【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ダークナイト ライジング」

2012-07-31 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


放射能汚染の心配はしなくていいのか。
それって、昔、火事の映画「タワーリング・インフェルノ」を観た人たちがほんとに怖いのは煙なのにその心配はしなくていいのか、って言ったのと同じレベルの疑問よ。
どういうレベルだ。
野暮。
そんなことはない。こういう時期だ。ひとことでもいいから、汚染がないくらい遠くへ行った、あるいは何かの手段を取ったっていうエクスキューズがほしかった。
ハリウッド映画にそこまでの機微を求めるのはムリよ。
じゃあ、最後のとってつけたようなクリスチャン・ベールのシーンはどうだ。
どういう意味?
どうとでもとってくれ、って解釈を観客に委ねてしまう、職場放棄的な監督の姿勢。「インセプション」のコマの再来か。
監督のクリストファー・ノーランはああいう謎を残す終わり方が好きなのよ、きっと。
悪役べインが実は・・・っていう種明かしもムリヤリ感がある。あれじゃあ、どんなに恐ろしげな様相をしていたって悪役としては結局小粒に見えてしまう。前作のジョーカーには及ばない。
見た目も「羊たちの沈黙」だしね。
残念ながら期待に届かぬキャラクター。
でも、クリストファー・ノーランならではのシャープな映像は今回も存分に楽しめる。
それは健在。試合中のアメフト場を端から爆発していく映像なんて、名作「ブラックサンデー」に貸してあげたいくらいの出来だ。
キャットウーマン、アン・ハサウェイも悪くない。黒の衣装に身を包み、想像以上にがんばっていた。
クリストファー・ノーラン好きには堪らない映画であることは確かだ。
問題は完全な続きものだっていうことね。初めて観る人にはわからない部分も結構あるんじゃないのかしら。
この映画、前作を観てから観るのが正解だな。
「ダークナイト三部作」いよいよ完結!と言いながら続編がつくられてもおかしくないような終わり方だしね。
 

「苦役列車」

2012-07-18 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


昔はいっぱいあったよなあ、同じようなところでグダグダ、グダグダしているだけの青春映画。
藤田敏八の一連の青春映画とか、神代辰巳の「アフリカの光」とかね。
そうそう。グダグダしてないで早くアフリカ行っちまえよショーケン、とか声をかけたくなるような映画。
でも、嫌いじゃないでしょ、こういう下層志向の冴えない青春映画。
だって、脈絡もなく動物ごっこだぜ。どうしてああいう発想が出てくるわけ?三池崇氏の「愛と誠」に並ぶくらいおったまげた趣向だ。
足を折った中年の歌う「襟裳岬」も相当きてたわね。
「俺は悪くない」とか、完全に行っちゃってる。
モテキ」の森山未来がまったくもてない中卒19歳を熱演すれば、「軽蔑」の高良健吾が爽やかな笑顔の専門学生を好演。対照の妙を見せる。
森山未来が憧れる女子大生を演じるのが前田敦子ってどうよ、と思うけど、案外このあっけらかんがいいのかもしれないと思い直したりして。
彼女も老人の介護のシーンや雨の中のケンカのシーンとかがんばってた。
がんばってるだけで、人格的な陰影が何にもない。からっぽの感じがかえって良かったかもしれないな。
昔の映画なら若いころの桃井かおりとか秋吉久美子が演じそうな役柄かもしれないけど、彼女たちじゃあ賢さが邪魔しちゃったかもね。
そして、高良健吾のガールフレンドの女子大生。こういう女、いたなあ。
インテリの仲間に入ったような錯覚全開のしょーもない頭でっかち女。
山下敦弘監督としては「マイ・バック・ページ」よりこういう女のほうが時代のリアリティを感じさせる。
森山未来が彼女に食ってかかる内容もおもしろいけど、結局負け犬にすぎない。
最後は「友達紹介して―」だもんね。
不器用を通り越してほとんど救いようのないバカ。
と言いながら憎みきれない。
場末の名画座にかかるような青春映画。
いまどき、こんな流行らない映画をつくる度胸だけでも買うね。

「エンディングノート」

2012-07-12 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

うますぎない?
映画が?
映画が。
砂田麻美監督は初めての作品だけど、プロデュースを是枝裕和監督がしているからね。いいアドバイスを受けているんでしょうね。
これまでに撮り貯めてきた家族ビデオも活用しながら、末期ガンの告知をされた、監督自身の父親の最期の日々を綴る。
といっても決して暗い映画ではなく、監督自身のナレーションも含めて、清々しささえ感じるポジティブなドキュメンタリーに仕上がっている。
そこが、長所でもあり短所でもある。
どういう意味?
とにかくポジティブにまとめようという意図はわかるけど、ほんとうはあっただろう死との葛藤や親子の感情にフィルターがかかってしまったようなところがある。
ところどころ深刻な場面も出てくるじゃない。
でも、そこを掘り下げようとする気はない。
そんなことしたら、別の性格の映画になっちゃうからね。
そう。監督の意図と違ってきちゃうからね。でも、ドキュメンタリーなんだから、我々が観たいのは監督の意図を超えてしまった何かをカメラが写す瞬間なんじゃないのか。それに怯えるように監督がカメラを傾ける瞬間。心揺さぶる映画には必ずそういう瞬間がある。
予定調和が過ぎると?
口当たりが良すぎる。何かポジティブすぎる感じ。
それは、あなたがポジティブじゃないからでしょ。
たしかに、最後の願いと言えば孫と会うことで、愛する家族に囲まれて静かに死を迎えて行くなんて理想的なエンディング、俺にはファンタジーでしかないからな。
ファンタジーじゃなくて、ドキュメンタリー。理想は、みんな、こういう形で終わりたいっていうのを実践している人がいた。そこに共感しているのよ。
そこを他人事に感じる人もいる。
「エンディングノート」というタイトルも含めて、いまみんなが望んでいるものを形にした監督のしたたかさはたいしたものだわ。
映画としてはうまい。
洗練されている。
洗練されすぎている。