【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「デンデラ」

2011-06-29 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

想像を絶する映画だ。開いた口がふさがらん。
七十歳の老婆が全速力で走るんだもんね。
真っ白な雪山を熊に追われて、走る、走る。
しかも、それが正統派映画スターの浅丘ルリ子ときてる。
“MOTION PICTURE”の“MOTION”をいちばん感じさせるのは、人が走る姿だっていうのは俺の持論だけど、まさか七十歳の老婆がこんなに走るとは思わなかった。それだけでも、一見の価値がある。
楢山節考その後というか、生きる力にあふれていて楢山節考で成仏できなかった婆さんたちが立ちあがる物語。
草笛光子とか山本陽子とか倍賞美津子とか、あの年代の映画女優たちがぼろきれまとって勢ぞろいっていうのがなんとも圧巻だ。
ある意味、オールスター映画。
というか、オールドスター映画。昔は美貌を誇っていたスターたちが、スッピンだか老けメイクだかわからないけど、ぐちゃぐちゃの容姿で現れるだけで、スクリーンが異様な磁場を持った空間と化す。
彼女たちが自分たちを捨てた村の衆に復讐しようっていう話。
ところが、いつのまにか熊との対決アクション・ムービーに変わってしまう。
あの真っ黒な熊は、因習とか差別とか、老人たちに襲いかかってくるあらゆる災難の象徴なのよ。
そうかなあ。そんな哲学的な存在なら、もうちょっと神々しく描くとか不気味な存在感を示すとか、もっと気を使った登場のさせ方をしなくちゃいけないのに、ただの熊。相当ぞんざいな扱いだったぜ。
後半は、レンタル専用動物パニック映画の様相。
だろ?もう、ぐちゃぐちゃだ。
でも、そのぐちゃぐちゃさが大事なのよ。老いてなお生きるっていうのは、そういう美醜を超えた闘いに身をさらすってことだからね。
それって、なんか無理やり意味を読み取ろうとしてない?
してる。ほんとは、年取っても丈夫であれば、あれくらいアクションをこなせるんだっていう意味の、老人応援映画だった。
それもなんか無理してない?
じゃあ、どんな映画だったっていうのよ。
ヘミングウェイの「老人と海」ならぬ「老人と熊」。
それこそ、誉め過ぎよ。


「大丈夫であるように  Cocco終わらない旅」

2011-06-20 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

Coccoって、にわとり?
・・・言うと思った。沖縄出身の有名なシンガーよ。映画観てたんだから、わかるでしょ。彼女のコンサートを追った2008年のドキュメンタリー映画が「大丈夫であるように」。監督は「奇跡」の是枝裕和。
有名って言われても、俺は知らないよ。
無知だなあ。あなた、もしかして映画以外興味ないの?
ああ、映画だけしか頭になかった。
そんなあなたが、この映画観てどう思ったの?
澄んだいい声だよな。
それだけ?
天をめざすような、いい声だ。
それだけ?
いや、青森、広島、神戸、沖縄とコンサートツアーは続くんだけど、この地名を挙げただけで、ある種のメッセージが浮かび上がってくる。
青森で訪れるのは六ヶ所村。神戸で訪れるのは震災の慰霊碑、そして、広島、沖縄と来れば・・・。
何かの犠牲になった、あるいはなりつつある人々の町。
そこでCoccoの感じたことが、沖縄出身の彼女らしいことばで発せられる。
そして、彼女の歌う歌がその奥にある気持ちを訴える。
「六ヶ所村って沖縄みたい」というひとことが痛い。
何かのために犠牲にされる土地。2008年の映画なのに、3.11以降のいま観るとおそらく当時よりもっと自分ごととして心に突き刺さる。
何かの犠牲になってしまったという意味では、3.11以降日本中が沖縄になってしまったようなもんだからね。当時より大きな映画になってしまったかもしれない。
「花は咲かないのが世界だ」と思っていたのに、子どもたちのために「花は咲いてほしい」と思うようになったというつぶやきも、いま聞くと恐ろしく深く、激しく重い。
そして、最後、彼女がどうなったかという一行のテロップ。
のびやかな歌声の陰で、それほど彼女は全身で思い悩んでいたのかという衝撃。
アーティストは、世界の矛盾を一身に引き受けちゃうっていうからね。
そういう意味では、ほんもののアーティストなのかもしれないな。
映画ばっかり観ていては知らないアーティストだったでしょ。
映画ばっかり観ていたから知ったんだ。



