【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「シャネル&ストラヴィンスキー」:新橋駅前バス停付近の会話

2010-02-20 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

この豪華な建物は、何だ?
昔の新橋駅を再現した建物よ。
へえ。あの当時としてはモダンな建物だったんだろうなあ。
シャネルやストラヴィンスキーがモダンだったようにね。
ストラヴィンスキーなんて、モダンすぎて、公演は人々から不評を買っちゃった。
そこに手を差し伸べたのが、当時すでに飛ぶ鳥を落とす勢いのココ・シャネル。
忙しくてどこにいるかもわからない。ココ・シャネル、どこシャネル?
あー…あなたはシャネルに落とされる鳥にもなれないわね。
そ、俺はどうせ、焼き鳥になるのがせきの山の男さ。
それに比べるのも不遜なほど、ストラヴィンスキーには才能がある。
シャネルは、その才能に惚れちゃうわけだ。ストラヴィンスキー、大スキーって。
才能のない人のたわごとは差し置いて、この二人の顛末を描いた映画が「シャネル&ストラヴィンスキー」。
とにかく、シャネルが凛として強い。援助してやるとか言って、家庭を持っているストラヴィンスキーを夫婦、子どももろとも自分と一緒に別荘に住まわせて、平然とストラヴィンスキーをものにする。
ストラヴィンスキーの奥さんは苦悩するしかない。
シャネルの侠気にストラヴィンスキーもたじたじだ。
ふつうは、男女逆よね。名声の差がなせる技かしらね。
そして、シャネルはこの音楽家を踏み台にしてのしがっていく。
そういうわけでもないでしょ。シャネルのおかげで、私生活はともかく、ストラヴィンスキーの公演は成功するんだから。
でも、エンド・タイトルのあとのシーンを見ると、明らかにシャネルは男を踏み台にしてのしあがっていくイヤミな女に思えるぜ。
延々とタイトルが続いたあとのシーンでしょ。エンド・タイトルが終ったあとにああいうシーンを付け加えるって映画として卑怯じゃない?
タイトルの途中で席を立つやつはアホだよ、って上から目線で言われているみたいで不愉快だよな。
そうそう。こんな小細工しないでもっと堂々とやってよ、て思っちゃう。
そうかと思うと、最後のほうは「おまえは『2001年宇宙の旅』か」ってチャチャを入れたくなるような展開になっちゃう。
なるほど、シャネルは、女版スター・チャイルドだったってわけね。意味わかんないけど。
いいんだ、これは芸術なんだから、と監督は思っているんだろうな。ファーストシーンでストラヴィンスキーの公演がブーイングを受けるように、この映画自体がブーイングを受けようと、おのれの信じる道を曲げちゃいかん、と。信念の女を描く信念の映画。
そう、一切の妥協をしないところにシャネルの5番も生まれたんだからね。
俺たちみたいに才能のない庶民はただ、モダンな建物を眺めるように、芸術家たちの苦悩をボンヤリと眺めていればいいってことだ。
あら、“俺たちって”って一緒にしないでよ。
はい。…って偉そうに、お前はシャネルの親戚か。
ネルのシャツなら持ってるけどね。




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ふたりが乗ったのは、都バス<市01系統>
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「フローズン・リバー」:国立がんセンター前バス停付近の会話

2010-02-17 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

この下を走る高速道路、昔は運河だったらしいわよ。
きょうみたいに寒い日は、凍ることもあったんだろうな。
文字通り「フローズン・リバー」ね。
アメリカ映画の「フローズン・リバー」は、セントローレンス川だったけどな。
凍りついた冬の川を、不法移民を乗せた車が渡っていく。
ここの高速を走る車みたいにな。
それはないでしょ、日本の場合。
そうかなあ。
お金のために、不法入国者の運び屋をやるのが50歳近くなる白人女性。メリッサ・レオが渋く演じてる。
この映画の演技でアカデミー賞にノミネートされた。
いまは、古いトレーラーハウスに住んでいるんだけど、幼い子供たちのために、新しいトレーラーハウスを買いたくて、つい悪事に手を染める。
日本では、トレーラーハウスを家族で暮らす家にするなんて、あまり想像できないけどな。
こういう、地に足がついた家さえ持たない暮らしをしている人たちって、実際、アメリカにはたくさんいるんでしょうね。
マイケル・ムーア監督の「キャピタリズム マネーは踊る」で暴かれた格差社会の底辺にいる人々を劇映画で再現したような真実味がある。
そして、もうひとりの主役が先住民、モホーク族の女性。ミスティ・アップハムという、生活感ある女優が演じている。
こちらもまた、つつましやかなトレーラーハウスを住処にしている。
先住民ってことで、居留地が与えられているんだけど、アメリカの恥部を見せまいと隔離されているようにも見える。
少なくとも、幸せにはほど遠い。
この異人種同士がひょんなきっかけから手を組んで運び屋をやるうちに、気持ちを通わせていくという物語。
お互い、幼い子供を抱えている母親同士って部分では、肌の色に関係なく通じ合うものがあったってことだ。
そのあたりの心の変化は、パキスタン人の赤ちゃんを運ぶエピソードを通して、くっきりと浮かび上がってくる。舌を巻く脚本もまた、アカデミー賞にノミネートされた。
さまざまな人種の人たちが出てくるんだけど、誰ひとり幸せとはいえない。人種のるつぼ、アメリカの実態を凝縮して見せられているようで、寒々としてくる。
凍てついたセントローレンス川の荒涼とした光景がまた、こういう物語にふさわしい味わいをもたらすのよね。
でも、最後にはほのかな希望も垣間見せて、この監督、ちょっと隅に置けない。
コートニー・ハントっていう新人女性監督、その腕は決して凍てついていなかった。
寒い日に観るのは、お勧めしないけどな。




