【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「テルマエ・ロマエ」

2012-06-27 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


ダメだ、こりゃ。
いきなり、否定から始まる?阿部寛が古代ローマ人を演じるなんて、目のつけどころがいいじゃない。
それだけ。
古代ローマを再現したセットもみごとなものじゃない。
それだけ。
つまりあなたは、古代ローマの風呂職人がいまの日本にタイムスリップするっていう奇想天外なアイデアにノレなかったっていうわけね。
アイデアはおもしろいけど、それ以上じゃない。
でも、あの濃い顔立ちの阿部寛が裸一貫、ローマ人を演じるっていうだけで、相当おもしろいわよ。
阿部寛の体は弛緩してないけど、映画は弛緩しきっている。
いちどは彼を西洋人の中に立たせてみたいっていう、みんな薄々望んでいたことを実現しただけでも、拍手喝采ものよ。
それだけじゃ、映画として成立しない。
周囲を固める俳優にも、市村正親とか北村一輝とか、濃い顔の面々ばかり集めて愉快じゃない。
これだけの個性派俳優をそろえているんだから、もうちょっとドラマも濃くしてよかったろうに。
コメディなんだから、こんなもんじゃないの?
たしかに、「こんなもんじゃないの?」感があふれている。
そうかしら。結構がんばっていると思うけど。
あれ、いま自分で「こんなもんじゃないの?」って言ったばかりだぜ。
売り言葉に買い言葉よ。
ローマの町並みだって、あれだけ存在感あるセットがあるんだから、もうちょっとそれを生かす撮影のしようがあったろうに。フェリーニには遠く及ばない。
あたりまえでしょ。高望みしすぎよ。
そんなことはない。これだけの素材を集めておいて、監督はどうしてもっと志の高い演出をしなかったんだ。
そんな肩肘張ったってしょうがないじゃない。基本、コメディなのよ。
コメディかどうかといった問題じゃない。映画になっているかどうかっていう問題だ。
意固地な映画ファンは、テレビの演出家が演出するとすぐそういう色メガネで見る。悪い癖よ。
そうかな。例えば、阿部寛のタイムスリップ・シーン。「ミッドナイト・イン・パリ」のしゃれたタイムスリップ・シーンと比べてみれば、どれほど陳腐で大仰な演出かっていうことがありありとわかる。
どうして、そんな名人の映画と比べるかなあ。
例えば、営業が終わり灯りを落とした浴場で風呂のアイデアを一人静かに考えていたら風呂場の天井から一滴の水が滴り落ちてきて、見上げたらもう日本の銭湯に変わっていた・・・なんていう演出はどうだ。そうすれば、涙につながる伏線にもなる。
スペクタクルはないけどね。
凡庸なスペクタクルより刺激的だ。
そうかしら。
そうかと思うと、阿部寛と上戸彩が太陽を見る場面。彼らが視線を上げるとなぜか彼らの目線での太陽にはならず、風景全体の引きの絵に切り替わる。それはないだろう。
そんな目くじら立てるほどのことかしら。これだけ大ヒットしているってことはみんなが満足しているってことよ。
でも、その誰もが、映画的魅力には目覚めない。
どういう意味?
映画的な感覚を刺激するものがほとんどないんだ。だから、映画の持つ魅力に目覚め、また能動的に映画を観に行こうっていう気には誰もならない。せいぜいこの手の話題作があったらまた観に行くかもね、程度だ。惜しい。
ずいぶん手厳しいわね。どうしちゃったの?
こういう映画を手放しで誉めたら日本映画がダメになると思ってさ。
あまのじゃくなだけじゃない。


