【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「人生に乾杯!」:第四葛西小学校前バス停付近の会話

2009-06-27 | ★亀29系統(なぎさニュータウン~亀戸駅)

並木通りか。っていうことは、ここからちょっと入ったところに、シネスイッチ銀座があるはずだな。
それは、銀座の並木通りでしょ。ここは、堀江並木通りよ。
同じようなもんだろ。
全然違うわよ。
しかし、並木通りなんて、老人たちがのんびり散歩でもしそうな名前の道だな。シネスイッチ銀座で上映している「人生に乾杯!」に出てくる仲むつまじい老夫婦が歩いたら絵になるような通りだ。
あの映画の夫婦はそんな生易しいものじゃなかったわよ。なにしろ、黒い車に乗って次々に銀行を襲っちゃうんだから。
年金だけじゃ暮らしていけなくなった老夫婦が車に乗って銀行強盗を繰り返すっていうハンガリー映画。
まるで「俺たちに明日はない」みたい。
とはいっても、81歳と70歳の高齢カップルだから、物騒な犯罪者というより微笑ましさのほうが先に立っちゃう。
肉体的にはヨボヨボに近いし、ごく平凡に暮らしてきた市井の夫婦だからとても悪党にはなれない。強盗をするにもきちんと礼儀をわきまえている。
むしろ、彼らを捕まえられない警察のほうが間抜けに見える。
世間の風向きは、年金じゃ暮らせないとぼやく老人たちの味方になっていく。
年金っていうのが切実で泣かせる。日本だって、誰もが不安を抱えている問題だし、それが原因でああいう憎めないお年寄りの強盗が現れて警察権力の網をかいくぐって逃避行を続けたら、喝采を浴びるかもな。
舞台がハンガリーだっていうのがまた絶妙なところ。
ヨーロッパのローカルっていう感じで、映画をおおう侘しい空気がなんとも身に染みる。
映画としても、オフビートというか、素朴というか、どうにもあかぬけない。
そこがかえって魅力になっているのがおもしろい。
ハンガリー映画ってみんなこうなのかどうか知らないけど、映画のリズムが、見慣れた西欧の映画とは明らかに違うのよね。
ちょっと、アキ・カウリスマキの映画みたいな匂いがする。
ヨーロッパの辺境という意味では通じるところがあるのかしら。半歩ずれているみたいな感覚。
こういう映画を観ちゃうと、「スラムドッグ$ミリオネア」を観たときの違和感がどこにあったかよくわかる。
どこにあったの?
インドを舞台にしながら、映画自体は西欧の感覚でつくられているのが居心地悪いんだ。洗練されすぎてインドらしい映画の匂いがない。
そういう意味ではこの映画は洗練されていないところがある。上手な映画かと聞かれたら、それは答えに窮しちゃう。
しかし、だからこそ地域に根の生えた映画だって感じられる。
でも、この映画、展開はまるで70年代のアメリカン・ニュー・シネマよ。
車で強盗する「俺たちに明日はない」から始まって、ブルトーザーが待ち構えるクライマックスは誰が観たって「バニシング・ポイント」だ。
ああ、コワルスキーが懐かしい。
まるでニュー・シネマの歴史を横断するような映画。
はるか時間を越えて、あの頃のアメリカ映画がはらんでいた時代への反抗が、いま東欧まで及んだってことかしら。
その時間が主人公を若者から老人に変化させた?
主人公たちが悲劇に向けて突っ走るのも、ニュー・シネマ共通の約束事だしね。
悲劇じゃない。自分の人生に落とし前をつけるってことだよ。このところ、アメリカ映画には、「グラン・トリノ」とか「レスラー」とか、人生にどう落とし前をつけるかっていう内容の秀作が目立つけど、その線上にある映画が東欧から現れるとは意外だった。
タイトルが「人生に乾杯!」だもんね。
なんか心温まる人情話みたいなタイトルだけど、悲劇的な部分も含めて、“人生に乾杯”なんだよな。
・・・なあんて、感慨に浸りながら観ていたら、最後に話がひっくり返る。
そう、そう。なるほど、これに“乾杯!”ってことだったか、とひざを打つ。
たとえば、並木道を去っていくような、幸福なイメージがもたらされる。
シネスイッチ銀座に近い、この並木通りみたいな道だろ。
だから、ここは銀座じゃなくて堀江並木通りよ。
あ、そうだった。
その年で、あなたの頭も老化しちゃったんじゃないの?
ああ、年金問題が他人事とは思えない・・・。