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「ラブリーボーン」:築地市場正門前バス停付近の会話

2010-02-13 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

ここは、築地の魚市場。
魚って、骨があって面倒なんだよな。
そんなこと、ないでしょ。骨にだって栄養はあるし、愛すべき骨たちよ。
愛すべき骨たち?ラブリーボーンか。
ラブリーボーン?それって、ピーター・ジャクソン監督の新作のタイトルじゃない。
冬のトウモロコシ畑で殺された14歳の少女が、この世とあの世の狭間から残された家族や犯人の行く末を見守る物語。
天国でもなければ、この世でもない。その間にいるっていうのがミソよね。
成仏できん、ってやつだな。
オカルト映画じゃないから、犯人に怨念を抱いているとか、復讐を果たそうとか、そういうことじゃないけどね。
恋人と別れて悲しいとか、家族の心配をするとか、いたって乙女らしい死者の悩みだ。
“乙女の祈り”ね。
彼女の体験する異世界を「ロード・オブ・ザ・リング」の監督がイマジネーションの限りを尽くして描く、壮大な光景が最大の見どころだ。
そうかなあ。どんなに脅威的な光景でも、全部CGだと思うといまさらたいした驚きもないわ。
そんなこと言って、「アバター」には興奮していたくせに。
あれは別格。残念ながら、あそこまでクリエーティブなイマジネーションがピーター・ジャクソン監督にはなかったっていうことね。
じゃあ、やっぱり少女が現実世界で経験する猟奇殺人のほうが映画的には魅力的か。
魅力的ってことはないけど、あの殺人犯、薄気味悪くて相当きてるキャラクターだったなあ。
ああいうバカっぽい死に方をさせるには惜しい人物だよな。
本来、「羊たちの沈黙」や「セブン」といったダークスリラーになるべき話なのに、妙に明るい幽霊ものになっちゃったっていうところかしら。
そこが、この映画の独創的なところなんだけど。
でも、どっちつかすの映画になっちゃったような気がするなあ。
難しいところに挑戦した心意気は買ってあげようぜ。
まあ、骨のない映画じゃなかったからね。
そう、そう。ラブリーボーンな映画だった。





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「おとうと」:築地五丁目バス停付近の会話

2010-02-10 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

こんなところに踏切?銀座に踏切があるとは知らなかったなあ。
これは、昔、このあたりに線路があった名残よ。
踏切なんて、都内ではめっきり見かけなくなったな。
そんなことはないわ。池上線の石川台駅にもこういう踏切があるわよ。
山田洋次監督の映画「おとうと」の舞台になった坂の町か。
吉永小百合が賢姉で、笑福亭鶴瓶が愚弟を演じる。
「男はつらいよ」と真逆の設定。
弟のやんちゃぶりは、寅さんそのものよね。
姉のところにふらりと現れては騒動を起こし、またふらりと去っていく。
店の前まで来ていながら、素直に中に入らないで、店先から奥をのぞきこむところなんて、何度見た光景か。
でも、「男はつらいよ」と違って、周囲の反応ははるかに冷たい。
冷たいというより、厳しいってことだろうけど、実際にあんな男が親戚にいたら、とらやの人々みたいにやさしくばかりしてられないわよ。
そう、そう。なんだかんだ言って、「男はつらいよ」はメルヘンだったけど、この「おとうと」は、ほんとに寅さんみたいな男がいたら、こんな惨めなことになるぞっていう真実味を帯びた話。
前半は、「男はつらいよ」以前の「吹けば飛ぶよな男だが」の頃の山田洋次映画に戻ったような印象よね。
温かみより残酷さのほうが勝っているような力技の喜劇。
一方、後半は、名前こそ違え、実在するホームレスのためのホスピスが出てきたりして、懐かしや、山田洋次の共同体好みが顔を出す。
でも、渥美清が生きていたら、「男はつらいよ」はこういう形で終わらせたかったんじゃないかって気もする。
とくに、ラスト、吉永小百合が笑福亭鶴瓶を看病するシーンなんて、倍賞千恵子と渥美清でやっていたら、「男はつらいよ」シリーズもきちんと締めくくることができたんだろうに、って思っちゃう。
“市川崑の「おとうと」に捧ぐ”っていう献辞が出るけど、“渥美清の「寅さん」に捧ぐ”っていうほうが大きい。
でも、観客は昭和の人ばかり。この人たちがいなくなったら、こういう映画を観る人も途絶えちゃうんでしょうね。
撮る人もいなくなっちゃうさ。
東京から踏切がなくなっていくようにね。
カン、カン、カンていう音が消えるのは寂しいねえ。
あーあ、あなたもどっぷり昭和の人ね。