「奇跡」

2011-06-11 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

初めての九州新幹線がすれ違う時、奇跡が起きる。
そんな噂を、親が離婚して別々に暮らす小学生の兄弟が聞き、もういちど家族四人で暮らせるよう、奇跡が起こる場所へ向かう。
果たして奇跡は起こるのか。親子は一緒に暮らせるようになるのか。
・・・なあんていうと、兄弟の願いが叶うかどうかっていうサスペンスで引っ張っていく類の映画かと思うかもしれないけど、感触はそういうドラマチックな映画とはちょっと違う。
「誰も知らない」の是枝裕和監督だからな。ストーリーで映画を引っ張っていくというより、スケッチの積み重ねのような散文的な感覚で映画を見せていく。
そういう彼の資質には、型にはまらない子どもたちの描写はぴったりはまる。
彼らの表情の、なんと生き生きしていること。
兄弟を演じるのが、有名なチビッコ漫才師のまえだまえだだからね。
実の兄弟。テレビに出過ぎでちょっと鮮度が落ちているかもしれないけど、達者なのは確かだ。
彼らの危なげないかけあいはもとより、同級生になる子たちがまた、自然。子どもの表情をすくいとるのが相変わらずうまいわね、是枝監督は。
この設定なら本来、兄弟はどうやって新幹線がすれ違う場を見つけるのか、新幹線がすれ違う時間に間に合うのか、そういったハードルを彼らの知恵でどう越えていくのか、というような冒険譚になりそうな話なのに、この映画はあくまで子どもたちの自然な振る舞いをすくい取るほうに視点を置いている。
だから、ピンチもさらりとチャンスになる。
新幹線がすれ違う描写も、もっとサスペンスたっぷりに描けそうなものなのに、わりとあっさりしている。
それよりも、その瞬間、挿入される日常の風景。あそこに、あの今は亡き市川準の方法論を思い起こさせるような映像を挟み込むことで、この映画の力点がはっきりする。
「奇跡」というのは、日々の暮らしの中にあるんだよ、っていうこと。
ゴールではなく、プロセスの中にあるんだよ、ということ。
映画の中にさりげなく谷川俊太郎の詩が出てくる意味もここでわかる。
奇跡を待つのではなく、奇跡の意味を知る瞬間。
そこで兄から放たれることばは、父親のオダギリ・ジョーからきいたひとこと。
ちょっと父親の言い訳にも見えるけど、子どもには別の力を持つことばになる。
ちょっとだけ、彼も成長したってことだよな。
同じような日常が続くけど、彼の中には同じではない日常が訪れているっていうことね。
そして、ファーストシーンと呼応したようなラストシーンに至る。
樹木希林の孫娘が出てるのは愛嬌かしら。
どうせなら旦那も出てほしかったな。
そんなことしたら、両親の離婚の話じゃなくて、じっちゃんばっちゃんが離婚するかどうかの話になっちゃうじゃない。
ああ、あの夫婦の実生活の姿こそ「奇跡」かもしれないな。





「軽蔑」

2011-06-06 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

宣伝チラシのフレーズは、「世界は二人を、愛さなかった」。素晴らしく映画的なキャッチコピーだねえ。
悲劇へ向ってひた走る恋人たちの姿が目に浮かぶよう。
そして、この映画、文字通り開巻直後、若い二人が世界に追われるように新宿の街を疾走する。その姿を延々と追う横移動のカメラワークが、感動的に素晴らしい。
長回しは、廣木隆一監督のトレード・マークだからね。
そして、遠景からのロング・ショットと間近に寄る手持ちカメラの絶妙のコンビネーション。
映画になってる。
主演の鈴木杏、高良健吾もここが勝負とばかりの熱演。
鈴木杏、一世一代の体当たり演技。
新宿一の踊り子にしてはスタイルがいまいちだなあ、っていうのはあるけどね。
逃げた先は、高良健吾の故郷。
都会から遠く、血縁、地縁でがんじがらめの和歌山県新宮市。
この場所の人間関係に対する違和感を鈴木杏が感じるところから二人の関係が崩れていく。
どうしようもない人々に取り巻かれていく感じはよくわかるんだけど、いまひとつ、アリ地獄感が足りないかなあ。
アリ地獄感?
もちろん、故郷で待っていた人間関係のグズグズ感はよく出ているし、その頂点にいる大森南朋の怪演は相変わらず見せるんだけど、せっかく場所を都会から離れた町に設定しているんだから、その土地の持つ薄気味悪い引力のようなものがもう少し噴出してもいいと思った。
原作者の中上健次の映画でいえば、熊野を舞台にした「火まつり」なんていう映画もあったけど。
あそこまで奇っ怪に描くことはないけど、田舎の人たちではなく、田舎のどんよりした空気自体が持つ、べたっとまとわりついて離れない、アリ地獄のような感触がもう少し浮かび上がってきてもよかった。
それが二人に悲劇をもたらす根っこってことだからね。
借金っていうのは、それが現実的な形をとったにすぎない。
若い男が、この広い世界で新宿と故郷の新宮しか知らないなんて、悲しすぎるけどね。
女のほうは両親がいない。つまり、故郷さえない。
「世界は二人を愛さなかった」・・・そういうことね。
大森南朋が叫ぶ「何でおまえばっかり愛されるんだよ」は、その逆説。
だから「こうなることはわかっていた」。
うん、わかっていた。
観客にもわかっていた。
だから、クライマックスの後の五分は余計だ。
あれは、ゴダールの「勝手にしやがれ」を気取ってみたかったんでしょ。
余計だって。物語は五分前で終わっているのに、「踊る大捜査線 レインボーブリッジを封鎖せよ!」みたいに、だらだらと監督の思い入れを見せられてもしらけるばかりだ。
ということは、この映画は・・・。
そう、またしても俺の嫌いな「だらだらエンディング症候群」。
最近でいえば「ジーン・ワルツ」もそうだって言ってたわね。
もっとスパッと終われないもんかねえ。観客を信用してないのかな。それとも、そういうエンディングを“軽蔑”してほしいのかな。
せめて、私たちの与太話は、スパッと終わりましょ。
はい。