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「愛を読むひと」:新田バス停付近の会話

2009-06-24 | ★亀29系統(なぎさニュータウン~亀戸駅)

都会にもこういう昔ながらの風景があると思うとほっとするわね。
おいおい、「昔はよかった」なんて言い出すなよ。
どうして?
世の中には、長い間、昔の傷を抱えながら生きている人間だってたくさんいるんだから。
あれれ、いきなり、重たい話を始めちゃって、どうしちゃったの?
お前も観ただろう、「愛を読むひと」。
少年が初めて結ばれた年上の女性が、過去の出来事で重い罪に問われるというベストセラー小説「朗読者」の映画化ね。
そういう女性に何十年にも渡って純愛をささげる男の姿に胸が震える。
ま、待ちなさい。そういう映画じゃないでしょ。
へ?
少年は、たまたま女性に興味を覚える年ごろだっただけ。だから、大人になって劇的に再会したとき、彼女の窮地を救える立場にあったのに、結局背を向けてしまう。
いやいや、そうじゃない。彼女を救うには彼女自身が隠し通そうとしていた秘密を暴露しなくちゃならない。それよりは、彼女の人間としての尊厳を守るほうを選んだんだよ。分別と教養のなせる技だ。
そんなことない。勇気がなかっただけでしょ。女性は有罪になるか無罪になるかの瀬戸際なんだから、愛しているならなりふりかまわず助けなくちゃ。それが男ってもんでしょ。
じゃあ、彼女が刑務所に入ったあと、書物を自分の声で朗読したテープを延々と送り続けるのは、どういうことだよ。愛だろ、愛っ。愛を読むひとだろ。
とーんでもない。彼の心の中にあるのは、彼女を救えなかった後ろめたさだけよ。それが証拠に、彼女から手紙が来ても返事も返しやしない。原題だって、“愛を読むひと”じゃなくて、ただの“朗読者”よ。
ああ、お前は何にもわかっていないなあ。テープを送ることが返事そのものなんだよ。愛の表現なんだよ。それ以上何が必要だっていうんだ?
ことばよ、ことば。本じゃなくて、本人のことば。それが足りないばかりに、いったい何人の男女が別れたことか。
男のほうは、最後には年老いた女性を引き取るとまで言っているんだぜ。なのに、人の気も知らないで、これみよがしにとんでもない行動に出るなんて、この女、何考えてるんだかわからない。
何考えてるんだかわからないのは、男のほうよ。何十年振りに会ったというのに、家を用意したとか、仕事を用意したとか、そんなことしか、かけることばもない。
分別もあればしがらみもある。それが精一杯の愛情ってもんだろう。
そうやって、愛だ、愛だ、と言いながら結局はどっかで線を引いちゃうのよね。ずる賢い男たち。
ああ、こうして、男と女はすれ違うっていくっていうことか・・・。
少なくとも、“純愛”なんてきれいなことばを使う世界じゃないわね。
ズブズブのくされ縁ってことか?
愛の流刑地よ、愛の流刑地。
意味わからん。それより、俺たちの会話には、彼女の問われた罪に関する話題が全然出てこないんだけど、どういうわけだ?それはそれで世界の歴史にもかかわる、ものすごく重要な事件だと思うんだけど。
たしかにあの事件が二人の行動を支配していることはわかるし、そこを深く掘り下げて、今に続く忌まわしい歴史を検証する映画にすることもできたんだろうけど、スティーヴン・ダルドリー監督はあくまで愛に焦点を当てているんだから、私たちの会話もお門違いじゃないわよ。
歴史を考証する映画じゃないってことか。だから、ドイツの出来事なのに平気で英語でセリフを喋らせてるのか。
刑務所の中で、彼女が“the”“the”とか言いながら一生懸命英語を覚えるものだから、出所したあとのキャリアを考えてバイリンガルをめざしているのかと思っちゃったわよ。
それは、嘘だろう。
あは、恋愛に嘘はつきものよ。
しかし、ケイト・ウィンスレット、「タイタニック」の頃は、老け役は別人が演じていたのに、いまは自分で演じられるようになっちゃった。
昔のほうがよかった?
とんでもない。あの頃のケイト・ウィンスレットじゃあ、こんな陰影のある女性の役はとてもできなかっただろう。
でも、もしつきあうとしたら?
む、昔がよかったかも・・・。
ほーら、これだから、男は信用できないのよねえ。