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「インビクタス 負けざる者たち」:浜離宮前バス停付近の会話

2010-02-06 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

恩賜庭園?恩賜って何だ?
天皇から賜ったって言う意味よ。
サッカーの天皇杯みたいなもんか。
ちょっと違うと思うけどね。
サッカーとラグビーなら同じようなもんか。
まあ、どちらもワールドカップがあるほどの世界的競技ではあるけどね。
しかし、知らなかったなあ、南アフリカでラグビーのワールドカップが開かれていたなんて。
しかも、ネルソン・マンデラが深くかかわっていたなんてね。
そのへんの事情は、クリント・イーストウッド監督の新作「インビクタス 負けざる者たち」を観るとよくわかる。
アパルトヘイトで27年間投獄されていたネルソン・マンデラが解放されて大統領になったらラグビーチームを強くして国をひとつにしようとする。
ところがそのラグビーチーム、アパルトヘイトの時代には白人社会の象徴として黒人たちからは忌み嫌われていた。
白人に迫害されていたマンデラだからまさかそのチームを存続させるとは思わなかったのに、存続させるどころか、国民の気持ちをひとつにするために強化する。
「白人になくて我々にあるのは寛容だ」とか言って黒人たちを巻き込んでいく。
そう、マンデラが目指しているのは、白人の国でも黒人の国でもなく、両方の尊厳が保たれる国なのよね。
白人たちに27年間も投獄されていたのに、恨みのひとつも吐かず、たいしたもんだ。
大統領を取り巻くSPにも、黒人と白人の混成チームを配したりして自ら融和をはかる姿勢を見せる。
彼らが、最初は反目しあっていたのに、最後は肩寄せあってラグビーチームを応援するようになる。
そして、国民全体も、黒人も白人もなく、祖国のチームを応援し始める。
やっぱり、オリンピックとかワールドカップになると、みんな一丸となって自分の国を応援しちゃうもんなあ。スポーツの力ってすごいよなあ。
それをわかってたマンデラがまた、すごい。あの信念は、やっぱり迫害の歴史の中で培われたものかしらね。
で、それをこういう映画にしたイーストウッドがまたすごい。
あ、ようやく監督の話になってきた。
あれだけの偉人を描くのに、イーストウッドの演出はいつものように淡々としたものだ。
決して、感情に溺れたり、話がぶれたりしない。ただ物語ることをきっちりと物語っていく。
だから表面的な伝記映画にはならない。血の通った人間のドラマになる。
サスペンスを撮ろうが、戦争映画を撮ろうが、隣近所の話を撮ろうが、こういう政治やスポーツの話を撮ろうが、すべて傑作にしてしまうというのは、どういうことかしらね。いい意味で、あいた口がふさがらないわ。
天才監督というのは、スタンリー・キューブリックのように美術に凝ったり、フランソワ・トリュフォーのように題材が恋愛に偏ったり、みんな独自の映像スタイルを持っているんだけど、イーストウッドには、そういう独特のスタイルがあるわけでもないんだよな。なのに、撮る映画、撮る映画、みんな傑作になってしまうのが凡人には信じられないところだ。
結局、映画の基本に忠実だっていうことかしらね。
それ以上、へんな色気を出さないことで、かえって映画に色気が出てきてしまうのかな。
ファーストシーン、道をはさんだ右と左で、ただ黒人たちはサッカーをして、白人たちはラグビーをしているだけのシーンなのに、それで映画のテーマをすべて感じさせてしまう、とかね。
これで年齢は79歳だぜ。怪物だ、怪物。
いま、世界の映画監督に天皇杯をあげるとしたら、ぶっちぎりでイーストウッドしかいないわね。
いない。





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