【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「バベル」:テレコムセンター駅前バス停付近の会話

2007-04-28 | ★虹01系統(浜松町駅~ビッグサイト)

テレコムセンターの「テレコム」ってどういう意味だ?
「テレ」は遠いっていう意味。「Telephone」とか「Telegram」の「Tel」。「コム」は「Communication」。直訳すれば、遠いコミュニケーションってことかしら。
それって、映画「バベル」のテーマじゃないのか。
そうね。「バベル」って、コミュニケーションがうまくとれないことによる悲劇の連鎖といえないこともないからね。
モロッコで放たれた一発の銃弾が、日本、アメリカ、メキシコを巻き込んだ悲劇へとつながっていく。
といっても、全体としてひとつのドラマになっているわけではなく、それぞれの国の物語は独立していて、ある部分だけ重なっているという構成よね。
ところが、モロッコの山に暮らす人々、日本の高校生、モロッコを旅するアメリカ人夫婦、そのアメリカ人夫婦のベビーシッターをしているメキシコ人女性と、人種も文化程度も豊かさもそれぞれバラバラで、抱えている問題もざまざまなのに、哀しみの質というか気持ちの温度がみんな同じなんだよな。
うん、そうそう。明らかに、気持ちの在りようというか、感情の揺れは世界中どこでも同じという編集の仕方をしていた。
だろ?
人間である限り、先進国とか発展途上国とか、金持ちとか貧乏とか関係なく、哀しみは常に襲ってくるっていうことかしら。
人間が神に近づこうとしてバベルの塔をつくって神の怒りを買い、共通の言語をなくしたときから、コミュニケーションは割れた皿のように欠け、哀しみは世界中に広がっているっていうことかもな。
画面を覆う、どんよりとしてやりきれない空気感は、去年のアカデミー賞の「クラッシュ」に似ているわね。
あれも、独立したいくつかの話が、ある部分だけ重なりあいながら進行するという構成だったな。「クラッシュ」はロサンゼルスだけの話だったが、その舞台をグローバルサイズに広げた映画が「バベル」だという言い方もできる。
同じような傾向の映画だったんで、結局アカデミー賞を取れなかったのかしら。
作品賞はそうかもしれないな。しかし、菊地凛子はアカデミー賞にノミネートされただけでもラッキーな演技だろう。
え、そう?聾唖で他人とのコミュニケーションがうまく取れない分、体でコミュニケーションを取ろうとして、ますます孤独になっていく女子高生を文字通り凛とした演技で体現していたじゃない。あの存在感は、見ものだったわよ。
しかし、どう見ても20歳過ぎの女だ。高校生には見えないだろう。
いえいえ、外国人から見ると日本の女性って幼く見えるらしいから、あれで十分ティーンエイジャーに見えていると思うわよ。
アカデミー賞の式典に出ていた彼女と映画の中の彼女が全然違う印象なんで、それは驚いたけどな。
それだけ映画の中では、女子高生に成り切っていたということなのよ。
だけど、いくらコミュニケーションに飢えているからって、女子高生が、男子高校生の前であーんなことや、刑事の前でそーんなことするか?外国人は、日本人を誤解しているんじゃないのか。
あら、あなたにしては珍しく硬直した意見ね。映画なんだから、誇張はあってあたりまえ。映画のリアリティっていうのは、現実のリアリティとは違うなんて、常識じゃない。
モロッコ篇とかメキシコ篇とかは、いかにも現実にありそうな感じなのに、日本篇だけ、こんなこと現実にはないだろうっていう感じが気になったのさ。
それも、島国意識で観ているからよ。もっとグローバルな視点で捕らえなきゃいけないのよ、こういう映画は。コミュニケーションの不在は確かにいまの世界に存在するけれど、それを乗り越える光は必ずいつか差してくる。そのサインとして、あの日本篇があるのよ。それだけ受け止められれば十分なのよ。
そんなもんかな。
うーん、納得していないみたいね。
ああ、俺の心の中には何かぽっかりと穴が空いて風が吹き抜けていくみたいな気分が残っているのさ。このテレコムセンターの建物みたいにな。
コミュニケーションに対する絶望感?
そうかもな。あの穴は、俺には、遠すぎるコミュニケーションの象徴に見えるぜ。
だから、その穴の塞ぎ方をあの日本篇、とくにラストシーンは私たちに教えてくれているのよ。
ハッピーエンドってことか。
そうは言わないけど、絶望するにはまだ早いってことかしら。
希望と絶望の間を綱渡りするような映画だったってことだな。
そうね。それがこの、私たちが生きている世界だってことね。


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「クィーン」:東京湾合同庁舎前バス停付近の会話

2007-04-26 | ★虹01系統(浜松町駅~ビッグサイト)