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「劔岳 点の記」:葛西南高校前バス停付近の会話

2009-06-20 | ★亀29系統(なぎさニュータウン~亀戸駅)

高校生諸君、遅刻しそうになったらこのフェンスを乗り越えて行け。
なに、よからぬことアジってるのよ。
いや、誰かが行かなければ道はできない。
なにそれ。「劔岳 点の記」の中のセリフみたいなこと言って。
いや、久しぶりに日本映画界が本腰を入れた映画だったからさ、「劔岳 点の記」は。
日本地図を完成させるために、前人未踏の剣岳に三角点を設置しようと挑んだ明治時代の男たちの骨太の物語。
大自然に挑戦する男たちの姿を、いまどき珍しいほど、まったく奇をてらうことなく、正攻法で描き切る。
そうそう。これほど実直な男たち、いまどきどこ探したっていないわよね。
いいや、この映画をつくったスタッフこそ、実直そのものの男たちだと思うぜ。
たしかに、木村大作監督からして、ドラマの中の男たち同様に実直一直線だっていうのが伝わってくる。
もともとは「八甲田山」を初めとする数々の名作をものした撮影監督。
“大作”なんて、名前からして映画を撮るために生まれてきたような人ね。
撮影監督が全体の監督を務めているだけあって、スクリーンに映し出される山々の風景はこの上なく、荘厳で美しい。
そそり立つ剣岳はもちろんのこと、空の果てまで一面を覆い尽くす雲海の姿や、目の前に迫ってくる雪渓の白、標高3000メートルを染める真っ赤な夕焼け、すべてがこれでもか、これでもかと、目に焼きつく。
大雪渓の中を進む人間たちのなんとちっぽけなこと。
近頃、またIMAXの映画館が復活したらしいけど、こういう映画こそIMAXで観てみたいわね。
壮大な山岳風景の中、浅野忠信扮する陸軍の測量手や香川照之扮する現地の案内人たちは、難攻不落の剣岳の頂上を目指してなんども山を登ったり降りたりする。
そのわりに最後は結構あっさり頂上に立っちゃうんだけどね。
それを言うな。出演者もご苦労なことだけど、彼らを狙ったカメラ・クルーがどう山の上まで行ったかを想像すると、頭が下がるぜ。
たぶんヘリコプターでひょいっと行ったんじゃないの?
そんな贅沢許される状況なのかな?
そういえば、スクリーンで見る限り、ヘリコプターショットはひとつもなかったわね。
変わりやすい山の天気や機材を設置する岩場の不安定さとか、あれやこれやスタッフの苦労を想像すると気が遠くなるぜ。
だけど、ドラマとしては、劔岳を目指す一行が、どの辺まで到達しているのか、画面を見ただけでは現在位置がわからないのが、ちょっとつらいわよね。
それは、「八甲田山」のときもそうだったな。雪に閉じ込められて遭難しちゃうんだけど、一面雪なものだから、どこでどう遭難したんだかさっぱりわからなかった。
地図を使って説明してくれればいいのにね。
「劔岳 点の記」の場合、そもそも、地図をつくるために山に登ったっていう物語なんだから、映画の中でも、もっと地図を生かして説明してくれてもよかったかもしれないな。
地図を出してきちゃうと説明的になって映画の緊張感が途切れるっていう懸念はよくわかるんだけどね。
でも、日本山岳会っていう民間団体も同じ劔岳を目指していて、陸軍測量部とどっちが先に初登頂に成功するかっていう競争になっていく展開は、興味が持続できて面白かった。
実はそんな功名心のための競争、悠久の歴史の前ではいかにちっぽけなものかって思い知らされるラストの挿話も秀逸だった。
陸軍の上層部だけが最後まで勝ち負けにこだわっていて、軍隊の本質を見た思いだな。
勝ち負けしか頭にない。地図をつくる目的だったはずなのに、結局、面子ばっかり考えてる。
そんな人間世界の小ささには我関せずとばかりに、劔岳は静かにそびえ立つ。
自然の壮大さを感知する映画。
次はどんな日本映画がこの映画の壮大さを乗り越えて行くか、考えると楽しみだな。
でも、フェンスは乗り越えちゃダメよ。
男女の一線を越えるのは?
バカ。