「愛と誠」

2012-06-23 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


インドなんか行かなくても三池崇史はしっかり仕事してるでしょ。
俺が「ロボット」の感想で「三池崇史も、インド行きゃあ、やりたい放題できるんじゃないか」って口走ったのをまだ根に持っているのか。
根に持っているんじゃなくて、日本にいたって工夫次第じゃ、こういうぶっ飛んだ映画がつくれるってことよ。
三池崇史、インド映画に負けるなとばかり、歌と踊りで勝負してきた。
別にインド映画を意識しているわけじゃないと思うけど。
あそこまで金かけてないもんね。
でも、あのコテコテの純愛劇画「愛と誠」をコミカルで猥雑なミュージカルにしちゃうんだから、驚いた。
ミュージカルというか、昭和歌謡大全集というか、ワケわからないけど、俳優たちが学芸会ノリでいきなり歌い出す。
その選曲がみごと。
どれも手垢のついた昭和の流行歌ばかりなんだけど、物語につかず離れずの微妙な位置関係の曲を選ぶことで、一線を保った。悪趣味承知のセンスの冴えに驚かされる。
もちろん、誰が歌うかにも関わってくるんだけど、目を見張るのは伊原剛志。クリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」ではバロン西の役をシリアスに演じていた本格俳優・伊原剛志が、あんな歌をあんな振付で歌っちゃっていいわけ?今後の仕事に影響出ない?
それを言ったら、斎藤工だって、あんな歌をあんな振付で歌っちゃっていいわけ?空に太陽がある限りまともな役はできないんじゃない?
それを言ったら、安藤サクラだって、あんな歌をあんな振付で歌っちゃっていいわけ?ガムのCMには一生出れない。
それを言ったら、一青窈だって、あんな歌をあんな振付で歌っちゃっていいわけ?もう「ハナミズキ」なんてきっと「鼻水キ」としか聞こえないぜ。
それを言ったら・・・ああ、もうきりがない。みんな、今後の仕事に影響出ないの?大丈夫?
主要な出演者全員が自分のテーマを歌い踊るんだけど、それがみんなはまってるというか、はみだしてるというか、呆然とするしかない。
呆然、そして自失する。
思考停止に陥った我々を蹴散らすように映画は突っ走っていく。
前後を考えない、吹っ切れたような臆面のなさが素晴らしい。
そして彼らの姿をきっちりと映画として定着させる三池崇史の演出が素晴らしい。
量で鍛えた腕前が質へと転化する。節操もなくダテに乱作しているわけじゃないっていうのがよくわかるのが素晴らしい。
グッとくる場面はちゃんとグッとくるのが素晴らしい。
あの素晴らしい愛をもういちど。
武井咲、首の曲げ方、最高。
釣り堀での岩清水君の告白、最高。
斎藤工、結構おいしい仕事してるかも。
実は主役の妻夫木聡がいちばんまともな役で割を食ってたりして。
刺身のツマブキ。
・・・って、やめなさい、くだらないダジャレは。
やめろと言われても、いまでは遅すぎる

「この空の花 長岡花火物語」

2012-06-17 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

大林宣彦、やりたい放題。
のっけから息つく暇もない松雪泰子のナレーションの氾濫。
テロップもつける、つける。
2時間40分という長尺なんだけど、それでも語りつくせないことがあるとばかり、あらゆる手段を総動員して情報を詰め込む。
おかげで「HOUSE」と「理由」を足して2で割らないような奇妙な味わいの作品ができあがった。
というか、一時期「尾道三部作」のような真っ当な映画をつくっていた大林宣彦も、最近は奇妙にゆがんだ映画ばかり好んでつくるようになった。
この年になると怖いものはないんだろう。初期の作品にあった野心が戻ってきたというか、地を出してきた。
サブタイトルどおり、有名な長岡の花火大会をフューチャーした映画なんだけど、戦争犠牲者を弔うというこの花火大会の来歴から、明治維新の長岡の歴史から、原爆と長岡の関係から、花火のできるまでから山下清から、山古志村の地震から、こんどの大震災にまで話を広げるからもう映画はひっちゃかめっちゃか。
もちろん、時系列で処理するわけではないし、松雪泰子も狂言回しに徹するわけではないし、大林監督が好みそうな若い女優が一輪車で出てきたりするし、思いついたことは全部映像にしている感じだ。
それで話がこんがらがるわけではないし、言いたいことは伝わるからいいんだけどね。
むしろ、この年齢にしてこれだけ創作意欲に燃えているっていることに感心すべきかもしれない。
新藤兼人と真逆の意味においてすごい。
これだけは撮らなきゃ死ねないって脅迫観念かな。
そこまで悲壮感のある映画ではないけど、松雪泰子が最初から最後まで顔をしかめているのには、ちょっと引いたわ。
もう少しユーモアというか、ヌケがあってもよかった。
「尾道三部作」ならぬ「長岡三部作」にすべきボリュームを一気に突っ走っちゃったっていう感じね。
おかげで満腹だ。
嫌いじゃないけど。

