【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ボラット」:永代橋バス停付近の会話

2007-05-30 | ★東20系統(東京駅~錦糸町駅)

きれいなライトアップね。
永代橋だ。徳川幕府が末永く代々続くようにということから名づけられたらしい。
末永く、っていえば映画「ボラット」の正式タイトルみたいね。
どうして?
「ボラット」の正式タイトルは、「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」っていうのよ。末永くない?
ていうか、ただ長いだけだろ。しかも長いタイトルなら1967年のイギリス映画に「マルキド・サドの演出のもとに シャラントン精神病院患者によって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」ていうのがある。
それを言うなら1963年のアメリカ映画に「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」というタイトルの映画もあったわ。
ああ、スタンリー・キューブリックの映画だろ、あれは超がつくくらい傑作だった。アメリカとソ連の冷戦を一流のギャグでおちょくった政治コメディ。すべてを笑い飛ばした最後には盛大なキノコ雲が画面を包む。
それに比べると、同じブラック・コメディでも「ボラット」の笑いは大半が下半身ネタ。ちょっとうんざりしたわ。
いやいや、「ボラット」だって結構インテリ系の映画だった。
ボラットという名前のカザフスタンのテレビレポーターがアメリカに来て乱痴気騒ぎを起こして帰っていくだけの映画じゃない。
とんでもない。ユダヤ人をメチャクチャおちょくっているように見えるが、カザフスタン人役のこの映画の主人公は実際はユダヤ人だし、女性を差別している野蛮人のように見せて、実は差別している野蛮人はアメリカ人じゃないかとあばき出している。
だけど、マナーもなんにもない男なのよ。
見た目にはな。でも、よく考えてみると、何に対しても偏見を持っていないことがわかる。一方で一見善良なアメリカ人の何と偏見に満ちていることか。「真夜中のカーボーイ」とか「イージーライダー」のころとちっとも変わっていない。「真夜中のカーボーイ」のラッツォにつらくあたった中産階級や、「イージー・ライダー」のキャプテン・アメリカを射殺した南部人のように・・・。
ああ、それで「真夜中のカーボーイ」とか「イージーライダー」のテーマ曲が流れて来たのか。
なんだ、いまごろ気づいたのか。この映画の宣伝文句じゃないけど、ボラットはほんとに「バカには理解できないバカ」だな。
それにしてはギャグは低級だけど。まあ、人は好き好きだからいいけど、カザフスタン政府から抗議が来たりしなかったのかしら。
どうだろうな。頭の固い人間が見たら抗議したくなる場面の連続だもんな。頭が固いか柔らかいかの踏み絵になる映画かもな。
そうかしら。下ネタが好きか嫌いかの踏み絵になる映画だと思うけど。
それでおまえは、踏み絵を踏むのか。
もちろん。私が好きなのはこのライトアップした永代橋のように美しい映画だけよ。
わかってないねえ。ほんとうの美しさは、この映画のような汚さの中にあるってことを。
わかりたくもないわよ。


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永代橋バス停



ふたりが乗ったのは、都バス<東20系統>
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「しゃべれどもしゃべれども」:新川一丁目バス停付近の会話

2007-05-26 | ★東20系統(東京駅~錦糸町駅)