「綱吉の湯」って何だ?
温浴施設の「大江戸温泉物語」の犬部門。
犬部門?
そう。犬専用の温泉てことよ。
へー、そんなのがここにあるのか。それで「綱吉の湯」か。たしかに、徳川綱吉がいま生きていたら考えそうな施設だな。
まあ、ときの権力者っていうのは、何でもできるからね。
権力者ねえ・・・。英国王室の女王陛下っていうのも、権力者って呼ぶのか。
「クィーン」なんていう映画を観てると、権力者を装っている無力なおばあさんっていう言い方が正しいかもね。
ダイアナ王妃が事故死した直後の一週間の英国女王の言動をめぐる話なんだが、当初、ダイアナはもう離婚したあとで王室とは関係ないという立場で、女王は何のコメントも出さなかったのに、国民感情が許さず、結局屈辱のうちに哀悼の意を述べることになるという物語。
首相になったばかりのブレアが、女王に忠告したりするんだけど、女王は自分は首相に忠告する立場で忠告される立場じゃないという強気の姿勢を崩さない。
ただの強がりなんだけど、その強がりを通すのが王室だというゆるぎない信念がある。王室の歴史を背中に背負っているんだ。
でも、国民の反応を知るにつけ、その信念が揺らいでくる。
王室の威厳を保つためには、女王がとった態度のほうが正しいんだろうが、あのとき、ダイアナを悲劇のヒロインに祭り上げた英国国民の動きは、集団ヒステリーのようになっていったからな。理屈の通る冷静な状況じゃなくなっていた。
王室としての尊厳を保つなんてことに、誰も耳を貸さない状態になっていたってことね。
逆にいえば、国民の声が届かないほど、王室が硬直化していたともいえる。
あら、私たちにしては珍しく、筑紫哲也のニュース23の解説者みたいな社会派の会話になってない?
たまには知性のあるところも見せなきゃな。フィクションなんだけど、当時のニュース映像をうまく取りこんでいるから、臨場感というか、緊張感というか、話にリアリティが加わって、なんともいえない存在感のある映画になった。
しかも、主役のヘレン・ミレンがいかにもそれらしい雰囲気で女王を演じているから、いっそ高級な再現ドラマみたいな趣も出たわね。
我々アジアの片隅の、英国女王なんて遠い存在の日本人が見ても、実物の女王にそっくりだなあ、って思うんだから、アカデミー賞を取ったのも当然かもな。
イッセー尾形が演じた天皇陛下みたいなものね。
太陽」だろ。でも、あの映画は初めて天皇を人間的に描いたって話題になったけど、まだ我々とは違う色の血が流れているんじゃないかと思わせるところがあった。それに対して「クィーン」は女王だって我々と同じ赤い血が流れている人間だというスタンスの映画だった。
嫉妬もすれば、悪態もつく。
自分で車を運転してどこへでも行く、犬好きのおばあちゃん。綱吉の湯なんて見たら飛び上がって喜んじゃうんじゃないか。
やはり、英国と日本じゃ王室に対する距離感が違うのかしら。ブレア首相と女王の丁々発止のやりとりなんて、日本でいえば、小泉前首相と天皇陛下のやりとりみたいなもんでしょ。そんなものを映画にするなんて恐れ多くて絶対できないと思うけど。
太陽」だって、結局日本ではつくれず、ロシア映画だったもんな。日本と西洋とは、王室に対する考え方とか接し方とかが歴史的に違うのかもな。
それにしたって、こんなに王室の姿をあけっぴろげに描いた映画によく上映の許可が出たわね。まだ実在の女王なのよ。
でも、女王陛下もいろいろあってつらいんだなあ、というのが伝わってきて、近親感が沸く。かえってこの映画によって王室の人気が上がったんじゃないのか。
そうね、今度女王が日本に来たら大江戸温泉物語でゆっくり手足を伸ばしてもらいたいわね。
愛犬たちは綱吉の湯でな。


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「神童」:日本科学未来館前バス停付近の会話

2007-04-24 | ★虹01系統(浜松町駅~ビッグサイト)