「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」

2011-06-04 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

いやあ、これには、うなった。
ムッソリーニを愛した女性の壮絶な半生を描くマルコ・ベロッキオ監督のメロドラマ。
耽美派ベルナルド・ベルトリッチが鳴かず飛ばずになってしまったいま、イタリア特有のシャープな艶めかしさを感じさせる映画なんてもう過去のものだと思っていたら、こんなところから現れた。
マルコ・ベロッキオって、イタリア映画界ではすでに巨匠でしょ。名前は知っていたけど、いままで一本も観たことなかった。恥ずかしくて、穴があったら入りたいわ。
それにしても、この圧倒的な映像の力はどうよ。主演女優、ジョヴァンナ・メッゾジョルノのギリシャ彫刻の女神のごとき顔立ち、路上を逃げ惑う群衆たちのあとから現れるときの堂々たる足取り、雪降る鉄格子から撒かれる紙片。これはもう、マルコ・ベロッキオ版「暗殺の森」だ。
時代の熱狂を根こそぎもぎとるように、画面にたびたび現れる熱にうかれたような文字列の異様さ。
ファシズムの嵐を、リアリズムではなく、火傷するほどのメロドラマで描き切ろうとするたくらみ。
時代を描くとはこういうことなのよね。乱暴にいえば、吹っ切れているか、吹っ切れていないか。
そう、この映画、乱暴過ぎるほど吹っ切れているんだけど、その底には確固たる技が横たわっている。
光の差し具合の絶妙さひとつとっても、陶然とする。
愛し合ったはずのムッソリー二が、彼女に愛想をつかしてからは、ニュースフィルムの中にしか出てこないっていうのも確信犯のやり口。
しかも、本物のムッソリーニの姿。
いま見ると明らかにうさんくさい人物なんだけど、あの頃は誰もが熱にうなされてしまった。
彼女はその彼の幻影をいつまでも、いつまでも追う。
・・・なんていうと、やっぱりメロドラマなんだけど、この物語を通じて浮かび上がってくるのは、そういう時代のはらんだ“熱狂”そのものというところが凄い。
彼女の息子はムッソリーニの演説を真似た揚句、精神を病んでしまう。時代の暗喩にもなって、その迫力がまた圧倒的。
こういう映画を観てしまうと、同じような闘争の時代を描いた「マイ・バック・ページ」がどうして物足りなかったのかよくわかる。
開巻直後、ムッソリー二がたった五分で見せてしまう欺瞞とカリスマ性。それに比べると松山ケンイチのハッタリもやっぱり弱々しいわね。
モデルになった人物の格が違うんだから当たり前と思うかもしれないけど、映画としての強度の問題なんだ。
ジョヴァンナ・メッゾジョルノも悲惨な最後を迎えるのに、妻夫木聡のように決して涙を流したりしない。
マイ・バック・ページ」の山下監督は、「時代を描いたんじゃなくて、人を描いたんだ」って言うかもしれないけど、人は時代とは切り離せないからね。
この二本、観比べてみるのも面白いかもしれないわね。
熱にうなされた時代の映画つながりだな。