この橋は?
日本橋川にかかる豊海橋。
へえ、日本橋川なんていう名前の川があるんだ。
日本橋川は、このすぐ右で隅田川に合流する。
隅田川って、「しゃべれどもしゃべれども」の中で主人公の国分太一が遊覧船に乗った川じゃない。
東京の下町を舞台にした映画だからな。
国分太一扮する二つ目の落語家が、ひょんなことから素人たちを集めて話し方教室を開くことになる。
その教室に来るのが、いつも怒っているような表情の女、口ベタな野球解説者、関西から引っ越してきた小学生という、個性的な面々。
みんな、話がじょうずになりたくて、落語家ならじょうずな話し方を知ってるだろうと思って集まってくるんだけど、この二つ目の落語家も実は話ベタなのよね。好きな人に自分の気持ちも伝えられない。
みんな自分は話ベタだと思っているんだけど、そうじゃなくてコミュニケーションがヘタなんだよな。
自意識過剰で、素直に自分を出せない。もっと肩の力を抜けば楽なものを、つまらないプライドが邪魔して自分を表現しきれない・・・。誰もが思い当たるところのある話だと思うわよ。
結局、みんな相手を攻撃することでしかコミュニケーションが取れないんだけど、そんなことを繰り返しているうちに、ああ、こいつも自分と同じなんだと気づいてくる、相手に対する思いやりに目覚めてくるって話だ。
そんな話を、平山秀幸監督だから無理なく描いてくれる。
安心して観ていられるんだよな。監督の思い込みが激しくて、観客の側で余計なところに気を回して観なきゃいけない映画が多いなか、平山監督の映画はいつも「いったい何の話だろう」とか「どうしてこんなショットが入ってくるんだろう」と思うところが全然ない。すーっと胸に入ってくる。いまや貴重な映画監督だ。
落語家が主人公だから、落語のうんちくを延々と聞かされる映画かと思うかもしれないけど、そんなこと全然なくて、私みたいに落語なんか聞いたことのない人間にも落語の楽しさが十分伝わる出来になっていたわ。
落語を愛して愛して愛しすぎているから高座にあがるとかえって固くなって話がつまらなくなる二つ目の落語家を国分太一がイヤミなく好演している。クライマックスの高座で演じる落語の「火焔太鼓」なんてたいしたもんだ。
黄色い涙」を観たときも思ったけど、どうしてジャニーズ事務所の面々てああイヤミがないのかしら。ほんとに好青年。
彼に話し方を習いにくる女が香里奈。彼女も心根はいいのにふてくされた女を好演している。彼女が話し方教室で演じる「火焔太鼓」もまた、うまいとは言えないが、新鮮だった。女がやる「火焔太鼓」っていうのもいいもんだな。
どうしてこの二人が同じ演目をやるのかというと、ほのかに気持ちを通わしているってことなのよね。お互い話ベタということもあって恋仲というまではいかないんだけど。その微妙さが映画の品をつくり出して、いい感じなの。
下町風に言うと「露骨にラブシーンをつくるような野暮はしないのが江戸っ子ってもんよ」ってことだな。
そして、プロ野球解説者の男が、松重豊。阪神を首になったんだけど、関西から引っ越してきた小学生のほうは大の阪神ファン。ここでまたひと騒動が起きて結局は絆を深める。
松重豊って、「キャッチボール屋」でも野球選手くずれの役じゃなかったか。
がたいががっちりしてるから、いかにも体育会系って感じがぴったり役にはまるのよ。
そしてその小学生も落語の「まんじゅうこわい」を披露するんだけど、これがまためっちゃおかしい。
なんか、心にぽっと小さな火が灯るような映画だったわね。
この豊海橋のライトアップのようにか。
ええ。それも、全然押し付けがましくないってところがポイントね。


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新川一丁目バス停



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「14歳」:茅場町バス停付近の会話

2007-05-24 | ★東20系統(東京駅~錦糸町駅)

