
都電もいまや荒川線のみ。昭和の時代に都内を縦横無尽に走っていた都電たちはどこへ行っちゃったのかしら。

って、お前、いろんな町を都電が走っていた頃のこと、知ってるのか。荒川線だけになってもう35年だぜ。他の都電なんて、遠くの空に消えたようなもんだ。

なんか、映画のタイトルみたいなこと、言うわね。

「遠くの空に消えた」か。リリカルでいいタイトルなんだけどなあ。このタイトルで、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの神木隆之介と大後寿々花が主演だって聞けば、どんなにすがすがしい映画ができあがるんだろうって、何は置いても駆けつけたくなるじゃないか。

でも、監督が「世界の中心で愛をさけぶ」の行定勲だからなあ。

おいおい、そんな昔の傷を掘り返すようなことをいつまでも言うなよ。たしかにあの映画は内容の薄い映画ではあったけど、あれだけで行定監督を判断してもらっちゃ心外だ。

まあ、彼には「GO」なんていう傑作もあったし、ちょっと背伸びしちゃいました、っていう感じの「春の雪」もほほえましかったし、悪い映画ばかりじゃないわよね。

しかし、「北の零年」なんていう空疎な大作もあったぜ。

なに、それ。あなた、いったい行定監督を認めてるの、認めてないの?

だからさ、この映画はそんな彼が本当につくりたかった映画だっていうからさ、行定監督が本当にやりたかったことって、どんなことなんだろうって、興味があったわけさ。

そうなの?どうしてもやりたかったっていうほどのオリジナリティは見られなかったような気がするけど。

お前も言うなあ。そういう身も蓋もないこと言われちゃあ、行定監督としても身の置き場がないじゃないか。

そうかしら。私たちみたいな小市民が世界の片隅で何か叫んだって、全然影響ないと思うけど。

そう思って選挙に行かないやつがいるから、世の中はよくならないんだ。でも、今回の選挙でわかっただろ。庶民の一票は世の中を変えることができるんだって。

何の話してるの、あなた?映画の話でしょ。

いや、これは失礼。脱線した。しかし、都電は脱線しないのかな?あんまり聞いたことないけど。

その話も脱線よ。ひょっとして、あんまり語りたくないんじゃないの、この映画のこと。

正直言うと、何を言いたい映画なんだかよくわからなかったんだよな。リアリズムとファンタジーを融合させたかったのかもしれないけど、どっちつかずの映画になっていた。

ひとことで言えば、空港建設に反対する人々が暮らす田舎の子どもたちとそこへやってきた少年とUFOの存在を信じる少女が最後は友情で結ばれる物語、ってところなんだろうけど、それにしちゃあ、よけいなものが多すぎたわね。

少年少女の視点にしぼってシンプルなストーリーラインにすれば、「
天然コケッコー」並のいい映画になったろうに、おとなたちのエピソードが入ったり、画づくりがわざとらしく凝っていたりするのがかえってうっとうしい。

日本語とロシア語が混在するっていうのは、架空の町っていうつもりなのかもしれないけど、その割には妙にリアルだし。

がらくたの中にこれみよがしに置いてある薬屋のカエルなんて、ファンタジーとして提示しているのかリアリティとして提示しているのかよくわからない。

キャビンアテンダントのユニフォームがダサいのもギャグなのか本気なのかわからない。

シンプルがいやなら、もっとアナーキーに徹して混沌としたつくりにすれば、それはそれで、「田園に死す」の寺山修司や「黒猫・白猫」のエミール・クストリッツァの映画のように突き抜けた映画になったかもしれないのに。まったく惜しい。

それだけの勇気、あるいは度胸が足りなかったっていうことかしら。

映画のコンセプトをどこに置くか、もうすこしじっくり考えられなかったのかな。

おかげで、神木隆之介も大後寿々花も、いい子役なのに、ほとんどキャラクターを活かせる場がなかったわね。

行定監督には再チャレンジを期待したいね。

お前が遠くの空に消えろ、って言われないうちにね。

だから、そういう身も蓋もないことを言うなって。

でも、都電だって、消えろ、消えろと言われて消えちゃったけど、荒川線だけはしっかり生き残っているのよ。行定監督には荒川線みたいにがんばってほしいわね。

意味わからん。

それって、この映画のこと?
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