「ミッドナイト・イン・パリ」

2012-06-16 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


ウディ・アレンなら何でも許される。
今回は、恋人とパリを訪れた男が自分だけ1920年代にタイムスリップしてしまう話。
もちろん、ウディ・アレンだから派手な特撮とかはいっさいなし。馬車に乗っただけで、ひょいっと時間を越えてしまう。
そこで出会うのが、ヘミングウェイやフィッツジェラルド、コール・ポーターといった歴史的な作家や作曲家たち。
そしてピカソやダリ、マティスといった著名な画家たち。
ウディ・アレンが、この錚々たる有名人たちに映画の中で好き勝手なことを嬉々として喋らせている。
台本を書きながらニヤついているウディ・アレンが目に浮かぶようだ。
やんちゃなウディ、健在ね。
みんな、それぞれにそれらしいのがまた、ウディ・アレンならでは。
でも、さすがにお年を召されたか、昔の映画のように本人は出てこない。かつてのウディ・アレンのような立ち位置にいるのは、若いオーウェン・ウィルソン。
それが正解かもな。嫌味がないから、結構ペダンチックな話なのに鼻につくようなところがなく楽しめる。
そして、いちばん輝いていたのは、ピカソの愛人になるマリオン・コティヤール。
“昔はよかった”とばかり、さらに過去へと主人公を誘う。
“昔はよかった”はいつの時代でも思うこと。それより、いまのパリを楽しまなくちゃ。
雨のそぼ降るパリもいいもんだ。
で、私たちはいつ行くの?
行かない。
っていうか、行けないんじゃないの?
どうして?
先立つものがなくて。
うーん・・・正解。

「ファミリー・ツリー」

2012-06-15 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


家族の話なのに、なぜか長女のボーイフレンドがからんでくる。
それで物語がどうなるってわけでもないんだけどね。
でも、実はそこが脚本のうまいところで、彼がひとりいるだけで映画に豊かなふくらみが出た。
家族だけだと息苦しくなるところだけど、彼がいることで空気穴のような存在になっている。
そんなに爽やかな少年じゃなくて、むしろどうしようもない少年なんだけどな。
物語は、ハワイに住む弁護士ジョージ・クルーニーの妻が事故で昏睡状態になるところから始まる。
うろたえるジョージ・クルーニーに、眠ったままの妻の浮気の問題とか、先祖から残された広大な土地の処分の問題とか、反抗的な娘たちの問題とかが一気に降りかかってくる。
スター、ジョージ・クルーニーが冴えない中年を生活感たっぷりに演じるところがミソね。
サンダルつっかけてペタペタ走るところなんか、最高だ。
妻の浮気相手の家に行って、彼が怒りにまかせてとっさに取る行動がまた秀逸。
精一杯の復讐、ってやつだな。
アレクサンダー・ペイン監督、絶好調ね。
シチュエーションもいい。
悠久の大地、ハワイ。BGMにはゆるやかにハワイアンが流れて、ニューヨークあたりが舞台だったらギスギスした話になりそうなところを穏やかな空気が救っている。
もがこうがわめこうが時間は等しく流れて行くっていう気分が、さりげなくこめられる。
ラストのぬくもり。
これが家族の物語であることをストレートに象徴するいい幕切れだ。
とてもいい幕切れ。