ずいぶんしゃれた建物だな。
トイレよ。
うそ!
公衆トイレよ。
へー、やっぱり都会のトイレは違うねえ。俺のトイレの思い出といったら、級友を押し込んだ中学校の小汚いトイレくらいなもんだもんな。
あなた、いじめっ子だったの?
いや、ただのいたずら坊主だ。映画の「14歳」に出てくる子どもたちみたいな陰湿なことはしたことないぜ。
うしろから級友をいきなりなぐるとか、ナイフで傷つけるとか、言葉の暴力を投げかけるとか?
ないね。あんな陰にこもった青春、なかったね。
たしかに映画の「14歳」の子どもたちは、笑顔もいっさいなく、言動も行動もやたら陰にこもってるわよね。今の14歳ってこんなにいつも陰隠滅滅としてるのかしら。
というか、学校とか親とかがあんな感じじゃあ、子どもだってやってられないよな、って気分になる映画ではあった。おとなたちに理解があるとかないとかじゃなく、たたずまいがイライラして、理由もなくキレたくなってくるという気分・・・。
何かやってられない具体的なできごとがあるっていうんじゃなくて、彼らを取り巻く世界の空気がやってられない感じなのよね。
そうそう、その空気が圧倒的に迫ってきて、物語で見せるというのでも、演技で見せるというのでも、映像で見せるというのでもなく、空気感で見せるという、きわめて珍しいタイプの映画だった。
強いて似ているタイプの映画をあげるとすれば、諏訪敦彦の「M/OTHER」みたいな感じかしら。
ああ、感触は近いかもしれないな。アップとか寄りサイズとかカメラのゆれが多いせいかもしれないが、かすかな息づかいとかわずかな気持ちの動きとかが肌に伝わってくる。
自分が14歳のときに学校で教師を切りつけた女性が26歳になって14歳の子どもたちの教師になっているという、かなり頭で考えたような設定なんだけど、画面に映っている女性は妙にリアルなのよね。映画女優という雰囲気が全然しない。
もうひとり、彼女の同級生の男が出てくるんだが、これもまた妙にリアルだと思ったら、なんと、廣末哲万監督が主演を兼ねていた。
この二人の男女と14歳の子どもたちを中心に話が進んでいくんだけど、起承転結というのでもなく、かといって点描の連続というのでもなく、何が起きても淡々と時間が過ぎて行く。
二人の男女が「14歳のときの自分を思い出せるか」という会話を交わすシーンがあるんだが、たしかに自分が14歳のときに何を考えていたかなんてさっぱり思い出せないもんなあ・・・。
教師になった女性が「あの14歳の中にあなたはいないわよ」って言われるシーンもあったわ。
つまり、おとなが「自分もかつては14歳だった」と言ったところで、いまの14歳を生きている子どもたちには何の説得力にもならない。
ひとことで言うと、わかった気になるな、っていうことなのかしら。
14歳と言えば子どもでもないし、おとなでもない。過ぎてしまった人間にとっては、別の生き物と思ったほうがいいってことかな。コミュニケーション不可能とは言わないが、そういう前提で対応しなきゃちゃんとした反応は返ってこないぞと。
それを物語としてではなく、空気感として見せていく。
実はラスト近くで男のほうが結論めいたセリフを言うんだが、この映画にはああいう結論めいた言葉はないほうがよかったかもしれないな。かっちりしたドラマとはつくりが違うんだから。
でも、校舎も最近はこの公衆トイレみたいにどんどんきれいになっていくのに、中学生の心はこんなに荒んでいるのかと思うと、なんだかつらいわね。
正直、汚いトイレの学校で遊んでたころが懐かしいよ。
そういう懐古趣味がいけないって言ってるのよ、この映画は。
はい、トイレに入って考えてみます。


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茅場町バス停



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「パッチギ! LOVE&PEACE」:兜町バス停付近の会話

2007-05-19 | ★東20系統(東京駅~錦糸町駅)

