに。「猪木が亡くなったと聞いて、君を思い出した」・・一様にそう言われると、僕は相当な猪木信者だったのだろう。実際そう言われて悪い気は全くしません。

朝から久しぶりに駅の売店に向かうと、アントニオ猪木の雄姿が並んでいました。悲しい事だけど、いつもより遥かに売れ行きが良い。新聞を見ながらいろんなことを思い出しました。

小学生から中学生、高校生になっても「プロレスって八百長だろう?」と、どれだけの人から悪意ある言葉を投げつけられただろう?プロレスに対する悪意もあれば、プロレス=アントニオ猪木を愛してやまない僕個人への中小誹謗、あるいは嘲笑やあざけりだったのだろう。ムキになっていつも「違う!」と言い返し、時にはいわゆる不良たちから殴られもしました。大学生になり柔道2段、その後4段まで取得した僕に、そういう言葉を投げつけて来る人はいなくなりました。

社会人になり、何十年が経過した現在、世間では「それじゃあまるでプロレスだよ」というような言葉使いが定着してしまっている。「プロレス=八百長」論は力道山時代からありましたが、今ではプロレスは一般的に格闘技やいろんなスポーツから下に見られている。その社会に根強くあった声によって、どんなに批判を浴びようと見下されようと、燃える闘魂は一歩も逃げることなく偏見の目と闘い続け、「プロレスは闘いだ」と抗い続けました

猪木さんに「国民栄誉賞」をという声も聞きました。僕は猪木さんに必要ないと思います。海外での猪木さんの訃報に目を通すと、猪木ーアリ戦でアリが日本で足を失いかけたことや、彼らが総合格闘技の礎を作ったことが書かれているだけではなく、イラク戦争の際、猪木さんが政治家としてイラクに乗り込んで、日本人の人質を救出したことが明記されています。実際に時の政府は猪木さんの行為をスタンドプレーだと決めつけ、その邪魔さえしました。(日本の航空会社に飛行機を出さないように指示。猪木さんはイラン航空の力を借りました。)人質解放のためのチャーター便さえ猪木さんの個人負担だったのです!(スポンサーであった佐川急便の協力)そして、昨日からの猪木さんの追悼において日本の報道は、猪木さんが「人質を解放した」ではなく、人質解放に「活躍した」、「尽力した」と彼の行為を薄めての報道となっています。

猪木さんが元気な頃は、プロレス八百長論争がまだありましたが、猪木さんがプロレス・格闘技から1歩引いてしまった後、誰も世間と猪木さんのように戦うことがなくなり、今のように「プロレスじゃないんだから」のような言葉が定着してしまった。

プロレス人気の後にやって来たK1や総合格闘技ブームも、元を正せばアントニオ猪木に行き着く。1976年の猪木ーアリ戦こそが総合格闘技の礎であり、今UFCやライジン、MMAと呼ばれているもので使われているグローブやレガースも、猪木の弟子たち、佐山聡や前田日明らが考案、改良を重ねたものであるのは間違いない。特許を取得していれば彼らは財を成したかも知れない。ルール整備を行い、プロレスのスポーツ化を目指した多くの弟子たち。そもそも総合格闘技という言葉すら、最初に使い出したのは弟子の前田日明である。今の若者はそういうことを知らずに、格闘技とプロレスを分けて考え、一方を崇めて一方を虐げる。努力するのは苦しいので自分を高めるための努力をせず、地位やお金を得ている人を貶めようとする。ネットの力を借りれば簡単に出来る。そういう社会構造とスポーツ観戦も同じ。

僕は柔道において強さの階段を登る度に、プロレスの凄さやレスラーのとんでもない強さをつくづく思い知りました。プロレスは闘いの過程を見せるもの。相手の技を受け切り相手を倒す。レスラーの身体を見ただけで強さが分かりました。プロレスラーは強いのです。総合格闘技でもいわゆるパンチ&キックを主とするストライカー有利とされていますが、総合格闘家の寝技はしょっぱい。柔術と崇められるものも、昭和40年代なら町に1つはあった柔道の道場においても継承されていた技術であり、柔道そのものなのです。(外から入って来たものを無条件に崇めるのは止めてほしい。)

レスラーや柔道選手をストライカー達がやや舐めている気がする昨今。であれば、リングをコンクリートにした場合どうなるか?レスラーや柔道家が相手を頭から、あるいは相手が受け身の取れない投げ方をした場合、何が起きるかを考えてみればいい。総合格闘技にもやってはいけないことがあり、約束事がある。暗黙の了解は存在しています。人に見せる以上はルールがあり、TVやネットで流す以上は1線を越える映像は提供できないのです。どれだけ危険な肘打ちや頭突きを認めようとも、殺し合いの域にまでは達することはありません。プロレスもそれと同じなだけです。なぜ、それが分からないのか?

アントニオ猪木の弟子たちは、打・投・極と言う流れ、関節技や締め技を、観ても理解できない大衆に広めて行きました。その結果大衆は上の段落に書いたような肝心要の部分は理解せず、技だけを理解し、プロレスなんて・・という方向に加速したように僕は考えます。

昨夜はTV朝日系列のニュース番組で、急遽猪木さんの追悼を放送してくれました。これとて、昔なら夕刊のラテ欄に掲載されていたこと。それが昨夜は20時の段階で「猪木 追悼番組」等のようなワードを入れて検索をかけても出て来ない。思えば昔はビデオもネットも無く、観たい番組を観るためには決められた時間に、他の全ての事を犠牲にしてTVの前に座らないと観ることができなかった。現在がそういう縛りがなくなった分、番組への期待が薄くなり、スポンサーからの広告料も集まらない為に、中身も安っぽくなってしまいました。折角の素晴らしい番組を作ったなら、広く告知すべきでした。

与えられた情報を受け取っても、それについて考えることが無い今の時代。情報は氾濫するけれど、それを精査しない今の時代。アントニオ猪木さんの逝去と共に、まさに昭和という「考える、工夫する」ということが大切にされた時代が、遂に終焉を迎えた気がします。

 



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