日本科学未来館て、宇宙飛行士の毛利衛さんが館長なんだってな。
そうそう。ここで科学にふれた子どもたちが未来の日本を背負っていくのよ。
あそこの入口付近にたむろしている中学生たちの中にも将来宇宙飛行士になるやつが出てきたりするのかな。
そういう神童もいるかもしれないわね。
でも、神童もつらいんだよな・・・。
なに、感慨にふけってるの、ただの凡人が・・・。
あれ、俺だって昔は神童の端くれだったんだぜ。
どういう神童?
六年生で山手線の駅名を全部言えた。
遅くない?
まあ、映画の「神童」に出てくる女の子ほどの神童じゃなかったかもな。
映画の「神童」は本物よ。なにしろ世界の一流ピアニストに認められちゃうんだから。科学の世界の神童じゃなくて、音楽の世界の神童ね。
ピアノの世界で神童と呼ばれる中学生の女の子が、そのあふれる才能に押しつぶされそうになっているって話だもんな。たとえてみれば、骨の成長が速すぎて筋肉が追いつかず体中がキイキイ言ってみたいな状態だ。
あふれる才能っていえば「バッテリー」の天才ピッチャーにも通じる話よね。
ああ。あのピッチャーも自分の才能と折り合いをつけることができずに、始終イライラして、周囲に波乱を起こしていた。そういう意味では、野球の神様にとりつかれてしまった男の子の映画が「バッテリー」で、音楽の神様にとりつかれてしまった女の子の映画が「神童」だとも言えるな。
でも、「バッテリー」はそのあたりの苦悩と再生をスポーツ映画らしくとてもさわやかに描写していたけど、「神童」はちょっと描写の仕方に迷いが見えたような気がしたわ。
正直、「バッテリー」の監督は百戦練磨、「神童」の監督はまだまだ若い、って感じだったからな。
主役の成海璃子が相変わらず、たおやかな存在感を出していたんで、若いがゆえに自分の才能を制御しきれない痛みは、十分感じ取ることができたけどね。
そもそも、才能がありすぎて悩むなんて、才能のない者からみればぜいたくな悩みなんだよな。
でも、音楽の面では凡人に属する音大志望の浪人生の存在が彼女を救ったんだから、凡人だって捨てたもんじゃないのよ。
松山ケンイチ扮する、八百屋の息子だろ。年下の成海璃子から「へたくそ」とか言われながらも彼女の気持ちを受けとめていく。「バッテリー」でいえば、キャッチャー役。
あそこまで天才の気持ちを全身で受けとめる相棒としての明快なポジションは与えられていなかったけどね。
そうだな。明快といえば「バッテリー」のほうが明快というか、わかりやすく心に入ってきたもんな。「神童」のほうは父親の死のエピソードとか、かわいいぬいぐるみのエピソードとか入れて彼女のキャラクターを際立たせようとしていたけれど、それがかえって余計なエピソードになってしまったきらいがある。
天才は天才なんだから、野球の天才は純粋に野球で、音楽の天才は純粋に音楽で苦悩すればいいってことね。
とはいえ、松山ケンイチも頼りないけど気の優しい青年を好演していた。
ほんとうは、「アマデウス」のサリエリみたいに才能のある人間にはとことん嫉妬するくらいの気構えがないと、音楽の世界ではやっていけない気もするけどね。
そのへんは毛利衛さんに聞いてみたい気もするな。
どうして、毛利さんなの?
凡人には答えが出せないってことだ。
あ、ようやく凡人って認めたわね。


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「ロッキー・ザ・ファイナル」:船の科学館駅前バス停付近の会話

2007-04-21 | ★虹01系統(浜松町駅~ビッグサイト)

船の科学館て、青函連絡船も保存されているのね。
1965年に就航し、1988年青函トンネルの完成とともに役目を終えた2代目羊蹄丸だ。
長い間、ご苦労様。
ご苦労様といえば、ロッキーこそご苦労様だよな。
1976年に第1作が公開されて30年かけてやっと完結篇だもんね。
完結篇というより、完結して引退してたのにまた出てきちゃったっていう感じだ。
そうね。ひとことで言うと、ボクシングの世界から身を引いて60歳になったロッキーが、やっぱりボクシングに未練があったんでまた始めちゃいましたっていう映画だもんね。
60歳のボクサーなんて、いくら映画の世界だってコメディにしかならないだろうと思って観に行ったら、これが結構心を揺さぶられる映画になっていたから驚いた。
60歳の男の心情が丁寧に描かれていたから、浮いた映画にならなかったんでしょうね。妻をなくして、息子には疎んじられ、経営するレストランで過去の栄光を語るだけの毎日の中で、何か心の中にまだくすぶっているものがある、って男のあなたなら十分にわかる気持ちでしょ。
待て、待て。俺はまだまだ60なんてはるか先だ。
でもそういう、うつうつした日常の描写があるから、60歳なんていう、サラリーマンなら定年になるような歳でまたボクシングをやるなんていう無謀な設定もバカにみえないのよね。
それにしても、しわが目立つとはいえ、あの年齢にしてあの体格は立派なもんだ。
体格だけは、あなたのほうがはるかに年上に見えるわ。
悪かったな。
ほんとはもう少し60歳らしく、どこかに故障をかかえていたり、練習で息が切れたりする描写があれば、もっと親近感が持てたんだしょうけどね。
そうそう。もう少し危なっかしい感じでリングに上がれば、最終ラウンドまで戦っただけで、ロッキーにとっては勝ちなんだっていう気分がもう少し盛り上がるんだけどな。
それって、第1作と一緒じゃない。格が上の相手と対戦するんだから負けてあたりまえっていうところを強調して、最後は勝負よりエイドリアンとの愛に焦点を持っていって感動の幕を閉じるっていう。
まあ、引退した60歳の男が現役のボクサーと戦うんだから、あそこまでがんばったっていうだけで、十分だけどな。
それが、実際のスタローンの役者人生と重なるから、よけい胸に沁みるのよね。
第1作でのしあがり、ここのところはほとんど引退状態だったのに、またあの歳でボクサー役をやるなんてな。
映画が始まる前上映していた予告篇がまた「ダイ・ハード4.0」。こちらも、ロッキーほどではないけど、いい年したブルース・ウィリスがいまだにやってるマクレーン。もしかして、海の向こうにも団塊世代とかあるのかしら。
とにかく、ロッキーはあの音楽が聴こえてくるだけで気持ちが高揚するからずるい。
たしかに、あの音楽の偉大さも再認識したわ。
でも、さすがにロッキーシリーズも、これで終わりだろうな。
いえいえ、わからないわよ。10年くらいしたら「帰ってきたロッキー」とか言って、老人ホームを舞台にしたボクシング映画ができるかもしれないわよ。
いやいや、10年後なら、ロッキーの息子が親の影響で立派なボクサーになっていて、一攫千金を狙う興行師がロッキー親子を対戦させ、息子にKOされたロッキーが「お前もようやく俺を超えたな」とか言いながらリング上で息絶える。きっとそんな感動的な映画になると思うな。
うーん、感動的かなあ。
やっぱり、ありえないかな。
青函連絡船がまた津軽海峡を走るのと同じくらい、ありえないと思うけど。
そうだな。いい夢見させてもらったよ。