東京証券証券取引所かあ・・・。
戦後日本経済の心臓部ね。
でも、日本の高度成長の中で取り残されてきた人々もいるんだぜ。
例えば?
例えば、在日朝鮮人の人々とか。
井筒和幸監督の「パッチギ!」に出てきたような人たち?
ああ、朝鮮人少女と日本人高校生の愛を描いた「パッチギ!」。あの続編が「パッチギ!LOVE&PEACE」だ。
でも、続編っていうから、彼女と彼の恋の行く末を描いた映画かと思ったら、まったく別の映画だったんで驚いたわ。
「パッチギ!」の舞台は1968年の京都だが、「パッチギ!LOVE&PEACE」の舞台は1974年ごろの東京。「パッチギ!」の朝鮮人家族が東京に出てきたっていう設定だが、ほとんど前の映画とは関連のない話が展開するから純粋な続編とは言えないかもしれないな。
設定だけじゃないわ。前作は青春映画だったのに、今度はなんと、戦争映画じゃない。
そう、彼ら朝鮮人家族のルーツも同時進行で描かれるんだが、それがなんと戦時中の1944年、日本に徴用されかかった朝鮮人で、命からがら逃れた南太平洋でアメリカ軍の攻撃に遭って右へ左へ逃げ回る。国家に命じられた死よりかっこ悪く逃げ回ることを選ぶ。
明らかに朝鮮人の目線から、あの戦争での日本に批判を突きつける映画になっている。それに比べれば、前の映画は青春映画の形を取っているだけ、日本批判はまだオブラートに包まれていたわ。
そうだな。今回はそのオブラートがすっかり取れちゃった感じだ。佐藤元首相に関する発言とか、言いたいことはストレートに言ってやるっていう覚悟とエネルギーにあふれていた。
民族や戦争に対する視点もそうだけど、日本の映画会社がつくる戦争映画への批判もすごかったわよね。
「特攻隊員が命を犠牲にしたからいまの日本の繁栄がある」というテーマの映画を作ろうとする日本の映画人たちのエピソードがあるんだけど、それに対して「何アホ言うてんねん。死ぬなんて意味ない。逃げて逃げて逃げまくれ」と批判しまくっているような展開の映画だった。
「俺は、君のためにこそ死ににいく」のような映画への批判らしいんだが、それは観ていないからなんとも言えない。
でも、あなたの主催する最低映画鑑賞会の特選映画「男たちの大和」も同じような映画だったんじゃないの?
ああ、ああいう映画への批判だと考えると、溜飲が下がる思いだ。何度話したか知らないが、「男たちの大和」は大和の出撃は無駄死にだったっていう一番大事な点を巧妙にぼかしていた。戦争なんて無駄死にだっていう視点のない映画は、俺の心の中では最低映画鑑賞会推薦作品に分類せざるを得ない。井筒監督も同じような思いだと考えると一千万の味方を得たような気持ちだ。
だけど、井筒映画のトレードマークみたいになっていて、前作にも今回にもある、日本人と在日朝鮮人が入り乱れての乱闘シーンでは逃げ回る人間なんか一人もいなくて、明らかにその潔い態度を肯定しているのに、いざ、もっと規模の大きい戦争になったら尻尾を丸めて逃げろ、逃げろなんて、どこか矛盾してない?
全然してない。個人と個人の闘いと、国と国の戦いっていうのはまったく次元の違う話だ。個人の乱闘シーンは明らかに人と人のふれあいの一表現に位置付けされているが、戦争はただの殺し合いだ。その違いは監督の中でも映画を観てても明快だ。個人の乱闘シーンはどこか人間味に満ち、赤い血も体温を感じさせるあたたかな血だが、戦場での戦闘シーンは残酷一辺倒で、ここで映される赤い血は恐怖以外の何ものでもない。
その戦場のシーンもあまりにも本格的なんで目を見張ったわ。井筒監督って、人情映画専門じゃなかったの?
別に専門てことはないだろうが、この映画だって、一方で在日朝鮮人家族の人情話の部分は、前作にあった、猥雑であたたかな雰囲気をそのまま引き継いでいた。
その中で唯一、日本人役の藤井隆がいい雰囲気を出してるのよね。
彼は「カーテンコール」の幕間芸人もよかった。誠実な弱者をやらせるといま、彼にかなう者はいないかもしれないな。
そして最後には、在日朝鮮人家族のエピソードと戦争中のエピソードがみごとに一本につながっていくんだけど、このときのカットバックがすばらしい効果をあげている。
前作の「イムジン河」の歌をバックにしたカットバックと同じ構造だ。何かの雑誌で「ゴッドファーザーを思わせるカットバック」と絶賛されていたが、井筒監督は前作の成功で、明らかに味をしめた。
そういう意味では、映画の構造的にはたしかに続編と呼んでいいのかもしれないわね。
「LOVE&PEACE」というサブタイトルも当時の流行語を安易にそのまま付けただけだろうと思っていたら、そうじゃなかった。家族愛、同胞愛と平和について語った「LOVE&PEACE」としか言いようのない映画だった。
ところで、井筒監督自身は在日なの?
うーん、そこまでは知らないな。
東京証券取引所で聞いてみる?
何で?
あのマーク、見てよ。赤い血が飛び交って「パッチギ」つまり、頭突きを表わすマークみたいじゃない?
だから?
いや、だから、井筒監督のことわかるかも。
わからないと思うぜ。


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兜町バス停



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「約束の旅路」:日本橋バス停付近の会話

2007-05-16 | ★東20系統(東京駅~錦糸町駅)

