【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「川の底からこんにちは」:枝川二丁目バス停付近の会話

2010-05-05 | ★業10系統(新橋~業平橋)

ここって、上流、中流、下流?
すぐ先は海だ。
下流ってことね。私たちの暮らしと同じで。
待て。金持ちを上流に例え、貧乏を下流に例えるのは、早計ってもんだ。
どうして?
同じ川なのに、上流か、中流か、下流かで差があるって考えるなんて、ヘンじゃないか。上流も中流も下流も同じひとつの川の流れに過ぎないんだから。
例え方がヘンってこと?
その点、石井裕也監督の喜劇映画は、「川の底からこんにちは」というタイトルからして示唆に富んでいる。川を上、中、下で分けないで、深さで分けている。よどんだ川底と水の流れが清い川面を対比しているようで、こっちのほうが真実に近いと思わないか?
言いたいことがよくわからないけど、私たちはよどんだ川底にいるってこと?
あ、でもこの映画の主人公の実家はしじみ業者だった。川じゃなくて海だ。
海じゃないわよ。しじみは川よ、川。
でも、よどんだ川じゃあ育たないだろ。実はこの映画の主人公は川の底でもよどんでなんかいなかったってことだ。
ますます言いたいことがわからなくなってきたけど、この映画は、自分が中の下の人間であることを悟った女の物語よ。
そう。自分のことを「中の下」とは呼んでいるけど、「中流の下」とは呼んでいない。
そう言えばそうだったような気もするけど・・・。
ひとことで言えば、「みんな、しょせん、中の下なんだから、しょうがない。がんばろう」って開き直った映画。こんなに明快なメッセージを持った映画も最近の日本映画には珍しい。
そのメッセージを伝える映画のリズムというか、セリフの間の取り方が、微妙にずれていて笑いを誘う。
「中の下」とか「しょうがない」とか「がんばろう」とか、メッセージがそのままセリフになってしまっているんだけど、どこか投げやりなニュアンスで放たれるから押し付けがましさがない。
いい意味でアマチュア映画っぽくて、駆け出しの頃の森田芳光を思い出しちゃったわ。
ああ、「の・ようなもの」とか、初めて森田芳光の映画を観たときのような新鮮さはあるな。日本映画界に新しい世代が現われた瞬間に立ち会ったような、高揚した気分になる。
もちろん、監督の意向を一身に受け、出世作「愛のむきだし」の硬派な魅力とは180度違い、希望も野望も絶望もなく、およそ“望”という文字とは無縁の女の役を弛緩した演技で見せ切った女優、満島ひかりの存在に負うところも多いんだけど。
いわゆる女優の華とは縁遠くて、いたって地味な顔立ちしているんだけど、スクリーンに出ると強烈な磁力が沸く。
腸の洗浄を受けるとか、畑に肥やしを撒くとかいった、文字通りの臭い役を飄々と演じている。
最後には、これ以上ない父の形見まで撒いてしまう。
まるで「復讐するは我にあり」よね。
そう言われりゃあ、今村昌平の重喜劇みたいな展開でもある。
それは、誉め過ぎでしょ。
そうか?
そうよ。
そうだな。しょせん、中の下に過ぎないんだからな。
そう見せかけて、映画の出来は上の上。したたかよねえ。
石井裕也監督、やがて大きな流れをつくる監督に化けるかもしれないぞ。
日本映画という大海原に勢いよく流れこんでいくようなね。






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