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「マン・オン・ワイヤー」:堀江団地入口バス停付近の会話

2009-06-17 | ★亀29系統(なぎさニュータウン~亀戸駅)

犬・猫禁止とはなかなか厳しいわね。
綱でつないだ犬でもダメなのかな。
綱でつないだワンちゃん?
ああ、綱でつないだワンちゃん・・・ワン・オン・ワイヤー。
あーあ、あなたの発想って、いつもながら、おもしろすぎてついていけない・・・。
「マン・オン・ワイヤー」だって、おもしろすぎてついていけない話だったぜ。
1974年、崩壊する以前のNYワールド・トレード・センターに綱を張って、その上を綱渡りをしたフランス人のドキュメンタリーだもんね。発想はおもしろいけど、ふつうは誰も実行しようなんて思わない。
ところが、この男、さすがはなんでもかんでもロマンチックな物語にしてしまう国、フランスの住人。あの空を綱渡りしたらどんなに気持ちいだろうと妄想をふくらませて、実際、やり遂げてしまう。
赤い風船」の国だもんね。
それに対するアメリカ人の反応がまたおもしろい。こいつ、頭おかしいんじゃないかって、精神病院へ入れようとする。
かの国ではいまだに「チェンジリング」のような対応が続いているってことかしら。
彼の反論がまたふるってる。「アメリカ人はすぐに理由を知りたがる。理由なんてないから愉快なのに」。
これまた、いかにもフランス人っぽいことばよね。
映画は、彼のチームがいかに警戒の網をかいくぐり、屋上までたどりつき、大空を渡る計画を成功させたかを、関わった人たちの証言で綴っていく。
まるで、銀行強盗団の映画みたいな展開。
そして、いよいよ、宙へ足を踏み出す。
宇宙飛行士どころじゃない高揚感でしょうね。足元451メートルには何もない世界を肌で感じるんだから。
彼を捕まえに来た警官は呆然と見つめるしかない。
「あれは綱渡りじゃない。綱の上のダンスだ」とか言ってね。
惜しいのは、ツインタワーの間を軽々と渡っている、いちばん肝心なところの映像がないところだ。
何枚かの写真は残っているんだけど、私たちはそこから想像の翼を広げるしかない。映画だから、やっぱり動いている姿を見たかったなあ。
ちゃんとした記録映像でなくてもいいから、スタッフの誰かが撮っておいてくれたらよかったけど、そこまでの余裕はなかったんだろう。
映像が残っていれば、高価な値がついたでしょうにね。
そういう邪心はなかったってことだな、きっと。
地上から応援するスタッフの中には、フランスから駆けつけた彼の恋人もいるんだけど、成功したら別れちゃったっていうんだから、またなんともフランス人らしい。
というか、それは国民性に関係なく、偉業を成し遂げてしまった人々に共通する行く末かもよ。頂点をめざすまでは同じ目的意識に盛り上がるけど、頂点をめざしてしまったら気が抜けて、みんなバラバラになっていく。
その顛末も、ドキュメンタリーだから、ことばで語られるだけなんだけど、綱渡りのシーンもその後の彼らの運命も含めて、誰かがきちんとした劇映画にすれば、ファンタジックでスリリングな傑作になるような気がする。
「翼よ、あれがパリの灯だ」とかに匹敵する映画。
古っ。
それだけリリカルな出来事だってことさ。
それにつけても、よくやった。
禁止されてることをヌケヌケとやってしまうことの快感もあるよな。
禁止されていることをやる?まさか、あなた、ここで犬を放すつもりじゃないでしょね。
ワン・オン・ノー・ワイヤー!