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「ツォツィ」:台場駅前バス停付近の会話

2007-04-18 | ★虹01系統(浜松町駅~ビッグサイト)

あら、ゆりかもめって、無人運転じゃなかったっけ?
ああ、運転手がいるなんて珍しい光景だな。
安全対策か何か?
さあ、わからないけど、南アフリカの地下鉄に比べりゃ、ずっと安全なんじゃないのか。
って、どうしていきなり遠い南アフリカに話が飛ぶの?
いや、「ツォツィ」ていう南アフリカ映画に地下鉄が出てくるんだけど、その運転席の窓に金網が張ってあるような気がしたんだ。そういうものを張らなきゃいけないほど、南アフリカって物騒なのかと思ってな。
あら、そうだったかしら。全然覚えてないけど。
一瞬だから自信はないけど、しかし、あの主人公の少年が育ったスラム街はどうみても危険がいっぱいって感じだろう。
南アフリカの映画っていうから、アフリカを舞台にした最近の一連の映画のように、欧米の植民地政策が原因で現地の人々に災難が訪れるっていう映画かと思ったら、そういう映画とは毛色が違ったわね。
アパルトヘイトもなくなったいまの南アフリカを舞台にした映画だから、政治的な色合いより貧しい庶民の息遣いをすくい上げた、下から目線の映画と言ったほうが正しい。
スラム街で育ち、現地の言葉でツォツィ=不良と呼ばれる少年が悪事を働いているうちに偶然赤ちゃんを育てることになって良心に目覚めていくという物語・・・。
なんか、そう要約すると道徳映画みたいだけど、同じような貧民街の少年を主人公にしているからか、肌触りはブラジル映画の「シティ・オブ・ゴッド」に近い。ヒリヒリした緊張感が画面全体を覆っている。
でも、あっちは殺伐を絵に描いたような殺し合いの連続で救いがなかったけど、こっちはまだ希望がほの見える話よね。
何語かわからないけど、英語じゃなくて現地の言葉で喋ってるのがいいよな。ほんとうのリアリティを感じさせる。
だけど、一番驚きだったのは、お金持ちの黒人の登場。少年が偶然奪った赤ちゃんは、上流階級の黒人の子どもだったんだけど、その黒人がいたって良識的な黒人なのよね。別に驚くことじゃないのかもしれないけど、アパルトヘイトがなくなっても、人種差別とは別のところで、結局こういう形で貧富の差は残るのかと思うと、心が痛いわ。
でも、富豪vs貧民という図式じゃない。金持ちの黒人も少年を理解しようとするし、少年も金持ちを理解しようとする。そういう展開になっていた。
たしかにそうだわね。手を上げた少年を包んでいたのは、未来に対する希望の光だったわ。
南アフリカといえば、2010年ワールドカップの開催国だ。それまでには、いまよりもっといい国になっていることを祈りたいな。
ゆりかもめみたいな無人の電車が走っても安全な国にね。
おいおい、都バスに敬意を払うブログなのに、バスの話じゃなくて電車の話でまとめちゃっていいのか。
電車って言っても、ゆりかもめは線路もないし、正確には新交通システムということで、いいんじゃない?
そっか。


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