日本橋から眺めた風景って、ずいぶん殺風景ね。
小泉前首相が高速道路を地下化したいって言った意味もわかるような寂しい風景だよな。日本橋っていやあ、日本の旅のスタート地点なのに。
そういえば、「約束の旅路」の主人公が旅を始めるスタート地点も、かなり殺風景だったわね。テントしかなくて。
だって、難民キャンプだからな。
スーダンの難民キャンプにいるエチオピア人の男の子が、ユダヤ人だけがイスラエルに脱出できると知って、本当はキリスト教徒なのに、母親と別れ、ユダヤ人になりすまして脱出してからの波乱に富んだ旅路の物語・・・。
最近、アフリカものって本当に多いけど、これもその一本というわけだ。
モーゼ作戦という、エチオピアにいる黒人ユダヤ人をイスラエルに送ろうとした1984年の事実を背景にした映画。アフリカではこんなこともあったんだという、感動的な人間ドラマだったわね。
まあ、母親と離れ宗教を偽って異国の地で生きていこうというんだから、そりゃ大変だとは思うけどねえ・・・。
なに、その煮え切らない感想。私たちの知らないところでこんなことが起きていたんだ、ってことをまたひとつ知らされたことに打ち震えるべきところなのに。
まあ、アフリカものといえば「ホテル・ルワンダ」にしろ、「ラストキング・オブ・スコットランド」にしろ、「ブラッド・ダイヤモンド」にしろ、「ツォツィ」にしろ、俺たちと同じ時代に地球の反対側ではこんな悲惨なことが起きているのかと、それぞれに深く考えさせられたのは事実だ。
でしょ。「約束の旅路」だって、同じ種類の映画よ。
そうはいっても、この映画の主人公の場合、イスラエルに脱出してからは、ものわかりのいい養父母に育てられ、素晴らしい恋人に恵まれ、医者という憧れの職業につくことができたんだから、いままでのアフリカものに比べれば格段に幸せなほうだろう。
幸せ?あなた、この映画のどこを観ているのよ。最初から最後までこの映画の主人公は、苦労と苦悩の連続だったじゃない。
そりゃ、親と離れ、出自を偽って生きていかなきゃならないんだから、我々惰眠をむさぼっている人間に比べれば大変な重荷を背負ってることには違いないが、いままでのアフリカものみたいな、想像を絶する悲惨さはない。
それは、そういう描き方を取らなかった監督の品性というものでしょ。
そうだろうか。切羽詰ったところがないというか、崖っぷちのところで作っていないというか、どうもどこか講談を語っているような、ツルリとした印象がこの映画にはあるんだ。他のアフリカものはどれももっと脂ぎっていた。
そうじゃないわよ。根本にあるのは宗教を偽って生きたってことだから、日本人の私たちには肌で感じることができない苦悩だってことなのよ。
それにしたって、展開がスムーズすぎて溜めがない。監督があふれる思いを吐き出したような圧倒的な描写がない。いままでのアフリカものにはあった「これだけは伝えなければ」といった気概にあふれたシーンがない。テレビの連続ドラマじゃないんだから、押すところは押して、飛ばすところは飛ばさなきゃ映画にはならないはずなのに。
厳しいなあ。自分には甘いくせに。たしかにテレビの大河ドラマみたいに、エピソードの繰り返しで、ちょっと物語を追うのでせいいっぱいなところがないこともないけど、でも、言いたいことは十分に伝わってきたわよ。
優等生的な話としてはな。でも、映像として心に残る部分といったら、おそらくファーストシーンとラストシーンだけだ。
それで十分じゃないの?
なあ、俺たちの前に広がるこの風景を見てみろよ。こんな殺風景な日本橋、見てられないだろ。日本橋っていう限りはもうちょっとそれらしい風情があっていいはずだ。それと同じで、どんな映画でも、映画っていう限りはどこか映画らしいキラリと輝く瞬間が必要なんだよ。それが足りないって言ってるんだ。
うーん、わかったような、わからないような・・・。
まあ、なんだな、アフリカものっていうだけで驚く時期はもう過ぎちゃったってことかもしれないな。
そんなわけわからないこと言ってるうちに日本橋も過ぎちゃったわよ。


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