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「レスラー」:堀江団地バス停付近の会話

2009-06-13 | ★亀29系統(なぎさニュータウン~亀戸駅)

あーあ、この歩道橋から飛び降りてしまいたい気分だぜ。
なに、情けないこと、言ってるの、いい年した男が。
どうせ、俺は、ボロボロのクズさ。
そんな「レスラー」のミッキー・ロークみたいなこと、言わないの。
“ボロボロのクズ”なんて、ブイブイ、フェロモン出してた若い頃のミッキー・ロークが言えば、色男のかっこつけにも思えるんだけど、いまのブヨブヨ顔のミッキー・ロークが言うと、とてもひとごととは思えないんだよ。
時の流れは残酷というか、昔の面影がどこにもないもんね。
俺も昔は、葛飾のミッキー・ロークと呼ばれてたんだけどな。
うっそー。せいぜい、ミッキー・マウスのなれの果てじゃない。
って、どんな顔だよ。
チューもしたくない。
悪かったな。
でも、人生の艱難辛苦が体中から滲み出ているところだけは、いまのミッキー・ロークに似ているかも。
「レスラー」のミッキー・ロークは、最初に登場する背中からしてすでに、うらぶれた感をビンビンに発している。
役柄が、かつては栄光の座にありながらいまは落ちぶれた場末のプロレスラー役だからね。どうしたって、実際の役者人生と重ね合わせて観てしまう。
ボロボロのクズと呼ばれた男が、男であることをリングで証明する映画といえば、「ロッキー」を思い出してしまうんだけど、あれは、これから頂点をめざす若者の話だから感動できたんだよな。あの高揚感を感じさせるには、頂点を過ぎたレスラーはどうしたって年をとりすぎている。
ミッキーは、ロッキーにはなれない。
かつての栄光を追うという意味では、むしろ、「ロッキー・ザ・ファイナル」に近い。
だけど、「ロッキー・ザ・ファイナル」は功なり名遂げた男の話だからね。
それにひきかえ、「レスラー」のミッキーは家賃も払えず追い払われるくらい過去の栄光とは無縁の男。
ひとごととは思えない?
思えない、思えない。
でも、あなたには過去の栄光もないけどね。
悪かったな×2。
結局、彼は自分の死に場所を求めていくように見える。
グラン・トリノ」のクリント・イーストウッドが死に場所を求めていくようにな。
うん、自分の人生にどういう決着をつけるか。だんだん、そんな崇高な雰囲気が漂い始めて、案外奥の深い映画になっていく。
そう、若者の高揚感はないけど、年寄りの崇高感はある。それはそれで心にグッとくる。
そんな男の磁場に引かれるように、踊り子のマリサ・トメイが心を通わせていく。
「ロッキー」のエイドリアンみたいに。
かなり老けたエイドリアンだけどね。
でも、その熟女の生活感がたまらなくチャーミングなんだ。
多くは語られないけど、彼女もきっと人生の辛酸をなめてきたんでしょうね。
それを自然な仕草で感じさせて、マリサ・トメイもミッキー・ロークに匹敵するくらいいい仕事をしている。
凄残な人生を歩いてきた者同士だからわかりあえるような情感が漂っていて、「ロッキー」のカップルでは醸し出せない後味が残る。
まるで俺たちみたいに。
私は別にそんな凄残な人生は送ってきてないけど。
そんなことはないだろう。目じりのしわを見てみろよ。
あーあ、あなた、やっぱりここから飛び降りちゃったら?




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